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サイドストーリー1: 継(けい)の声

この物語は、本流では書ききれない、しかし物語全体にとってとても大切なエピソードです。そこで今回は、サイドストーリーというかたちでまとめることにしました。分量的には短編というより中編に近くなりましたが、それだけ、描きたいことがたくさん詰まっていたのだと思います。


語り継がれる言葉。「意味はわからなくても、声にすることに意味がある」というテーマを中心に、ひとりの少年の成長と、小さな村に根づく祭礼の風景を描きました。彼の語る声が、やがて遠く離れた場所にいる博士の心を動かし、眠っていた知の扉を開く──そんな流れの中で、「継ぐ」という行為の重みを改めて描いてみたつもりです。


今回、私は自分のこれまでのスタイル、いわばハードSFらしい厳格な書きぶりとは少し違う、小説的な筆致にも挑戦してみました。情景や人物の感情にじっくりと寄り添いながら、読む人の心に残るようなものにしたいと思ったからです。


ユンという少年のまっすぐな声が、あなたにも届けば嬉しいです。そして、この物語が終わったその先に、彼の「読み」が、どのように本編へと繋がっていくのか──その続きを、ぜひ一緒に見守っていただけたらと思います。


挿絵(By みてみん)


塔の石段には、ほのかに夜の冷たさが残っていた。


少年は、いつものように紙を両手にそっと抱え、塔の第三段に腰を下ろす。街の人々がまだ目を覚ます前、彼の声だけが空気を揺らす。


ラ・タナス リヴァナ コール・ヘナス。

ネム・オーン……ソルミア・ヴァレス……

声は静かに塔の壁を撫で、空へと上がっていった


抑揚の位置、区切り、節の上がり方。

間違えると祖母に叱られる。


昨日も、ひとつの言葉を七度やり直した。

だが今朝は、声がよく響く。

空が、きれいだ。


彼が読み上げているのは、「継の紙」だ。

もとは塔の奥の砂の中に埋まっている石板——「エル・ナフ」と呼ばれる粘土板——に刻まれた文字を何代にもわたって写し取っているものだと祖母は言っていた。


意味は分からない。ただ、語ることが大事だと教わってきた。

この塔を守る家系の者として、それが務めなのだ。


朗唱が終わる頃、街の遠くで犬が鳴いた。

少年は「継の紙」を静かに折りたたみ、腰に下げた小さな布袋におさめた。


石段から立ち上がると、足元に冷たい風が吹き抜けた。


振り返って塔を見上げる。

古く、黒ずんだ石。だが、その中に古い粘土板が眠っている。


「また明日な」

そう、小さくつぶやいてから、少年は坂道を下り始めた。


塔の影が、彼の背中に長く伸びていた。


◇◇◇


少年は、祖父の隣にある石縁にそっと腰を下ろした。


午後の風が、ひさしの下の吊り紐を撫でた。

草の匂いと、窯の煙のような微かな熱の香りが混ざっていた。


「じいちゃん。『エル・ナフ』って、ほんとうはなに?」


祖父は目を閉じたまま、わずかに頬を緩めた。


「それはな、ずいぶん古いもんや。おまえが生まれるよりも、ずっと、ずっと前の話やで」


少年は足を抱えてじっと聞いた。


「わしが小さい頃な、塔の中を掃除しとったときや。床の一角、石が並んでない土のところを箒で掃いてたら、なんや柔らかい場所があってな。

手で少し掘ったら、そこに板が埋まっとったんや。

土を焼いたような板や。ほんのり温もりの残る色でな、見たこともない記号がずらっと刻まれてた」


「それが……『エル・ナフ』?」


「そうや。だれも読まれへん。でもな、昔の塔守がそう言うとったらしいんや。『これは神の声や』ってな。読むことに意味がある、って」


「意味がないのに?」


「意味がなくても、声にせなあかん言葉がある。……というより、意味がわからんからこそ、語りが残ったんやろな」


祖父は背を伸ばし、風にそよぐ細い吊り紐を見つめた。


「それをな、ある時、誰かが紙に写した。今のおまえが読んどるやつや。ほんまは読めるもんちゃう。けどな……おまえの声を、塔がよう響かせるんや」


少年は、「継の紙」を取り出して小さく読んでみせた。


祖父の目がわずかに細まる。


「その声は、ただのまじないとちゃうで。わしにはわからんけどな。塔の石の奥には、まだなにか、眠っとるんかもしれん」


◇◇◇


その翌日だった。朗唱を終えて家に帰る途中、少年は空を見上げた。


西から東へ、風とは逆向きに、細く白い線が天を裂いていた。

あまりにも早く、音もなかったが、それは確かにあった。

何かが空を横切った。金属のような、影のような、けれど鳥ではない「なにか」だった。


少年は走って家に戻り、母親にそれを話した。

けれど、母はただ笑って、「空を見すぎて目がちかちかしたんやろ」とだけ言った。

──大人は、空なんか見ないのだ。


次の日、学校でその話をしても、ほとんどの子は笑って終わった。

けれど、サエルとミノリだけは違った。

「それって、すごく速くなかった? 音せえへんかったんちゃう?」

「白い尾、見えたやろ? なんかこう、空に線が引かれたみたいな」

ユンは思わずうなずいた。

「うん。そう、まさにそれや」

サエルとミノリは顔を見合わせ、少しだけ息をのんだ。

「……たぶん、見た。わたしも」

「おれも。なんか、おかしいと思った」

そのとき初めて、ユンは誰かが自分の「見たもの」を分かってくれた気がした。


少年たちは話し合い、村の北にある小山に登ることにした。

「高いところから見れば、何か見つかるかもしれへん」


午後遅く、三人は小さなリュックに水筒を入れ、駆けるようにして坂を登っていった。

空は青く、風は遠く、何も見えないままだった。

それでも、彼らの目はずっと空の彼方を追っていた。


◇◇◇


それから、二日ほどが過ぎた。


ユンたち三人は学校の帰り道、見慣れた小山の上に立ち止まっていた。

西の空に薄く広がる雲の奥、何かが流れ星のように走った。

誰も気づかなかった。けれど、ユンたち三人は、その瞬間を静かに見上げていた。


その日は空気が乾いていた。


それは、落ちた。


線を引くように、弧を描き、ひときわ明るく閃いてから、森の端へ吸い込まれるようにして消えた。


ユンはしばらくその場所を見つめていた。

風が止んで、鳥の声だけが遠くで聞こえた。


その夜、彼はサエルとミノリを呼び出した。


「また見えたよね?」とミノリが言った。

「でも今度は『落ちた』ってことやんな」とサエルが興奮気味に言った。


三人は村の外れ、小山のふもとの森へ入った。


草の音を避けながら、石を踏まずに歩く。

ユンは薄明かりの中、目を凝らして地面を見ていた。


やがて、サエルが何かを指差した。


「……なあ、これ、何か焼けてない?」


木の根元に、焦げたような丸い痕。

中心には、銀色に光るものが引っかかっていた。


ユンはそれを見て、言葉を失った。

それは明らかに人の手で作られたようだった。


「落ちてきたんや」

ミノリがぽつりと言った。


ユンはその場にしゃがみ込み、ゆっくりと「それ」に手を伸ばした。


そのとき、小山の向こう側で、何かが一瞬だけ光った。


「これは、誰にも言わんとこな」

ユンがそう言うと、サエルとミノリはほとんど同時にうなずいた。


夜に小山に登ったなんてばあちゃんや母さんに知れたら、ただじゃ済まない。森には入るなと何度も言われているし、それに、何よりも「あれ」を見つけたことが、何か特別すぎて言葉にできなかった。


拾ったのは、金属とも石とも言えない質感の四角い破片だった。

大きさの割に重く、冷たく、触れるとしっとりとした感触がある。焼け焦げた一部の表面を指でこすると、そこから青白い石のような光が鈍く現れた。


三人はそれを囲むようにして座った。


「これ……なにかの卵の殻かも」とミノリが言った。

「空から落ちてきたってことは、鳥か?」とサエルが続ける。


ユンは黙っていたが、目だけはその破片の裏をじっと見ていた。

そこには、小さく細い文字のようなものが書かれていた。見たこともない線の連なり。


「これ、呪文みたいやな」

サエルがぽつりとつぶやいた。


三人は声を潜めた。


読むことも、意味を知ることもできない。

でもそれが、知らない何かに触れてしまったという高揚感をくれた。


三人にとって、それはただの破片ではなかった。

間違いなく、この世界の外からやってきた秘密の宝物だった。


◇◇◇



風の抜ける薄明かりの部屋で、ユンは祖父と並んで座っていた。


炉の火は灰に沈み、器の湯気も、すでに空気に溶けかけていた。

だが、祖父の手にはいつもの紙束があり、ユンの膝にも同じものが置かれていた。


「今日は、読み比べしてみよか」

祖父が言った。


ユンはうなずく。


祖父がゆっくりと口を開いた。


ガナ レーヴォ アスタン ナルミヤ……


耳慣れているはずの節なのに、祖父の声になると違って聞こえた。


「ちょっと間のとり方がちゃうやろ?」


ユンは同じ一節を、今度は自分の口で繰り返す。


ガナ……レーヴォ……アスタン……ナルミヤ。


「うん、それや。じいちゃんが教えてもらった節はな、もっと間が長かってん」


「ほんとはどう読むの?」


「ほんとは……わからんのや」


祖父はそう言って笑った。


「この言葉はな、村の言葉やあらへん。まったく違う言葉や。でも昔の人らが、なんとか音を当てはめて、意味もわからんまま残してきたんや。読めとるように聞こえるように」


ユンは手元の紙を見た。

小さな記号が、踊るように並んでいた。


「ギャーテーギャーテー、ハーラーギャーテー……って知ってるか?」

「なにそれ?」

「昔の経文や。『ぎゃーてい ぎゃーてい はーらーぎゃーてい はーらーそうぎゃーてい ぼーじーそわか』ってな。意味は誰にも分からん。でもずっと読み継がれとる。たぶんな、この『エル・ナフ』も、そんなもんや」


「意味はなくても……読むことが、大事?」


「そうや。読むというより、『語る』こと。声にすることがな」


祖父はそう言って、もう一度ゆっくりと読み始めた。

ユンも追いかけるように、節を口に乗せていった。


レーヴォ サニヤ エスト……アラン……テム……


その声が、しんとした家の中に、重なるように響いていた。


塔の影が長く伸びる夕暮れ時、ユンは祖父と塔のふもとに並んで腰を下ろしていた。


風が弱く吹き、石段の隙間に積もった埃を揺らしていた。


「じいちゃん、『エル・ナフ』は、なんで土に埋まったままにしてるの?」


ユンがぽつりと聞いた。


祖父はしばらく黙ってから、小さく息をついて答えた。


「……あれはな、ずっとずっと、このままおいとかんとあかんもんや。土に埋めておくのが一番ええ」


「なんで?」


「そのほうが、何年経っても、何千年経っても、そのまま残るんや。焼かれた土やからな。水にも風にも、よう耐える」


ユンはうなずいた。


「でも、紙があるやろ。ちゃんと読めるし、伝わる」


「そうや。この紙があるから、おまえとわしで読める。今、この村でも、この国中でも、これを読めるのは……たぶん、わしとおまえだけや」


「他の子に教えたらあかんの?」


「……あかん。いろんな人が知ったら、だんだん変わっていってまう」


「変わったらあかんの?」


「変わらんように伝えなあかんのや」


「なんで?」


祖父は少し笑って、首を振った。


「……わからん。でも、そう教わったんや」


ユンは塔を見上げた。

その上の石には、たしかに千年前からこの場所にあるという印が刻まれている。


「この塔は、千年も前からあるんやろ?」


「そうや」


「でも、『エル・ナフ』は、もっとずっと前からあるん?」


祖父は黙ってうなずいた。


「……誰が作ったん?」


「……わからん」


ユンはふっと息を吐いた。

そして心の中で思った。


──このやりとり、もう何回目だろうか。


◇◇◇


惑星セリネア軌道上、第三監視ステーションでは、小さな騒動が起きていた。


無人探査機アステリオン7のログに、わずかな異常が記録されていた。

外装の一部が大気摩擦で焼損し、地表へ落下した可能性が高いという。


問題なのは、その落下物だった。

耐熱セラミック合金。セリネア文明には存在しない複合素材。

さらに、パネル裏面には製造番号が刻印されており、万が一現地住民に見つかれば、それが「この星のものではない」と気づかれる可能性があった。


監視チームはアステリオン7の飛行経路と異常時刻を解析し、軌道上カメラの記録との照合を開始した。

確認の結果、落下地点近辺の小山に向かう三人の子供たちを映像で確認した。


「拾ったな、間違いなく」

主任のモニター担当がつぶやいた。


落下地点に入り、一定時間を過ごし、何かを拾って戻る──その一連の動作は明確だった。


だが、直接接触や介入は厳に禁じられていた。

したがって、チームは該当個体に対する局所監視を強化することで対応するしかなかった。


三人のうち、明確にその物体を保管・携帯している様子が観測されたのは一人。

名前:ユン。


彼は村の教育施設に通う年少者で、午後になると毎日「塔」と呼ばれる古い石造構造物の階段に一人で座り、何か紙のようなものを手に朗読を繰り返していた。


監視員のひとりが言った。

「言葉……か? あれは歌か、祈りか……?」


記録された音声を回収・解析するプロトコルが並行して走り出す。

まだ、ただの村の少年だ。

だが、問題が起きるとするなら、まずここからだろう。


監視ステーションでは、その日の終わりから数日間、ユンという少年に監視重点が置かれることになった。


◇◇◇


アディティ・カプール博士は、ネメシスの居住区を歩いていた。


通路脇の壁面モニタに、どこかの風景が静かに映し出されている。


その中に──ふと、ひっかかる映像があった。


石段に腰かけた少年。

紙のようなものを持ち、口元を動かしている。


どこかで見たことがある仕草だった。

──あれは……


ふと、彼女の脳裏に浮かんだのは、かつて惑星セリネアで、無人探査機が現地人の集落で記録した、あの塔の階段に座る少年だった。

細い手に紙を持ち、意味のわからぬ言葉を、節のある声で語っていたあの少年。


彼はいま、どうしているのだろう。


何の前触れもなく、記憶と記録が強く接続した。


アディティはすぐに手元のタブレットを開き、セリネアの監視データのアーカイブへアクセスをかけた。

「あのとき、あの少年が読んでいた詩、もう一度確認したい」


その瞬間、ある語の節回しが、「前・人類」の音節に重なる。


雷のような衝撃が、アディティの胸を打った。


──あの少年が語っていたのはセリネアの現地のことばではない。まさに「失踪」した文明が残した記録そのものだったのだ。


「ヘリオス、セリネアの塔近辺で観測されている少年の詩を、全文でモニターするように現地監視チームに伝えて。すぐに」


指示は、セリネアの監視ステーションへと光速で飛んだ。


ステーションの主任は受信メッセージを開いた瞬間、思わず声を漏らした。

「これ……まさに、いま監視強化中の少年のことじゃないか」


主任は即座に、過去数日の朗読記録の音声データを抽出し、アディティのもとへ転送要求を発信した。

セリネアからネメシスまでは、光速通信でも応答に半日近くを要する。

音声ファイルがネメシスに届いたのは、アディティが仮眠から目覚める少し前のことだった。


彼女は受信通知に気づくと、静かに再生を始めた。

……レーヴォ、アスタン、ナルミヤ……


ヘリオスは、ユンの声を言語パターン群に照合しながら、慎重に構文を補完していった。


音節のいくつかは変形し、節の区切りにも揺れがあった。

だが、繰り返し語り継がれてきたその響きの底には、かつての記録体系の骨格が確かに残っていた。


完璧に伝わったのではない。

だが、それでも──意味は届いた。

ユンたちセリネアの「塔守」たちの伝承が、まさに六万年の時を経て花開いた。


──我らは、地を離れたり──

──戻る道なき旅を、星々のほとりにて果たす──

──記録を刻み、これを継ぐ者に託すものなり──

──声をたどる者よ──

──ア─ルセイデスへの鍵は、最後の節にあり──

──声を絶やすことなかれ──

──節を乱すことなかれ──

──響きこそが、扉を開かん──


アディティは椅子の背にもたれ、目を閉じた。その手は微かに震えていた。


六万年の沈黙が、いま、小さな声で語りはじめたのだ。


◇◇◇


祭文の日が近づくにつれて、村の空気は心なしか静かになっていった。


夕方の風は、いつもより少し冷たく、塔の影も長く伸びて見えた。


ユンは、祖父の隣で石段に座りながら、手元の紙を読んでいた。

だが、いつもの朗読とは少し違う。


「もっと、間を大事にせえ」

祖父が低く言った。


「この節は、『聞かせる』んや。自分で意味がわからんでもええ。音が、ちゃんと止まって響くように、間をあけるんや」


ユンは黙ってうなずき、もう一度同じ節を読んだ。


アスタン……ナルミヤ……セト……ヴァリア……


祖父はしばらく目を閉じていたが、やがてうなずいた。


「明日で通しや。全部、読む」


ユンは、塔の奥から持ち出された長い巻物のことを思い出した。

あの中には、彼が毎朝読んでいるよりも何倍も長い文が収められていた。


「全部って……どれくらい?」


「わしは半日がかりやった。

ましてやおまえは、はじめてや。のど、もたせろよ」


その言い方に、少しだけ笑いが混じっていた。


村の人々も、何とはなしに準備を始めていた。

塔の周りの草が刈られ、石段が拭かれ、古い灯籠に油が足されていく。


「昔はもっと人が集まったらしいよ」

サエルが言った。


「今でも誰か来るん?」とミノリが聞く。


「知らん。でも、うちのじいちゃんは『あれは声をつなぐ日』やって言うてる」


ユンは、紙を胸に抱えたまま空を見上げた。


何のために読んでいるのだろう──そう思った。


じいちゃんに聞いたところで、たぶん「わからん」と笑うだけだ。


でも……なんか、空が聴いてくれてる気がした。


塔の先には、まだ昼の青が残っていたが、星の気配も、かすかに混じっていた。


◇◇◇


朝の光がまだやわらかく、塔の石がわずかにぬくもりを持ち始めたころ、ユンは衣装の襟元を整えながら、深く息をついた。


胸のあたりがそわそわしている。


それは風のせいでも、朝露のせいでもない。


今日、ユンはひとりで「エル・ナフ」を読む。


全文を。


通しで。


祭礼のなかで、最も古く、最も大切な「読み聞かせ」を、初めて任される。


これまで、節ごとに祖父と交代しながら読んできた。

祖父が最初に節回しを整え、ユンがそれに続いて一節、また一節と重ねる。

その響きは、塔の内壁に染み込んでいくようだった。


だが今日――最初の「ガナ・レーヴォ」から、最後の「セリス・アラン」まで、すべての語を紡ぐのはユンだけだ。


ばあちゃんは今朝、温かい汁の入った椀を置きながら「のどを冷やしたらあかんよ」とだけ言って、そっと肩をさすってくれた。


かあさんは、「紙、忘れんときや」と三度言った。

──忘れるはずないのに。


祖父はもう何も言わなかった。ただ背中をぽんと叩き、いつものように先に塔に向かっていった。


ユンは少しだけ立ち止まる。


空は晴れていて、東の丘にかかる雲も薄い。


ふと、脳裏をよぎる。


──リラは、来てくれるだろうか。

ちょっと口が悪くて、からかってばっかりだけど、ほんとはやさしくて……

声が、すごくきれいなんだ。


ユンは、そういうところが、なんかずっと気になっていた。


どうか見ててほしい。

自分が、ちゃんと読めるところを。


彼女が「カッコいい」って思ってくれたら──


……それだけで、今日はすごくいい日になる。


でも失敗したら?

声が詰まったら?

順番を忘れたら?

節が乱れたら?

リラが笑ったら? それとも──目をそらしたら?


そう思うと、ちょっとだけ膝が震えた。


ユンは塔の麓に立ち、深く一礼した。


これは決まりごとじゃない。祖父の真似だ。


でも、こうすると、塔がちゃんと受け入れてくれる気がした。


塔の階段には、もう人が集まり始めていた。


村の長老たち。子ども連れの家族。外れのほうには、木箱を椅子代わりにするおばあさんたちもいる。


小さな広場の中央には、白い布で覆われた朗唱台。


そのそばに立つ祖父が、目を細めてユンにうなずいた。


衣装はまだ大きい。

でも、今日のユンには、不思議と似合っている気がした。


五年前、初めて「エル・ナフ」を人前で読むと決まったとき、

ユンは祖父に言われて、朝の塔で毎日練習をしていた。


石段の三段目。

まだ日の昇る前、空がうっすら白みはじめるころ。


紙を胸に抱え、小さな声で節を唱えた。

ときどき言葉を間違え、ときどき風に声が負けた。


祖母に「もっと腹から出しなさい」と言われ、

祖父には「間違えても、最後まで読むことが大事や」と言われた。


あのとき、ユンは知らなかった。


自分の声が、塔の石にだけ届いていたのではないことを。


あのとき、遥かセリネア軌道上。

探査船オミクロンの無人探査機によって、「塔の階段に座る少年の朗唱」が自動記録されていた。


その様子が、アディティ・カプール博士の目にとまった。


意味のわからない言葉。

紙を見ながら、ひと節ずつ紡がれる響き。

祈りとも、歌とも知れない、ゆっくりとした、節回し。


そのリズムは言語学者の心に深く刻みこまれていた。


ユンは今も知らない。

その小さな声が、文明と文明を繋ぎ、その危機を救うことになるとは。


◇◇◇


「……語りの儀、始めます」


長老の声が風に乗り、広場に落ちる。


ユンは台の上に立ち、巻物を胸に抱える。


耳の奥で、自分の鼓動が聞こえた。


手のひらに滲む汗。


目の前の文字が、ほんの少しだけ掠れてで見える。


白布の張られた朗唱台の下、

人垣のなかに、リラの姿があった。


誰に話しかけるでもなく、まっすぐにユンを見ていた。


真剣な眼差し。

でもどこか、ふふっと笑い出しそうな目。


そのとき、リラのなかにふと浮かんだ情景があった。


──もしユンと結婚したら、きっと子どもにもこの「読み聞かせ」をさせるんやろうな。

彼女は少しだけ目を伏せた。

どうしてそんなことを想像したのか、自分でも分からなかった。


それでも、ユンの声を聞いていると、なぜか胸の奥があたたかくなった。


この声を、未来でも誰かが聞いていてほしいと──そう思った。


そして、もし自分がその「誰か」を産むなら、それも悪くないと思った。


まだ小さな手で紙を抱えて、朝の石段で声を出して練習する。


「もっと腹から声を出せ!」ってユンが言って、

その横で、自分が「緊張してんのやろ、ほっといたり」と笑ってる。


そしてその子が大きくなって、孫ができて──

また、今のユンみたいに一生懸命に節を覚えて、

塔の前で声を張る日が来るのかもしれない。


そのとき、今見ているユンは──

白髪になって、目尻に皺を寄せながら、きっとあの子のおじいさまと同じ目で孫を見てる。


リラは少しだけ目を伏せた。


どうしてそんなことを想像したのか、自分でも分からなかった。


でもその未来が、どこか、とても自然なものに思えた。


ユンは、口を開いた。


最初の節──


ガナ……レーヴォ……アスタン……ナルミヤ……


空気が変わる。


塔が音を抱く。


沈黙のなか、声がひとつ、またひとつと積み重ねられていく。


祖父の顔が見える。


うなずいている。


そのとき、ユンは思った。


──これは、意味がわからなくても、ちゃんと届くものなんだ。


自分の声が、空へ、塔へ、そしてそのもっと遠くへ向かって響いているような気がした。


塔の上に陽が射してきた。

その光がユンの衣装に反射し、まるで小さな羽根のように風に揺れていた。


リラは胸の奥が少しだけ、ぎゅっとなった。


──この声が、誰にも知られず、ただこうして続いていくだけの世界も、いいな。


誰にも邪魔されず、指図もされず、評価もされず、

ただ、語られて、聞かれて、忘れられずに、続いていく。


いつか誰かが、もう一度この声を聞いてくれれば、それでいい。


◇◇◇


──これは、意味がわからなくても、ちゃんと届くものなんだ。


そう、確かに──それは届いていた。


はるか上空、セリネア第三監視ステーション。


セリネア監視チームは、アディティの指示を受けて即座に動いた。


注意深く少年の行動を監視し、ついに祭礼における全文朗読のセッションを抽出した。

音韻と構文の明確な区切りを確認しながら、精度の高いクリーニングとタグ付けが施された。


ラベル:【ユン/祭礼朗唱/完全詠唱データ】


圧縮されたデータは、「ネメシス」のアディティに転送された。


軌道モジュール内でそのパケットが解凍されたとき、アディティはすでに再生指示を出していた。


「再生。映像・音声、同期で」


ヘリオスのスクリーンに、朗唱台に立つユンの姿が浮かび、抑揚のある詠唱が再び空間を満たす。


「再生、ループで」


ヘリオスは応じ、ユンの節回しを淡々と再生し続けた。


──レーヴォ、アスタン、ナルミヤ……サニヤ……テム。


その構文の抑揚”と間が、アディティの記憶を強く揺さぶった。


「ヘリオス、音韻変調とリズムパターンを、前・人類ノードの音節系列と照合して」


「一致率、初期段階で68%。構文重複比が高く、接続形の変化も一致しています」


「意味は?」


「翻訳フレームを通して解釈可能です。解析開始します……」


数秒の処理の後、ヘリオスが返したのは──物語だった。


「彼らは、地球を離れた。

決して戻れない片道の旅路を、星々へ向けて──」


文字としてではなく、音韻と音節のパターンとして埋め込まれた意味が、

構文単位で復元されていく。


それは「前・人類」が各星系へと拡散していった記録。


死に絶えた仲間たち。

いくつかの星系で咲いた文明の再生。

そして──


──カザレオンとの遭遇。


銀河の東縁、沈黙の渦の中で、

人類はついに、自らとは異なる知性と出会った。


文明的成熟を果たしていたカザレオンは、惜しみなく知識を人類と共有した。


記録技術。

星間観測。

そして──


構造体「アルセイデス」。


知識の核。情報の種子。

あらゆる文脈を保存し、再生し、再接続するための知のアーカイブ。


それは、のちに「エリシオン」や「ネメシス」として知られることになったアーカイブユニットは、「前・人類」の文明の知識と記録を支える基盤となった。


「アルセイデス」──その名は、カザレオン語で「繋ぐもの」「忘却を拒むもの」という意味を持っていた。


だが、記録はそこで急に変調した。


通信の欠損。

応答の途絶。

星系単位での沈黙。


何が起きたのか、はじめは誰もわからなかった。


だがやがて、それはひとつの現象として名づけられた──


「フェージング」。


電磁記録がすべて利用不能になり、観測機器が動作を停止し、すべての計算機構が空白に沈む。


記録は失われ、通信が断たれ、文明そのものが沈黙する。


調査に向かった探査船は、

全システムが機能を失った空間のなかで、奇跡的に帰還した。


制御不能の宙域。

電磁的に封鎖された領域。


これは一過性の事故ではない。

拡大し、広がり、文明そのものを蝕む何か──


「このままではセリネアも沈む」


そう考えた彼らは、迷わなかった。


すべての電子装置が失われる前に、

もっとも古く、もっとも確実な手段で、必要最小限の情報を残す。


──粘土板。

焼成された石板へと、手作業で文字を刻む。


「エル・ナフ」と名づけられたそれは、

ある種の詩として整えられ、声にすることで構文が再生されるよう作られていた。


時が流れ、文明は沈黙し──

だが、その石板だけが残った。


アディティは、翻訳が示した最後の節に目を奪われた。


そこに記されていたのは──


「アルセイデス」人類アーカイブへのアクセスコード。


詠唱の終節。

その抑揚。

沈黙のなかでひときわ強く響いた一語。


その一語こそが、六万年前の彼らが遺した「次の者たちへの鍵」だった。


アディティは椅子の背に身をあずけ、目を閉じた。


ヘリオスが接続プロトコルを提示しようとしたとき、アディティは手を止めた。


「……あのとき彼らに接触していたら」


映像の中には、まだ朗唱を終えたばかりの少年が映っていた。

その隣に、群衆の中で微笑む少女の姿が小さく見えた。


アディティはゆっくりと息を吐いた。


「この『読み聞かせ』は消えてしまっていた」


そう呟いたその声は、データ記録には残らなかった。


この音声がなければ、アクセスコードは永遠に失われていた。


だが──


いま、誰かが語った。

声に出し、語り継いだ。

意味を知らずとも、節の響きだけを頼りに、受け継いだ。


その声が、いま届いた。


六万年の断絶を越えて。


この物語、どこかで見たような気がすると思った人もいるのではないかと思います。

「スターウォーズ」のサイドストーリーである「ローグワン」の位置づけと、ちょっと似てないですか?

作者は、あの構成が好きで、何かとても重要なものを、名も知れぬものたちが命を懸けてメインの主人公たちに届ける──あの構成がすごく気に入っているのです。


「ローグワン」の場合は「デススターの設計図」でしたが、この物語では「アルセイデスの鍵」、つまり「ネメシス」のアクセスコードなのです。これがないと、「ネメシス」に収められた重要な記録を、誰も引き出すことができません。それが六万年の時を越えて語り継がれてきたのです。


塔の石段に座り、小さな声で言葉を唱える少年──ユン。彼は、自分の声がどこに届くかなんて知りません。ただ祖父と祖母に教わった通りに、意味もわからぬ詩を毎朝読むことを「務め」として受け止めているにすぎません。


でも、彼の声は、確かに届いていた。遥か軌道の上、アディティ博士の耳に。そしてその響きが、失われた文明の記録を呼び起こすことになる──そんなつながりの物語でした。


ユンの周りには、彼を見守る祖父母のまなざしがあり、友人たちの無邪気な好奇心があり、そしてリラという、少し口は悪いけれど、やさしくて声のきれいな女の子がいます。彼らの存在があったからこそ、「語り」は守られてきたのだと思います。


受け取った者たちの物語は本流のストーリーに引き継がれます。

アディティがこの「鍵」を手にしたことで、「ネメシス」にどんな扉が開くのか──そして、ユンが自分の声の意味を知る日は来るのか。まだ語られていない章が、きっとあります。


ここまで読んでくださったあなたに、心から感謝します。

そして、また次の物語でお会いできればうれしいです。


――作者より。


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