合作展
フローライト第百十五話
朔と利成の合作、「天国と地獄」を苦労して利成のアトリエから運び出し、黎花の店の展示場に設置された。割と大き目な黎花のギャラリーの一番目立つ場所に飾られた。
そのほかは朔と利成が個人個人で描いたものを展示した。特に利成の絵画は、昔から今のものまであり、中にはかなりな値のついているものもあった。
朔をもっとも将来有望な新人画家として黎花が紹介文を考えたものに、黎花と朔の写真も入れてポスターを作った。そしてそれは朔の絵のスペースの始まりのところに張り付けた。
利成の方の紹介は今までの経歴と、朔の絵に対してのコメントなどを載せたものを作った。
美園は初日の開催日に行く予定になっていた。もちろんそれもSNSでかなり宣伝した。利成は初日と最終日に来る予定だった。
今回の合作の絵のポストカードは明希の店で作った。明希は初日からずっと展示場を手伝う予定だった。
「俺も行こうかな?」と奏空から電話が来た。
「いいけど、いつ?」
「んー・・・スケジュール確認して行ける日に」
「咲良は?来るの?」
「咲良も行くと思うよ。咲良は朔君の大ファンだから」
「ふうん・・・」
「美園のSNSで俺のことも言っておいてよ」
「奏空も来るって?」
「そう」
「自分のがあるくせに」
「自分のは単独のものじゃないからさ」
「ま、そうだね」
「じゃあ、よろしく」
美園のSNSで奏空もくるかも?とクエッションにしておいた。黎花にそのことを言うと、「わー当日大混雑が予想されるな・・・」と言った。
朔は最近は淡々とイラストの仕事をこなしていた。燃え尽き症候群的な症状もようやく落ち着いてきて、自分を取り戻したようだった。
合作展が開催されるまであと二日という夜、美園が家に帰ると、朔が一生懸命何かを紙に書いていた。
「何してるの?」
「黎花さんがサインの練習しとけっていうから・・・」
「サイン?絵に入れてるやつ?」
「いや、それじゃなく」
「あー普通のサインね」
「うん、美園もあるでしょ?」
「あるよ」
「どんなの?書いてみて」とペンを渡される。
「いいよ」と美園がさらさらとサインを書くと、朔が「わーすごいね」と感心したように言った。
「朔のは黎花さんが考えたの?」
「うん・・・サインなんて必要ないと思うんだけど・・・」
「わかんないよ?サイン下さいって言われるかもよ?」
「ないよ、そんなこと」
朔が真顔で言っている。
そして開催日当日はまるで天が祝福してくれてるような快晴になった。美園が朔と展示場の黎花のギャラリーに到着すると、すでに数人の人が待っているのが見えた。開場まではまだ一時間以上はある。
「おはようございます」と朔と一緒に中にはいると、黎花とそのほかのスタッフの人が笑顔で「おはよう」と挨拶をした。
「わー・・・すごいね」と出来上がった会場内を美園は見た。朔の絵と利成の絵があるだけでもすごい贅沢な気がしたが、二人の合作の天国と地獄はそれ以上の何かを醸しだしていた。
朔が「天城さんが仕上げてくれたからすごくなった・・・」とその絵を見上げた。
「みっちゃん、朔君おはよう」と明希が顔を出した。明希はスーツ姿にオレンジ色のペンダントをしている。
「あ、明希さんも素敵だね」と美園は言った。
「そう?みっちゃんも素敵だよ」と明希が嬉しそうに言った。
「利成さんは?」
「何かやることあるから、済ませてから来るって」
「そうなんだ」
「ねえ、来場者、どれくらいかな?整理券とか必要?」と黎花が聞いてくる。
「そんなに来るの?」と朔が言う。
「だって美園ちゃんと天城利成さんだよ?おまけに奏空さんも何日かわからないけど来るって・・・それだけでもかなりじゃない?」と黎花が微笑んでいる。そして「同じ画家仲間も来るしね」と付け足した。
利成が会場の10時頃ぎりぎりに到着した。表から堂々と入って来ると「外、すごい人だけど大丈夫?」と言った。
「そうでしょ?先着100名様に美園ちゃんと天城さん、朔のサイン入りのポストカードと、朔のイラストの便せんと封筒プレゼントなのよ。そのせいかな?」と黎花が呑気に言う。
「美園のファンが多そうだよ」と利成が美園に言った。
「そう?宣伝が効いたかな?」
「じゃあ、そろそろ開けますか?」と黎花が言った。
会場と共に大勢の人が入って来て、利成の言う通り受付に立っている美園に皆握手を求めてきた。美園は笑顔で握手を受けながら「対馬朔をよろしく」と言った。
朔はすっかり気後れしているようで、会場の奥の方に引っ込んでしまった。利成は長年の利成の絵のファンだと言う人と話しをしていた。黎花はポストカードと朔のイラスト入りの封筒と便せんを配りながらニコニコとしている。
ひと段落をして落ち着くと美園は朔を探した。
(だいぶ人が来たけど、朔大丈夫だったかな・・・)
会場の中に入って行くと朔が女の子に話しかけられているのが見えた。中学生くらいだろうか?そのくらいの女の子が朔に頭を下げて何かを描いてもらっている。それからスマホで写真を撮っていた。
美園はその女の子が行ってしまってから朔のところに行った。
「朔、何言われてたの?」
まだぼんやりとその女の子が去って行った方を見ている朔に聞いた。
「何か・・・ファンだって・・・絵画じゃなくてイラストの方・・・」
「あ、そうなんだ。サインしてたの?」
「うん・・・サイン欲しいって・・・写真も・・・」
「へぇ、やっぱサインの練習しておいて良かったじゃん」
「うん・・・何か・・・信じられない・・・俺の絵が好きだなんて・・・」
「朔の絵は、イラストの方もすごいいいよ。あの女の子のイラスト可愛いし」
「そうかな・・・」
そうやって話していると「朔」と黎花が朔を呼んだ。朔と黎花と美園の知らない男性が話しているのを美園が遠目で見ていると利成が横に来て行った。
「あの男性は○○〇って言う有名な画家だよ」
「えーそうなんだ。画家の人なんて全然わからないから・・・」
「そうだね、どんなに有名な人でも画家の場合、そういうのに興味のない人にとってはまったくわからないだろうからね。テレビに出てる芸能人なら、興味がなくてもある程度の有名人は皆が知ってるけどね」
「そうだよね、それぞれの世界では有名でも、そこから一歩出るとまったく無名と同じになるね」
「そうだね、そこが面白いと言えば面白いのかもしれないね」
「でも、朔と何話してるんだろう?」
「さあ?黎花さんと知り合いらしいね」
「そうなんだ」
夕方になるとほとんど人が引いて、数人の黎花のギャラリーに所属している画家と黎花とスタッフ、明希と利成と美園と朔だけになった。
「今日はお疲れ様。ほんとすごかったね」と黎花が言った。
「黎花さんもお疲れ様です」と明希が言った。
「いいえ、朔の絵、たくさんの人が見てくれたし、取材の人も来たし・・・天城さんのおかげです。ありがとうございます」と黎花が利成に頭を下げた後、美園にも「美園ちゃん、ほんとありがとうね」と言った。
「いいえ」と美園は言うと、隣に立っていた朔が美園の手を握って来た。
「それじゃあ、悪いけどこの辺りで帰ることにするよ」と利成が言った。
「そうですか?ほんとにお疲れ様でした」と黎花が深々と頭を下げた。利成は「また最終日来るから」と言って明希と一緒に会場を出て行った。
「朔と美園ちゃんは時間ある?良ければ一緒に食事に行きましょう」と黎かに誘われる。スタッフの人や同じ画家を目指している数人男女と共に居酒屋に入った。ビールを頼んでから適当に料理を頼む。料理が来るまでの間黎花が言った。
「今日はある程度の知名度のある画家さんも数人来てくれてたよ。天城利成さんの長年のファンだと言う人も・・・朔の絵、素晴らしいから○○〇って言う雑誌の新人賞に応募してみたらどうだっていわれたよ」
「新人賞?」と美園は聞いた。
「雑誌でね、あ、美術系の雑誌だけど、そこで毎年募集してるのよ」
「そうなんですか」
「うん、そう。あまり知られてないけど、美術の世界もそういうのあるのよ」
ビールを飲んで食事をしてから帰路についた。また明日も展示はあるのだが、明日は美園は仕事だった。
マンションの部屋に戻ると朔が「何か・・・疲れた・・・」とソファに座った。
「そうだよね、すごい人だったし・・・ずっと朔は立ってたしね」
「うん・・・すごい人だったよ。美園のファンの人、多かったよね?」
「そう?」
「うん、そう」
「朔のファンだって女の子もいたでしょ?きっとこれからもっと広まるよ」
「・・・どうかな・・・」と朔が少し遠い目をした。
「何か心配?」
「いや・・・心配じゃないけど・・・」
「けど?何?」
「・・・俺の絵・・・みんな見てくれてた?」
「見てたでしょ?」
「・・・そうかな・・・」
「そうだよ。今回の絵はすごいもの」
「うん・・・天城さんと合作なんて・・・いまだに信じられないし・・・」
「でもできたじゃない?朔はもっと有名になるよ」
「・・・・・・」
「明日も早いんでしょ?もう寝ようか?」
美園が言うと「うん・・・」と朔がうなずいた。
ベッドに入ると朔が手をつないできた。美園はその手を握り返してから言った。
「今度は朔がどんどん有名になる番だよ」
「・・・有名って・・・どんな感じ?」
「んー・・・私はあまり関心ないんだけどね。”有名”であることには。でも、朔の絵はみんなに見てもらいたい」
「・・・美園・・・俺・・・ずっと美園といれるよね?」
「いれるよ?何で?」
「美園、どっか行っちゃわない?」
「行かないよ。朔こそどっかに行かないでよ」
「うん・・・」と朔が目を閉じた。
「おやすみ・・・朔」と美園は朔の額に口づけた。朔が「おやすみ」と目を閉じたまま言った。
次の日も次の日も朔と利成の合作展は、多くの人が来場してくれた。咲良は奏空と二日目に来て朔を大いに励ましていたらしい。奏空のファンだと言う人も、朔の絵がすごくいいと気に入っていたという話も聞いた。そうしてあっという間にゴールデンウィーク最終日、今回の合作展も最終日になった。
美園が仕事を済ませてからの夕方に展示場に行くと、明希と咲良が一緒にいた。
「朔は?」と聞くと「何か奥で雑誌社の人が来てて利成さんと黎花さんも一緒に話してるよ」と咲良が言った。今回のことはテレビの芸能ニュースにも出てたので、かなりな宣伝になっただろう。
「朔の絵、いいよね?」といきなり美園に話しかけてくる人がいた。見ると二十代かなといった若い男性だった。
「そうですね」と美園が返事をすると「美園ちゃんは朔とどういう関係?」といきなり聞かれる。”朔”と呼び捨てにしているところを見ると、黎花さんのところの画家の人かなと思う。
「友達です」と美園は答えた。
「それはないでしょ?」とその男性が笑った。
「高校の時の同級生なので」
(何?この人?)と思いながら美園は答えた。
「へぇ・・・同級生か・・・朔は運がいいな。美園ちゃんと同級生なんて。おまけに美園ちゃんにはバッグに天城利成だもね」
(何が言いたいのだろう?)と美園はその男性を見た。
「そんな怖い目で見ないでよ。俺も朔の仲間だよ。自己紹介すると、黎花さんとこのギャラリーに所属している神野拓哉と言います。よろしくね」
「はぁ・・・」と美園は曖昧に会釈した。
「朔と友達なら俺とも友達になってよ」とかなり拓哉は馴れ馴れしい。
「あなたと友達になれるかはわかりません」と美園がはっきり言うと、拓哉は目を丸くしてあからさまに驚いた顔をした。それから「アハハ・・・」と爆笑した。
(だから何なの?)と美園が拓哉を睨んでいると「噂通りだね、美園ちゃんって」と言われる。
「噂って?」
「天城利成と似てて容赦ない性格・・・噂では孫ではなくて娘だという説もある」
拓哉は美園を横目で見て口元に笑みを浮かべている。
「そうですか?」と美園は言うと「じゃあ、失礼します」と拓哉のそばから離れた。
(あー何か気分悪い)
黎花のところにあんな人もいるんだなと思う。何だか話していると気分が悪いのだ。
奥の部屋から利成と朔が出てくるのが見えたので、美園はそっちの方に歩いていくと、朔が気づいて美園の方まで歩いてきた。
「朔、もう終わったの?」
美園は最後に部屋から出てきた、おそらく雑誌社の人と黎花の姿をチラッと見た。
「終わったよ。黎花さんがみんなで打ち上げするから来て欲しいって」
「そうなんだ」
そこで利成がちょうど来たので「利成さんも出るの?打ち上げ」と聞いた。
「いや、俺は悪いけど失礼するよ。黎花とはまた違う機会に話すことにしてるから」
「そうなんだ、わかった」
利成と明希、咲良も帰ってしまい、黎花の準備してくれた打ち上げは朔と美園と黎花のところのスタッフ、そして朔みたく新人の画家たちとすることになった。場所は個室のある居酒屋で「こういう所の方が和気あいあい出来ていいでしょ?」と黎花は言った。
「では、今回の朔と天城さんの合作展の成功を祝して乾杯!」と黎花がみんなに言った。そして「皆ほんとにありがとう」と黎花がお礼を言った。
だいぶお酒が入った頃、黎花が「今度天城さんと色々お話できることになったよ」と美園に言ってきた。
「お話って?」
「今後のこと。ほら、そもそも天城さんの絵を私のギャラリーに置いて、画家たちをサポートして欲しいって話だったでしょ?その話しを今度しようということになったのよ」
「そうなんだ」と美園がビールを飲むと、「あら、もうないじゃない?美園ちゃん、ビールでいい?」と黎花が言った。
「はい」と答えると「朔は?」と黎花が聞いている。朔も「ビールでいい」と答えていた。
宴もたけなわで、ほろ酔いからかなり皆が酔い始めた頃、昼間に話しかけてきた神野拓哉が美園の隣に来て朔に話しかけてきた。
「朔、今回のは最高だな」と拓哉が言う。
「ありがとう」と朔が答えると、拓哉が美園に「美園ちゃん、今度俺と合作しない?」と言ってきた。だいぶ酔っている雰囲気だ。
「私、最近はもう描いてないんで」
「そんなのいいでしょ?天城利成だって朔のために今回描いたわけでしょ?美園ちゃんは俺のために描いてよ」
(かなり酔ってるな・・・)と美園が拓哉を見ると「お願いします」と手を握ってきた。
「ちょっと無理です」と美園が拓哉から手を離そうとしたが、拓哉が握ったまま離さない。
「じゃあさ、今度デートして」と拓哉が言う。
「それも無理です」
「何でよ?朔とは何でもないんでしょ?じゃあ、一度くらいいいでしょ?」と拓哉が言う。
(あー酔っ払いだな、これは・・・)
そう思って美園が次の言葉を考えていると、朔が「美園、行こう」と言ってきた。
「え?どこへ?」
美園が立ち上がった朔を見上げると朔が「神野さん、手、離して」と言う。
「えー何でよ?朔だけのものじゃないでしょ?」と拓哉が美園の手をさすってきた。
「ちょっと・・・」と美園が拓哉から手を離そうとするより早く朔に腕を引っ張られた。
「こっち来て」と朔が言う。
「う、うん」と美園は朔に腕を引っ張られて立ち上がった。
朔が店の外まで美園を引っ張ってくる。ビルの中にある店なので、外に出てもビル内の廊下があるだけだ。
「朔?どこ行くの?」
美園が聞くと腕を引っ張っていた朔が立ち止まった。
「帰ろう」
「えーダメだよ。黎花さんにちゃんと挨拶しないと」
「神野さんって手が早いって聞いたことある」
「手が早い?そうなんだ」
「俺が美園とどういう関係なのかしつこく聞かれたんだ」
「そうなんだ。なんて答えたの?」
「友達って言っておいてって黎花さんに言われてる」
「そう。私もさっき聞かれたけどそう答えておいたよ」
「聞かれたの?」
「うん、展示会場で」
「・・・・・・」
「まずいったん戻って、黎花さんに挨拶してから帰ろうよ」
美園の言葉に朔が渋々ついてきた。店内に戻ると、黎花がこっちを見て「あ、朔、美園ちゃん、写真とるからこっちに来て」と言った。
残っていたスタッフの皆と画家たちと一緒に写真に納まった。それから黎花が「次は美園ちゃんと朔で撮ってあげる」と言うので、二人で並んで写真を撮られた。
「黎花さん、三人で撮ってあげる」と拓哉が言う。
「あら、そう?じゃあ、お願い」と黎花がカメラを拓哉に渡した。
「じゃあ、三、二、一、撮りまーす」と拓哉が掛け声をかけた。
写真を撮り終わってから黎花に挨拶をして朔と先に店から出ようとすると、拓哉は追いかけてきて美園の肩を抱いて言った。
「もう帰るの?まだいいじゃん」
「帰ります」と美園が言うと「えーせっかくお近づきになれたんだもんね、もう少し話そうよ」と肩を抱き寄せられて酒臭い息がかかる。
「いえ、帰り・・・」まで言いかけた時、朔が拓哉の腕をつかんで突き飛ばした。「あっ」と美園が驚いて見ると、拓哉はよろけて床に尻もちをついた。
「痛っ・・・」と顔をしかめている拓哉を無視して朔は美園の手を握って行こうとした。
「ちょっと、朔、それはないんじゃない?」と拓哉が立ち上がって言った。
朔はそのまま無視して美園の手を引いてビルの玄関に向かっている。すると拓哉が朔の手をいきなり後ろから引いてきて、今度は朔が後ろから倒れた。
「あっ、ちょっと!」と美園が朔は朔に駆け寄った。
「やっぱそういう関係?」と拓哉が皮肉っぽい笑みを口元に浮かべた。その時店の方から黎花が駆け寄って来た。
「ちょっと!拓哉と朔は何やってるの?」
「何にもしてないし」と拓哉が店の方に戻って行った。美園がホッとする間もなく、今度は朔が拓哉に駆け寄って突き飛ばした。
「あっ!朔!」と黎花が駆け寄って行く。
「何だよ?お前は」と本気で腹を立てたらしい拓哉の声が聞こえて、美園も黎花の後から朔に駆け寄った。
「美園に触んな!」と朔が怒鳴った。
美園はこんなに怒る朔を初めて見て、驚いたままその場に動けずにいると、黎花が朔の前に回って朔の両肩をつかんだ。
「朔、帰りなさい。拓哉には私から言っとくから」
「だけど・・・」と今にもまた拓哉のところに行きそうな勢いの朔を、黎花が美園の方に押し戻した。
「いいから。美園ちゃん、朔をお願い」と黎花に言われて、美園はハッと我に返って朔の腕をつかんだ。
「朔、帰ろう」
美園が朔に言っても朔はまだ不満そうだったが、それでもやっと踵を返した。
表に出てからタクシーを拾って自宅マンションに戻った。タクシーの中では朔はずっと無言だった。マンションに着き、美園がお金を払っている間に朔がタクシーから降りて、マンションのエントランスの方へ先に行ってしまった。
美園が後から追いかけてマンションに入ると、朔がエレベーターの前で待っていた。
「朔、待ってよ」と美園は朔のそばまで行って手をつないだ。
エレベーターに乗っても部屋に入っても朔はまだ無言だった。たまりかねて美園は朔に言った。
「朔、何で黙ってるのよ?」
「・・・あいつ・・・今度美園に触ったらぶっ殺してやる・・・」
その言い方は感情的というより、むしろ冷めた感じだった。
「朔・・・」
朔が何を美園に投影し、拓哉に投影しているのか美園にはわかっていた。
「美園・・・」と朔が美園を抱きしめてきた。
「あんなやつにもう美園のこと触らせないから」と朔が言う。
”あんな奴”は拓哉ではなく朔の中では父親なのだ。そしてきっと母親の死に対して、何もできなかった無力の自分を憎んでいるのだった。
「朔・・・私なら大丈夫だから」
「・・・絶対殺してやる・・・」
朔がまだ呟くように言った。
「朔・・・」と美園は朔を抱きしめた。
「・・・殺せなかった俺が悪い・・・」
「朔は悪くないよ」
「・・・・・・」
朔の意識はきっとここにはなかった。母親が死んだあの日に戻ってしまっているのだ。
「俺が・・・悪いから・・・だからダメなんだ」
「・・・・・・」
「何で・・・殺せなかったんだろう?・・・俺はバカだ・・・」
「殺さなくて良かったんだよ」
「・・・・・・」
「朔、殺すなんて無駄なことなんだから・・・」
「そんなことない・・・殺したら・・・殺せたら・・・お母さんは死ななかった・・・」
朔の中でそれが美園の話ではなくなっているのに、朔は気づいていないようだった。今の朔に”死”そのものが幻想なんだと、そんなことを言ったところで何の慰めにもなりはしないんだと、それはわかっていた。
(わかってるけど・・・わかってても、それでもそこから出てくるにはそれしかないんだ・・・真実が何なのか・・・何が今、自分に起きているのか、それを知るしか朔は自分で自分を救えない・・・)
「朔・・・お父さんを殺せても、お母さんは幸せになれなかったよ?死ななかったかもしれないけど、幸せじゃなかったら意味がないよね?」
そう言ったら朔が美園から身体を離してから言った。
「美園は何もわかってないんだ、お母さんのことも、父親のことも・・・あんな素敵な家族に囲まれて育った美園に何がわかるの?」
「朔、私に”素敵な家族”がいるっていうのは事実じゃない。朔の頭の中の出来事なんだよ」
「意味がわからない!美園も同じだよ!あいつたちと同じ!俺を否定する・・・邪魔だって言う・・・でも、俺も思う・・・俺はここにいない方がいいって・・・ここにきたのが間違いだったって・・・俺もそう思う・・・」
「・・・朔が言っている意味とは違うけど、朔は本当にここで生きていくには辛いものがあるんだと思う。何の武装もせずに戦場に来ちゃったようなものだから・・・だから皆、朔をサポートしようとしてるんだよ」
「サポート?何の?」
「すべてだよ。黎花さんもそうだし」
「すべて?意味がわからない・・・俺のことなんてもうほっておいて」
朔がそう言ってアトリエの方に行こうとした。美園は朔の腕をつかんでから言った。
「朔、どうしたらいい?今、どうすれば私を信じてくれるの?」
美園の頬に涙が伝った。朔が扉を閉ざさないうちに、また自分から離れないうちに朔をこっち側に”生”の側に留めておくにはどうしたらいいのだろう?
「・・・俺と死んでくれる?」
朔が言った。朔は死にたがっているのだ。それはわかっていた。
「いいよ」と美園は言った。それから「私のこと殺して」と朔の目を見つめた。朔が見つめ返してくる。その目がだんだん力を無くし、いつもの少しおどおどした優しい朔の目に戻って行く。
「・・・美園を殺すなんて・・・」と朔が言って泣き出した。
「朔、泣かないで・・・」と美園も一緒に泣いた。朔と一緒に泣くことが今、美園ができる唯一のことだった。
二人でその場に座って泣いた。小さな子供みたいに・・・。泣きながら朔が美園に口づけてきた。それから頬を舐めてくる。
「美園、泣かないで・・・」
「うん・・・朔もだよ・・・」
「うん・・・」
朔、朔がこっちに来るまで私も朔のいる闇の中に一緒にいさせてね・・・。
美園はそう思った。