第3章:黒の詩人
『神に選ばれぬ者は、自らの手で運命を奪う』
セナは最近、夢を見るようになった。
同じ夢が、何度も繰り返される。暗闇の中、一筋の光が差し込み、そこに一人の人影が浮かび上がる。顔は見えない。だが、その存在感は強烈だった。
誰かが詩を詠んでいる。低く、しかし力強い声。言葉の一つ一つが空気を震わせ、現実を歪めているようだった。
だがその声は、どこか痛々しい。怒りと悲しみが混ざり合い、聞いているだけで胸が締め付けられる。燃えるような黒い光が渦を巻き、悲鳴にも似た旋律が心に刺さる。
『この声は、誰かのものだった。でも、今は――俺のものとして生きるしかない』
そう言って、影は詩を詠み続ける。その言葉は聞き取れないが、ただ感情だけが波のように押し寄せてくる。怒り、悲しみ、そして何よりも強い――孤独感。
「誰だ…?」
セナは夢の中で問いかける。だが返事はない。影はただ詩を詠み続け、黒い光の渦は大きく、そして激しくなっていく。
「お前は…誰なんだ…?」
再び問いかけると、影がゆっくりとこちらを向いた。顔が見える寸前、セナは目を覚ました。
目覚めたとき、胸の痣が微かに熱を帯びていた。汗が額を伝い落ちる。窓から差し込む朝日が部屋を明るく照らしていたが、夢の影響か、何か重い気配が残っていた。
「また、あの夢…」
セナはベッドから起き上がり、水を一杯飲んだ。この一週間、同じ夢を見続けている。日に日に鮮明になり、そして日に日に痣の反応も強くなっていた。
誰かが自分を呼んでいる。そんな気がしてならない。
朝食の時間、食堂でミラを見つけた。彼女はいつものように陽気に手を振ったが、セナの表情を見て眉をひそめた。
「どうしたの?顔色悪いよ」
「いや…ちょっと夢を見てさ」
「夢?」
セナは夢の内容をミラに話した。黒い光、見えない詩人、そして心に残る言葉。ミラは真剣に聞いていたが、その表情には懸念の色が浮かんでいた。
「痣が反応するって…珍しいね」
「うん。本当に誰かが呼んでるみたいで…」
「先生に相談した方がいいんじゃない?」
「そうかな…」
セナは迷った。単なる夢かもしれない。だが、痣の反応は確かに実在のものだった。
その日の授業は、戦詩人の歴史についてだった。エドガー教授は、古代から現代までの戦詩人の系譜を説明していた。
「戦詩人の力は時に危険を伴います。言葉が持つ力は、使い方によっては破壊的なものになり得るのです」
教授の言葉が、セナの心に引っかかった。破壊的な力。夢の中の黒い光の渦が、まさにそんな印象だった。
授業が終わり、セナは音律堂の図書室に向かった。夢についての手がかりを探すためだ。
古い記録や詩集、戦詩人の伝記など、様々な本を調べたがそれらしい記述は見つからなかった。
「やっぱり、ただの夢なのかな…」
諦めかけたそのとき、一冊の古い書物に目が留まった。『幻視と痣の共鳴』という題名の、かなり古びた本だ。
ページをめくると、それは痣を持つ者が時に見る「幻視」についての研究書だった。特定の状況下で、痣を持つ者は他の痣持ちと「精神的共鳴」を起こすことがあるという。
「これは…」
セナは夢中になって読み進めた。内容によると、強い感情や危機的状況にある痣持ちは、同じ種類の痣を持つ者に対して無意識に「呼びかけ」を行うことがあるという。特に中央紋型のような強力な痣の持ち主は、その受信能力が高いとされていた。
「もしかして、あの夢は…誰かからの呼びかけ?」
セナは本を閉じ、窓の外を見た。夕暮れが近づき、王都に長い影が落ち始めていた。
その晩もまた、セナは同じ夢を見た。だが今回は、もう少しだけ長く、もう少しだけ鮮明だった。
黒い光の中、詩人は苦しそうに詩を詠み続ける。そして、最後にこう言った。
『選ばれなかった者の詩を、貴様は知ることになる』
セナは冷や汗をかきながら目を覚ました。外はまだ暗く、部屋の中は静寂に包まれている。だが、胸の痣は以前にも増して熱を持っていた。
「選ばれなかった者…?」
それから数日が過ぎた。
王都では最近、奇妙な噂が広まり始めていた。街角での会話、市場での囁き、貴族たちの間での懸念。すべてが同じ方向を指し示していた。
"痣を持つ偽物"の存在。
「聞いたか?東区で痣なしの医者が働いていたらしい。なのに、治療の痣の力を使えたって」
「嘘だろ?痣がなきゃ力は使えないだろ」
「いや、本当なんだ。その医者、逮捕されたらしいぞ」
こんな会話が、街のあちこちで交わされていた。
セナとミラは、午後の自由時間に街に出ていた。二人は噂を耳にし、興味を持った。
「どういうことだろう?」
セナは首を傾げた。痣がなければ、その職業の力は使えないはずだ。それは、この世界の揺るぎない法則のはずだった。
「何か裏があるんじゃない?」
ミラは懐疑的だった。
二人がカフェでお茶を飲んでいると、隣のテーブルの客たちの会話が耳に入ってきた。
「本当かどうか知らないが、痣の売買があるという噂だ」
「痣の売買?そんなことできるのか?」
「できるらしい。金持ちの息子が、王に仕える痣が欲しくて買ったとか」
セナとミラは顔を見合わせた。痣の売買。そんなことが可能なのだろうか。
学院に戻ると、そこでも同じような噂が流れていた。
奪われた痣、ねつ造された才能、神に抗った者たち。
「聞いたか?"黒の詩人"が再び動き出したらしい」
「黒の詩人?あの追放された戦詩人か?」
「ああ、痣を奪った男だ。恐ろしいことに、その力は本物の戦詩人より強いらしい」
上級生たちの会話を聞き、セナは立ち止まった。黒の詩人。痣を奪った男。その話に、どこか引かれるものを感じた。
夢の中の黒い光を纏った詩人を思い出す。もしかして…
その晩、セナはイゼリナを訪ねた。彼女は王立騎士団の一員でありながら、学院の連絡係も務めていた。
「黒の詩人について、何か知りませんか?」
真っ直ぐに質問すると、イゼリナは一瞬驚いたような表情を見せたが、すぐに冷静さを取り戻した。
「なぜ、それを知りたいの?」
「最近、王都で噂になっているようですし…それと、僕、夢を見るんです。黒い光に包まれた詩人の…」
イゼリナはしばらく黙っていたが、やがて深いため息をついた。
「確かに、"痣の偽物"についての報告は増えている。そしてその中心にいると囁かれているのが――」
彼女は周囲を見回し、声を落とした。
《黒の戦詩人》
「黒い光を纏い、痣なしでの詩を操る者。その力は本物の戦詩人以上と言われている」
セナはハッとした。黒い光。それは夢の中で見たものと同じだった。
「名前は……ヴェイル・ナスティア。元は貧民街の出身で、痣の出現を装い、王都から追放された……はず」
イゼリナの語る言葉は、重かった。彼女の表情には、憂いの色が見えた。
「でも…痣がないのに、どうやって戦詩人の力を?」
セナの質問に、イゼリナは更に声を落とした。
「彼は……痣を移植された最初の成功例です。その痣は、かつて《戦詩人》だった男が"自らの意思で譲り渡した"もの」
「痣の移植…?そんなことが可能なんですか?」
イゼリナは肩をすくめた。
「理論上は不可能なはずです。痣は魂と結びついているから。だからこそ、この事態は王を大いに不安にさせています」
セナは胸の痣に手を当てた。自分の一部であるはずの痣が、他者に移植されるなんて…信じがたい話だった。
「……なんで?どうして彼は痣を…?」
「その理由を知るには、彼に会うしかない」
イゼリナの言葉は、予言のように響いた。
「あなたの見ている夢が本当に彼からのメッセージなら、いずれ彼はあなたに接触するでしょう。その時は報告してください。事態は我々が思っているよりも複雑かもしれません」
部屋に戻ったセナは、窓辺に座り、夜空を見上げた。痣の移植。神が与えた運命を、人間の手で書き換えてしまうこと。それは許されることなのだろうか。
「セナ?」
ノックの音とともに、ミラの声が聞こえた。ドアを開けると、彼女は心配そうな顔をしていた。
「イゼリナさんと話してたって聞いたけど…何かあったの?」
セナはミラに、イゼリナから聞いた話をすべて打ち明けた。ヴェイル・ナスティアのこと、痣の移植のこと、そして自分が見ている夢のこと。
「それで…あの夢は、ヴェイルからのメッセージだと思うんだ」
ミラは黙って聞いていたが、顔色が少し悪くなっていた。
「痣の移植…考えたくもないね」
彼女は自分の背中の痣に手を伸ばした。
「でも、それが本当なら…神の摂理に背いたってことでしょ?」
「ああ…だからヴェイルは追放されたんだろう」
「でも、セナ…なんであなたが彼の夢を見るの?」
その質問に、セナは答えを持たなかった。なぜ自分なのか。同じ戦詩人の痣を持つからなのか。それとも、中央紋型だからなのか。
「分からない。だけど…もっと知りたいんだ。彼のこと、痣の真実のこと」
ミラはセナの決意を見て、小さく頷いた。
「分かった。あたしも協力する。でも、危険なことはしないでよ?」
セナは微笑んだ。ミラの心配が嬉しかった。
「約束する」
その晩、セナはまた夢を見た。だが今回は、黒い光の渦の中に、より鮮明な姿が見えた。痩せた青年。長い黒髪と、深い傷跡のある顔。そして、胸には黒く歪んだ痣が刻まれていた。
『お前は誰だ?なぜ俺の声が聞こえる?』
初めて、影から直接問いかけられた。セナは夢の中で答えた。
「セナ・ルクス。戦詩人の痣を持つ者だ」
影の青年は冷笑した。
『戦詩人…か。神に選ばれた者よ。俺とは正反対だな』
「お前は…ヴェイル・ナスティア?」
影は沈黙した後、低く答えた。
『会いに来い。ル=ファルカの廃墟へ』
そして、夢は終わった。
セナが目を覚ましたとき、何かが変わった気がした。窓の外から遠くに爆発音のような響きが聞こえる。
「何だ…?」
窓から外を見ると、王都の北の方角が明るく光っていた。火事か爆発か。
廊下から騒がしい声が聞こえ始めた。
「北門が襲撃された!」
「黒い光の中から塔が崩れたぞ!」
「近隣住民の避難を!」
緊急事態だ。セナは急いで服を着替え、廊下に飛び出した。
喧騒の中、逃げ惑う人、狼狽えている人、彼らの間を縫うようにセナは走った。
息を切らしてセナが北門にたどり着いた時には、事態はすでに終わっているようだった。
集まった全員が同じ方向を向いている。
侵入者を防ぐための壁があった場所には、何もなかった。
「巨大な城壁が、まるで砂の城のように崩れ落ちた」
呆然と佇んでいる人の中で一人の兵士が声を震わせうめくように言った。彼の目は、事実を受け入れることを拒否するようにかつて壁だったものを睨みつけていた。人的被害はほとんどなかったが、北門の防衛機能は完全に失われた。
王城で緊急会議が開かれ、セナたちも呼ばれた。
「これは……《逆詩》……!?」
王国最高の戦詩人、グランド・メイジのアルバート・ヴィセリオが震える声で言った。
「詩で現実を書き換える、最上級の戦詩。それを使える者など、本来存在しない」
大広間には、王を中心に国の要人が集まっていた。魔術師団の長、騎士団の団長、そして最高顧問官たち。そんな重要な会議に、なぜか学生であるセナとミラも呼ばれていた。
「書き換える?どういうことですか?」若い騎士が尋ねた。
アルバートは眉をひそめて説明した。
「通常の魔法や詩は、現実に影響を与えます。火を起こしたり、風を起こしたり。しかし《逆詩》は違う。それは事物の"記憶"そのものを書き換えるのです」
「記憶?」
「そう。例えば、石の城壁に"お前はかつて砂だった"と語りかけ、その記憶を呼び覚ます。すると、石は本当に砂に戻ってしまう」
セナは息を呑んだ。そんな力が本当にあるのか。しかも、それをヴェイルが使えるというのか。
「間違いない。ヴェイルが動いた」
イゼリナが前に進み出て報告した。
「目撃者の証言によれば、黒い光に包まれた人物が北門近くで詩を詠んでいたとのこと。彼の姿を確認した後、城壁が崩れ始めました」
「彼の目的は?」王が問うた。
「まだ分かりません。ただ…」
「ただ?」
「彼は逃げる際、こう言ったそうです。"選ばれた詩人よ、来たれ。真実を知りたければ"」
全員の視線がセナに向けられた。選ばれた詩人。それは彼のことだと、誰もが理解していた。
「これは挑戦状だな」
王は静かに言った。
「セナ・ルクス。君はヴェイルと接触しているそうだね」
セナは緊張しつつも、正直に答えた。
「はい。夢の中で…彼は私に《ル=ファルカ》に来るよう言いました」
「行くつもりか?」
「…はい」
王は深く考え込んだ後、ゆっくりと頷いた。
「行くがいい。だが、単なる罠かもしれん。彼が何を企んでいるのか、それを探ることも重要だ」
「王よ!」アルバートが声を上げた。「学生を危険に晒すつもりですか?」
「彼はすでに選ばれている。ヴェイルが接触したのは、彼だけだ」
王の決断は固かった。
「セナ・ルクス、ミラ・ソナーレ。二人は特別任務として、ヴェイル・ナスティアの捜索と、可能であれば説得による投降を命じる」
「イゼリナ・クラーヴァが同行する。必要な装備と馬を用意させよう」
会議は、セナたちの派遣を正式に決定して終了した。
広間を出たセナは、ふらつくような感覚に襲われた。あまりにも急な展開に、頭がついていかない。
「大丈夫?」
ミラが心配そうに彼の腕を支えた。
「うん…ただ、これが本当に起きていることなのか、まだ信じられなくて」
「私も驚いています」
イゼリナが近づいてきた。
「まさか王自ら派遣を命じるとは…事態は私が思っていたよりも深刻なようです」
「どういう意味だ?」
「ヴェイルの力が、予想以上に強大だということ。《逆詩》は伝説の中の技術だと思われていました。それを実際に使える者がいるというのは…」
イゼリナは言葉を濁した。
「急いで準備をしましょう。終わり次第、東門から出発します」
王城の裏門から三人の旅立ちが始まった。
セナとミラ、そしてイゼリナ。三人には最高級の装備が与えられ、足の速い馬が用意された。小さな荷物だけを携え、目立たないよう静かに王都を後にする。
王の命により、セナとミラはヴェイルの追跡を任される。公式には「特別訓練」として発表され、本当の目的は秘密にされていた。
「準備はいいですか?」
馬に乗りながら、イゼリナが二人に尋ねた。
「うん」
「はい…」
二人とも緊張した面持ちだった。特にミラは、こういった任務には慣れていない。彼女は《奏導者》であり、戦闘には向いていない職業だ。
「イゼリナさんは、ヴェイルについて何か知ってるの?」
静かな街道を進みながら、ミラが質問した。
「噂程度です。彼は五年前、王立職業院への入学を試みましたが、痣がないことが発覚し、拒否されました」
「でも、彼は痣を持っているんでしょう?移植されたものとはいえ」
「今はそうですが、当時はまだ痣を得ていなかったのです。痣を移植したのは、拒否された後だと言われています」
「その痣を譲った戦詩人って…」
「彼の名はラベン・ノイアー。かつては王国屈指の戦詩人でしたが、ある事件を機に姿を消しました。彼とヴェイルの関係は不明ですが、師弟関係だったという噂もあります」
イゼリナが語る情報は、断片的だった。ヴェイルの素性については、王国でも謎が多いようだ。
「彼は何を望んでいるんだろう?」
セナの問いに、イゼリナは首を振った。
「分かりません。復讐なのか、王国転覆なのか、それとも単なる力の誇示なのか…」
旅は順調に進み、初日の夕方には小さな宿場町に到着した。そこで一泊し、翌日も朝早くから移動を続ける。
二日目の夜、野営地で焚き火を囲みながら、イゼリナは作戦を説明した。
「《ル=ファルカ》には明後日の昼頃に到着する予定です。廃墟は広大ですが、ヴェイルがいるとすれば、中央神殿跡だろうと思われます」
地図を広げながら、彼女は続けた。
「私はあくまでサポート役です。基本的には二人に任せますが、危険を感じたら即座に撤退すること」
「イゼリナさんも戦わないの?」
ミラの質問に、彼女は少し困った表情を見せた。
「私は《風騎士》です。開けた場所なら力を発揮できますが、廃墟内では…」
「限界がある」
セナが言葉を続けた。風を操る騎士は、建物内では十分な力を発揮できない。一方、詩や音楽は環境を選ばない。
「そのため、戦いはセナたちに任せたいのです」
イゼリナは真剣な眼差しでセナを見た。
「ヴェイルとの対話は、セナが担当してください。彼はあなたと話したがっているのです。ミラは補助に回り、イレギュラーな事態が起きたら対応を」
「了解」
二人は頷いた。任務の目的は明確だ。ヴェイルの目的を探り、可能であれば王都への帰還を説得する。
その夜。出発前、ミラが焚き火のそばでセナに声をかけた。イゼリナは先に休んでおり、二人きりの空間だった。
「ねぇ、セナ。あんたが"誰かの痣"を持ってたとしてさ――」
「……」
セナは黙って火を見つめた。その可能性は、彼の心を常に揺さぶり続けていた。
「それでも、あたしは、今の"声"を信じるよ。あんたの詩は、間違いなく、あたしを変えてくれたから」
ミラの言葉は、真っ直ぐにセナの心に響いた。
「あたしの音が、あんたの詩を引き出した。それは偶然じゃない。だから…明日何があっても、あたしはあんたのそばにいるよ」
ミラが、静かにリュートを弾き始めた。柔らかく、優しい旋律。それは慰めでもあり、励ましでもあった。
セナはその音色に身を委ね、自然と言葉が紡がれた。
「二つの声が重なるとき
真実は姿を現す
たとえ闇の中でも
この光は消えない」
小さな詩だったが、焚き火の炎が一瞬大きく燃え上がり、星のような光の粒が周囲に広がった。
セナは、少しだけ強く頷いた。たとえ自分の痣の出所が何であれ、今の自分の詩、自分の心は本物だと信じよう。
旅の三日目、《ル=ファルカ》が見えてきた。
丘の上に立ち、一行は廃墟となった古都を見下ろした。かつての栄華を偲ばせる石造りの建物群。崩れた塔、割れた窓、蔦に覆われた壁。その中心には、巨大な神殿の残骸が見える。
「あれが目的地ですね」
イゼリナが指さした。
「中央神殿。かつては詩と魔術の聖地でした」
三人は馬を下り、徒歩で廃墟に向かった。馬は丘の麓に繋いでおく。
廃墟に足を踏み入れると、不思議な静寂が彼らを包んだ。鳥の声も、風の音も聞こえない。まるで時間が止まったかのようだ。
「気をつけて。魔力の残滓が濃いです」
イゼリナの警告通り、空気には目に見えない魔力が満ちていた。セナの胸の痣が、かすかに反応する。
「ミラ、詩の準備を」
「うん」
ミラはリュートを構え、いつでも演奏できる状態にした。
廃墟の中を進むこと一時間。倒壊した建物、砕けた像、忘れ去られた広場を通り過ぎ、ついに中央神殿の跡地に辿り着いた。
そこは巨大な円形広場のような空間。かつては天井があったのだろうが、今は崩れ落ち、空が見える。周囲には折れた柱が立ち、中央には石の祭壇が残っていた。
そして、その祭壇の上に、黒い詩衣に身を包んだ青年が立っているのが見える。
《ル=ファルカ》。崩れた都市の中心で、ヴェイルがセラたちを待っていた。
「来たか、"もうひとりの戦詩人"よ」
低く、しかし通る声。夢で聞いたのと同じ声だった。
セナとミラの到着に、ヴェイルは背を向けたまま詩を紡ぐ。
「失われた都の記憶よ
砕かれた夢の欠片よ
かつての栄光を
今一度、この目に」
彼の詩に応えるように、周囲の空気が震え、崩れた柱や壁が一瞬だけ元の姿を取り戻した。幻影のような映像だが、かつての神殿の壮麗さが垣間見えた。
「セナ・ルクス。中央紋型の持ち主。神に選ばれし者」
ヴェイルはゆっくりと振り返った。彼の顔には長い傷跡があり、左目は白く濁っていた。胸には歪んだ形の戦詩人の痣が見える。
「そして、ミラ・ソナーレ。《奏導者》。二人が来ると予測していた」
彼はイゼリナには目もくれなかった。
「何のために僕を呼んだ?」
セナは真っ直ぐに質問した。
「お前に真実を教えるためだ」
ヴェイルの声には、怒りと悲しみが混ざっていた。
「痣の真実。選ばれし者の嘘。そして…お前が本当は何者なのか」
セナは緊張しながらも、一歩前に進んだ。
「話せ」
ヴェイルは冷笑した。
「神の声は届かない。だから俺は、自分で声を奪った」
彼は自分の痣に手を当てた。
「この痣は、確かに奪ったものだ。だが、それは俺が望んだことではない。師が…ラベンが、俺に与えたのだ」
「なぜ?」
「彼は気づいていた。痣のシステムの欺瞞に」
「欺瞞…?」
「そう。痣は生まれつき決まっていると思うか?違う。痣は…選ばれるものだ」
ヴェイルの言葉に、セナは息を呑んだ。
「選ばれる…?」
「神ではない。"彼ら"によってな」
「彼らって…誰だ?」
ヴェイルはセナを見つめ、低く言った。
「それを知りたければ、まず俺の力を見せてやろう」
彼は祭壇から飛び降り、手のひらに黒い光を宿らせた。
「詩は心を映す鏡。お前の詩と、俺の詩…どちらが真実を映すか、試してみようじゃないか」
ミラがリュートを構え、セナの前に立った。
「勝負を受ける。だが、その前に誓ってくれ。王都への攻撃はもうしないと」
ヴェイルは黒い光を手に溜めながら、不敵な笑みを浮かべた。
「それは、お前が勝ったら考えよう」
セナは深く息を吸い、ミラに目配せした。彼女はすぐに理解し、リュートを奏で始めた。
痣の真実と、奪われた才能、選ばれた者と選ばれなかった者の邂逅――
ふたつの"戦詩人"が、ついに交わる時が来た。