第2章:響きの始まり
『音が心を震わせ、言葉が世界を動かす』
門をくぐった瞬間、セナの目の前に広がったのは――想像を超える"知の城"だった。
まばゆい光が館内を満たし、天井から降り注ぐ光の筋が大理石の床に幾何学模様を描いていた。ステンドグラスからは虹色の光が差し込み、幻想的な雰囲気を作り出している。
「すごい…」
セナは思わず声を漏らした。村の建物とは比べものにならない壮麗さ。王都の外観に圧倒されたばかりだったが、この建築物の内部はさらに彼の想像を超えていた。
円形の巨大な中庭を囲むように、いくつもの高塔と建物がそびえ立っている。中庭には美しい庭園が広がり、様々な色の花々が咲き誇っていた。噴水からは水が天高く噴き上げられ、その水滴が太陽の光を受けて宝石のように輝いている。
各塔には職業ごとの専用施設があり、それぞれ違った意匠が施されていた。魔術師の塔は星をモチーフにした装飾、治癒士の塔は緑と白を基調とした優しい印象、戦士の塔は赤と金で力強い外観をしている。
「それぞれの塔は、痣の種類に応じた訓練場になっています」
イゼリナが説明する。彼女の声には誇りが滲んでいた。
「あの青い塔は水魔術の訓練場、緑の塔は治癒魔法、赤い塔は戦闘技術…」
そして、《戦詩人》の棟は、中央の"音律堂"と呼ばれる場所にあった。最も高くそびえ立つその建物は、他とは違い、黄金と紫を基調とした荘厳な外観をしていた。
「あれが、戦詩人の塔…」
セナは思わず息を呑んだ。塔の頂上からは、かすかに音楽のような響きが聞こえてくるようだった。
イゼリナに導かれ、セナは音律堂へと足を踏み入れた。内部はさらに驚くべき光景だった。天井まで続く書架、美しい音響装置、そして中央には巨大な円形ステージ。
そこはまるで、コンサートホールと神殿を融合させたような空間だった。天井には星座が描かれ、床には詩の一節が螺旋状に刻まれていた。壁には歴代の著名な戦詩人たちの肖像画が飾られ、彼らの目がセナを見つめているようだった。
「ここが、君の学び舎です」
イゼリナが微笑む。その表情には、これまでなかったいたずらっ子めいたものがあった。
「どうですか?想像していた通りですか?」
「いや…想像以上です」
セナは正直に答えた。村の学校の校舎とは比較にならない壮大さ。一体、ここで何を学ぶのだろうか。不安と期待が入り混じった感情が、彼の胸を満たした。
イゼリナは彼の表情を見て、静かに続けた。
「ただし、《戦詩人》は"形"のない魔法。剣士や魔術師とは違って、見た目で強さは測れません。力の大きさは装飾ではなく、言葉の深さにあります。だからこそ、"何を伝えたいか"が最も重要になるのです」
セナは、その言葉の意味を深く考えた。"何を伝えたいか"——自分には、伝えるべきものがあるのだろうか。
「これから、入学手続きと寮の案内をします。明日から授業が始まりますので、今日はゆっくり休んでください」
イゼリナはそう言って、セナを事務所へと案内した。
セナに与えられた部屋は、音律堂の東側にある学生寮の一室だった。小さいながらも清潔で、窓からは中庭の風景が見渡せた。ベッド、机、椅子、そして小さな本棚が備え付けられている。
ベッドに腰掛け、荷物を整理しながら、セナは明日からの生活に思いを巡らせた。村での生活とはまったく違う環境。ここで自分はやっていけるのだろうか。
「父さん…今頃、どうしてるかな」
ふと、父の顔が脳裏に浮かんだ。あの鍛冶場で、一人黙々と仕事をしている姿が目に浮かぶ。手紙を書こう、と思った矢先、ノックの音が響いた。
「セナ・ルクス?」
ドアを開けると、制服を着た若い男性が立っていた。
「初めまして。ライアン・ノーブルと言います。明日からの授業の資料を持ってきました」
彼は腕に本と羊皮紙の束を抱えていた。
「ありがとう…ございます」
セナは戸惑いながらも礼を言い、資料を受け取った。
「中央紋型の持ち主が入学すると聞いて、みんな興味津々ですよ」
ライアンはにこやかに言ったが、その目には何か別の感情が宿っているように見えた。
「期待に応えられるよう…頑張ります」
セナがそう答えると、ライアンは軽く頷いた。
「明日の朝食は7時から。遅れないようにね」
そう言い残すと、彼は颯爽と去っていった。
セナは渡された資料に目を通した。戦詩人の歴史、基本的な詩の構造、音響魔法の理論…難しそうな内容が並んでいる。
「これを全部…」
不安が胸をよぎる。だが、ここで諦めるわけにはいかない。セナは深呼吸し、一つずつ資料を読み始めた。
夜が更けるまで勉強し、疲れ果てたセナはようやく眠りについた。
翌朝、セナは緊張した面持ちで講堂に入った。すでに十数名の生徒が着席しており、セナが入室すると一斉に視線が集まった。
初日の授業。講師は初老の男性で、白髪交じりの長い髪を後ろで束ねていた。エドガー・ブライス教授、戦詩人学の権威だという。
「さて、新入生の皆さん。戦詩人の道を選んだ—あるいは選ばれた—君たちを歓迎する」
教授はゆっくりと語り始めた。その声には、長年の経験が滲み出ていた。
「今日は、《戦詩人》とは何かを理解してもらうために、歴代の著名な詩を読み上げよう」
そう言って、教授は《戦詩人》の歴代の詩を読み上げ始めた。その声には不思議な響きがあり、言葉の一つ一つが空気を震わせているようだった。
「詩は力であり、感情の核だ。文字だけではなく、"声"で詠むことによって、世界に影響を及ぼす」
教授は言葉を区切りながら説明した。
「感情が込められていない詩は、ただの空虚な言葉の羅列に過ぎない。真の詩とは、心の底から湧き出る思いを形にしたもの」
セナはメモを取りながら、必死に理解しようとした。感情を込める。心から湧き出る思い。それが、詩の力を引き出す鍵なのだろうか。
「戦詩人の力は、詩に込めた感情が聞き手の心に共鳴することで生まれる。その共鳴が魔力となり、現実に影響を与えるのだ」
教授の説明は続いた。理論の説明、歴史的な逸話、そして実践的なアドバイス。セナは必死についていこうとした。
そして、授業の終わり、セナは試される時が来た。
「では、ここで実践してみよう。順番に、この短詩を詠んでみたまえ」
教授は全員に羊皮紙を配った。そこには短い詩が書かれていた。
最初の生徒が立ち上がり、詩を詠んだ。その声に合わせて、教室の空気がわずかに振動した。次の生徒は、声に力を込めると、小さな風が巻き起こった。
順番にセナの前の席まで進み、様々な反応が見られた。ある者は光を生み出し、ある者は音の波紋を作り出した。
「では、君――セナ・ルクス。この詩を詠んでみたまえ。声に出して」
教授の視線が、セナに向けられた。教室内のすべての目が、彼に集まる。中央紋型の持ち主。百年に一人の才能。期待と好奇心が入り混じった視線だった。
セナは立ち上がり、差し出された短詩を見つめた。シンプルな詩。風を呼ぶ内容だ。
深呼吸し、セナは声に出した。
「風よ、来たれ。 山々を越え、谷を駆け、 空を舞う自由の風よ、 今、私の声に応えよ」
セナは心を込めて詩を詠んだつもりだった。だが――空気は、微塵も動かなかった。教室には、沈黙だけが広がった。
他の生徒たちは、風を起こしたり、音の波紋を生み出したりしていた。だが、セナの詩には何の反応もない。
「もう一度、試してみなさい」
教授は眉をひそめながら言った。セナは再び詩を詠んだ。だが、結果は同じだった。
沈黙。
冷たい視線が集まる。期待は失望へと変わり、周りの生徒たちのささやきが聞こえ始めた。
「あれが中央紋型?」
「何も起きないじゃないか」
「本当に戦詩人の素質があるのか?」
教授は深いため息をついた。
「……やはり、選ばれただけの"器"だったか」
その言葉は、セナの心に深く突き刺さった。選ばれただけ。才能はないのに、ただ痣が出ただけ。
セナの胸に、またも熱が走った。だが、それはかつての"発光"とは違う――悔しさの炎だった。
授業が終わり、生徒たちが教室を出ていく。セナはしばらく席に座ったまま、自分の手を見つめていた。
「大丈夫?」
優しい声に顔を上げると、隣の席の女子生徒が心配そうに見ていた。
「初日だもの。うまくいかなくても当然よ」
「ありがとう…でも…」
セナが言葉に詰まると、彼女は微笑んだ。
「私はエリン。エリン・フロスト。戦詩人科の2年生。いつでも相談に乗るわ」
彼女はそう言って、セナに短い詩集を渡した。
「これ、初心者向けの詩集。私も最初はうまくいかなくて、これで練習したの」
「ありがとう…」
セナは感謝の言葉を口にしたが、心の中では決意を固めていた。必ず、自分の声に力を宿すと。
初日の授業が終わり、セナは夕食を終えると自室に戻った。壁に向かって立ち、さっきの詩を何度も繰り返す。
「風よ、来たれ…」
何度繰り返しても、何も起こらない。
セナはエリンから借りた詩集を開き、別の詩を試してみた。光の詩、水の詩、炎の詩…どれも何の反応も示さなかった。
「なんで…」
セナは頭を抱えた。自分には才能がないのか?それとも、何か別の問題があるのか?
「もっと練習しないと」
夜になっても、セナは諦めなかった。学生は夜間でも使用できる個人訓練場があると聞き、そこに向かった。
館内は静まり返り、廊下には数人の生徒しか見当たらなかった。セナは案内図を頼りに、音律堂の地下にある訓練場へと向かった。
その夜、セナはひとり訓練場に残っていた。小さな円形の部屋。壁には防音の魔法が施されているらしく、外の音が聞こえない。完全な静寂の中で、セナは詩を口にし続けたが、何の反応もない。
「どうすれば…」
懸命に詩を詠み続けるが、空気は微動だにしなかった。自分の声が空しく響くだけ。
「もう一度…」
セナが再び詩を口にしようとした時、そこに、リュートの音が響いた。柔らかく、優しい旋律が、静かな訓練場に広がる。
「その詩、なんかズレてるけど――嫌いじゃないよ」
声の主は、ひとりの少女だった。訓練場の入り口に、リュートを抱えた少女が立っていた。
肩までの銀髪。細身で、小柄。大きな瞳と、少し意地悪そうな笑顔。彼女は自然な仕草でセナに近づいた。
「こんな夜更けに一人で何してるの?新入り?」
「あの…練習を…」
少女は首を傾げ、セナの周りをくるりと回った。そのとき、彼女の服の隙間から、背中の痣が見えた。羽のような形。青みがかった銀色で、光を反射しているようだった。
「《奏導者》のミラ。よろしく、戦詩人くん」
「《奏導者》?」
「うん。音を操る仕事。戦詩人に近いけど、歌や楽器の音で魔法を操るの」
ミラは"音"を操る職業。詩や魔法、感情と"調律"することで、力を増幅させることができる、と彼女は説明した。
「あなた、詩が生きてない」
「え?」
「言葉は言ってるけど、心がこもってない。だから、力が出ないんだよ」
ミラはそう言って、リュートを構えた。
「ちょっと貸して。あたしの音、合わせてみる」
セナは困惑しながらも、詩集を差し出した。ミラはそれに目を通し、首を横に振った。
「これじゃダメ。あなた自身の言葉じゃないとね」
「自分の言葉…?」
「そう。心から出てくる言葉。感じていること、思っていること」
ミラはリュートを弾き始めた。穏やかで、どこか懐かしい旋律。
「あなたの言葉を、私の音に乗せてみて」
セナは戸惑った。自分の言葉…何を話せばいいのだろう。ミラのリュートの音色は美しく、彼の心に直接語りかけてくるようだった。
ミラがリュートを奏でる。やわらかく、包み込むような旋律。まるで月明かりが水面に映るような、静かで透明感のある音色。
セナは目を閉じ、その音に身を委ねた。村のこと、父のこと、痣が現れたこと、王都に来たこと…様々な思いが胸の中を駆け巡る。
そして、セナは自然に、胸の中に浮かぶ言葉を声にしていた。
「灯りとは、手の中にある願い
名前のない夜でも、少しだけ道を照らす
僕は――誰かの"灯り"になれるのか」
その瞬間だった。
音が震え、セナの声が空気を切り裂いた。ミラのリュートの音色が急に輝きを増し、セナの言葉が音色に乗って部屋中を巡る。音と詩が共鳴し、小さな光の粒が宙に浮かび上がる。
部屋の中が、ほのかな明かりで満たされた。まるで無数の蛍が舞っているよう。
「……これが、"魔力"……?」
セナは驚きの声を上げた。自分の言葉から生まれた光。小さいながらも、確かな存在感を持った光の粒子。
ミラが頷いた。彼女の目は興奮で輝いていた。
「すごい…あなた、本当に才能あるんだね」
「でも、クラスでは…」
「そりゃあ、借り物の言葉じゃ魂が込められないよ」
ミラはリュートを膝に置き、真剣な表情でセナを見つめた。
「詩はただの言葉じゃない。誰かに届きたいって気持ちが、音に乗るとき――それは魔法になるの」
セナはその言葉をかみしめた。誰かに届きたい気持ち…そう、自分は村を離れる時、父やカーラに何かを伝えたかった。その気持ちが、今の詩に込められていたのだろう。
「もう一度、やってみる?」
ミラの提案に、セナは頷いた。再びリュートの音が響き、セナは心からの言葉を紡いだ。
今度は、さらに大きな光の渦が生まれた。
「すごい…」
二人は互いを見つめ、笑顔を交わした。
それから毎晩、ふたりは訓練場に通った。
日中の授業では、セナはまだ大きな成果を出せずにいた。教授の出す課題詩では、わずかな反応しか起こせない。だが、夜のミラとの特訓では、驚くべき進歩を見せていた。
セナはミラの旋律に言葉を乗せ、ミラはセナの詩に感情を添えた。二人の力が重なると、様々な奇跡が起きた。光を生み出すだけでなく、小さな風を起こしたり、部屋の温度を変えたり。
「今日は、もっと深い感情を込めてみよう」
ある晩、ミラがそう提案した。
「深い感情?」
「そう。喜びや悲しみ、怒りや恐れ…どんな感情でもいい。それを言葉に込めて」
セナは少し考え、父との別れを思い出した。複雑な感情。寂しさ、感謝、そして新たな旅への不安と期待。
「父よ、この手を離しても
あなたの鍛えた心は、僕の中で
新たな炎を、打ち続けている」
ミラのリュートが、セナの言葉に応える。部屋の中に、小さな炎の形が浮かび上がった。熱はないが、確かな炎の姿。それは次第に剣の形に変わり、そして消えた。
「すごい…感情が形になった」
ミラは興奮した様子で言った。
「センス抜群だよ。あなた、本当に才能あるんだから」
「でも、授業では…」
「それは、あなたがまだ自分を信じてないから」
ミラはリュートを置き、セナの前に座った。
「先生の詩を読むとき、あなたは"借り物"の感情を使おうとしてる。でも、魔法は"真実"からしか生まれないんだ」
セナは、ミラの言葉を理解しようとした。自分の真実…それは何だろう。
考え込むセラを見つめながらミラは小さく言った。
「……ねぇ、セナ。あたし、もともとは《詩人》の痣が出るはずだったんだって」
「え?」
「でも、出たのは"音"の痣だった。言葉じゃ届かなくて、"補助役"としてしか見られなくてさ。だから、あんたの詩に出会えて――あたし、すっごく救われたんだよ」
ミラの目には、かすかに涙が光っていた。彼女は自分の背中の痣について語った。家族は代々詩人の家系で、彼女も詩人になると信じられていた。だが、痣が現れたとき、それは音を操る《奏導者》の痣だった。
「親は失望したわけじゃないけど…でも、あたしは自分が家族の伝統を壊したように感じてた」
「でも、《奏導者》も素晴らしい才能だ」
「そうだね。でも長い間、あたしは自分の役割に納得できなかった。他人の力を高めるだけの存在でいいのかって」
そんな彼女が、セナの詩に初めて共鳴した時、自分の存在意義を見つけたという。
「あなたの言葉に、あたしの音が響くとき…それは、どっちも欠かせないものなんだって思えたんだ」
セナは思った。自分の声が、誰かの心に届いていた。それは、彼にとって何よりの"力"だった。
「ミラ…ありがとう」
その夜、セナは今までで最も美しい詩を紡いだ。ミラへの感謝と、新たな絆の喜びを込めた言葉。二人の魔法が生み出した光の渦は、訓練場を満たし、まるで星空のようだった。
セナが入学して一ヶ月が経った。
授業でも少しずつ成果が出始め、教授たちも彼の才能に気づき始めていた。借り物ではない、自分自身の言葉を紡ぐことで、セナは徐々に戦詩人としての力を発揮し始めていた。
「今日から、実践訓練に入ります」
エドガー教授が発表した。
「近郊の森で、魔導生物の鎮圧任務が与えられました。学内訓練の一環として、班ごとに取り組んでもらいます」
魔導生物とは、魔力の影響を受けて変異した生物のこと。通常の動物より知能が高く、時に魔力を操ることもできる危険な存在だ。
班分けが発表され、セナとミラは同じ班に組まれることになった。他に三人の生徒が加わり、計五人の小隊だ。
「よろしくな、ルクス」
声をかけてきたのは、ライアン・ノーブル。最初の日に資料を届けてくれた上級生だ。彼は剣の痣を持つ剣士で、今回の班のリーダーを務める。
「初めての実戦、緊張するだろうが、基本に忠実に」
他のメンバーは、風を操る《風魔術師》のエリカと、盾の痣を持つ《守護士》のディオン。バランスの取れた編成だった。
翌日、一行は学院を出発し、近郊の森へと向かった。
「目標は、この森に出没している"ブラッドバイン"という植物系魔導生物です」
監督役の教官が説明した。
「通常は人を襲うことはありませんが、最近、異常な行動が報告されています。任務は、この生物を発見し、鎮静化すること」
教官の説明が終わると、班全員が誰ともなくお互いの顔を見合わせ、頷きあう。慎重に一行は森の中へ入った。
木々の間から差し込む日光が、地面に模様を描いている。鳥のさえずりや、風に揺れる葉の音が心地よい。
「あの辺りにいるはずだ」
ライアンが地図を指さした。一行は慎重に進み、やがて小さな開けた場所に到着した。
そこには、大きな赤い花を持つ植物が群生していた。茎は蔦のように地面を這い、花は人の顔ほどの大きさがある。
「あれが、ブラッドバイン」
ディオンが小声で言った。
「思ったより大きいな」
エリカが緊張した面持ちで呟いた。
「計画通り、まずエリカが風で動きを鈍らせ、その間にディオンが盾で前線を守る。セナとミラは後方から鎮静の詩を詠む。私は万が一の時の戦闘担当だ」
ライアンは冷静に指示を出した。全員が頷き、作戦を開始する。
エリカが前に進み出て、風の魔法を唱えた。彼女の指先から渦巻く風が生まれ、ブラッドバインに向かって吹き付けられる。植物の茎が風に揺れ、動きが鈍った。
「ディオン、前進!」
ディオンは大きな盾を構え、前に出た。彼の痣が光り、盾が青い光を放ち始める。防御の魔法だ。
「セナ、ミラ、頼むぞ!」
二人は互いに目配せし、ミラがリュートを構え、セナは深呼吸した。二人の魔法で、ブラッドバインを鎮静化する計画だ。
だが、その時だった。
突然、地面が揺れ、木々が不気味に揺れ動いた。ブラッドバインの茎が一斉に空に向かって伸び、その先端から赤い液体が噴き出した。
「危ない!」
ライアンの警告が響く。赤い液体が地面に落ち、草木が一瞬で枯れてしまう。強力な毒だ。
「これは…想定外だ!」
監督の教官が叫んだ。
「撤退しろ!これは通常のブラッドバインじゃない。"強化個体"だ!」
だが、その指示は遅すぎた。ブラッドバインの茎が鞭のように伸び、エリカとディオンを打ち据えた。二人は悲鳴を上げて倒れる。
「くそっ!」
ライアンが剣を抜き、茎を切り裂こうとしたが、切れた箇所から噴き出した毒液が彼の腕に掛かり、彼は痛みに顔を歪めた。
一瞬で戦況が逆転した。他の生徒たちが逃げ惑う中、セナとミラは取り残されていた。
「どうする!?」
ミラが不安そうな声で尋ねる。
セナは状況を見回した。仲間たちが倒れ、教官も危険な状態。このままでは全員が危ない。
「やるしかない!」
セナは決意を固め、ミラを見た。彼女はすぐに理解し、頷いた。
ミラの音が空に響く。彼女のリュートから、これまでにない力強い旋律が流れ出た。その音色は森全体を包み込み、ブラッドバインの動きをわずかに鈍らせた。
セナは胸の奥から詩を放つ。これまでの特訓で培った力を全て込めて。
「心が折れそうなとき、そばに誰かの"音"があるなら
その声は剣にも盾にもなる
届け、この想い――僕らの"共鳴"を!」
音と詩が爆ぜる。セナの言葉とミラの音色が完全に融合し、まばゆい光の波が森を包んだ。光の衝撃がブラッドバインを包み、植物はゆっくりと縮み始めた。
「効いている…!」
ミラが驚きの声を上げた。
光の渦は徐々にブラッドバインを包み込み、その凶暴性を鎮めていった。茎は地面に戻り、花は閉じ、通常の状態へと戻っていく。
光が収まると、ブラッドバインは完全に鎮静化していた。毒も出さず、攻撃的な動きもない。
「信じられない…」
立ち上がった教官が呆然と言った。
「これは…"共鳴詩"…?」
ふたりの連携により、初めての"実践魔法詩"が記録された瞬間だった。セナとミラは疲れと興奮で震えながらも、互いに微笑み合った。
「やったね…」
「うん…僕たちの力で…」
倒れていた仲間たちも、徐々に立ち上がり始めた。幸い、重傷者はいなかった。
「セナ、ミラ…すごい力だ」
ライアンは腕の痛みを堪えながらも、尊敬の眼差しで二人を見た。
「私たちを救ってくれて、ありがとう」
エリカも感謝の言葉を述べた。
この出来事は、学院に戻ると大きな話題となった。一年生と二年生のコンビが、強化個体のブラッドバインを鎮静化したという驚くべきニュース。特に、セナの名前が学院中に広まった。
その事件から一週間が過ぎた。
学院の中での評価が、一変した。かつては「中央紋型なのに力が出せない落ちこぼれ」と陰で囁かれていたセナが、今や「共鳴詩の使い手」として注目を浴びるようになった。
「おはよう、セナ!」
エリンが廊下で彼に声をかけた。
「授業、頑張ってるみたいね。エドガー教授も君のことを褒めてたわ」
「ありがとう…みんなのおかげだよ」
セナは恥ずかしそうに答えた。確かに授業での成績も上がり始めていた。借り物ではない、自分自身の言葉を紡ぐことで、詩に力が宿るようになったのだ。
「あのブラッドバインの話、すごいじゃない。あなたとミラの共鳴詩が、学院の記録に残るって」
「そんな…大げさだよ」
セナは照れながらも、内心では誇らしさを感じていた。自分の力が認められたこと、そして何より、誰かの役に立てたことが嬉しかった。
授業後、セナは音律堂の屋上に上がった。ここからは王都の景色が一望でき、遠くには故郷の村がある方角も見える。
「ここにいたの?」
後ろからミラの声がした。彼女は軽やかな足取りでセナの隣に立った。
「うん、ちょっと考え事を」
「何を考えてたの?」
「いろいろ…」
セナは空を見上げた。
「最近、みんなの目が変わった。前よりずっと優しくなった。でも…」
「それが怖いの?」
鋭い指摘に、セナは驚いて彼女を見た。ミラはいつもの意地悪そうな笑みを浮かべている。
「そう…期待されるのが怖いんだ」
セナは正直に答えた。
「村では"選ばれた者"として特別扱いされて、ここでは最初"落ちこぼれ"と呼ばれて…どっちも本当の自分じゃないような気がした。今また"共鳴詩の使い手"として注目されてるけど…」
「本当の自分が分からなくなってる?」
「うん…」
二人は暫く黙って景色を見つめていた。やがてミラが、静かに言った。
「あたしも最初、自分の痣に戸惑ったよ。期待と違う未来。でも今は…自分の音を信じてる」
「どうやって?」
「毎日コツコツと…自分の音を磨いて、それが誰かの力になると信じてきたから」
ミラはリュートを抱え、柔らかい音色を奏で始めた。
訓練後、ミラと並んで屋上の縁に座る。夕暮れの王都が、オレンジ色に染まっていく。
「……僕は、まだ怖いよ。この力が、ほんとに僕のものなのか。"選ばれた"って言葉に、今も怯えてる」
セナは心の奥底にある不安を打ち明けた。
「何が起きても、私は信じるよ」
ミラは、静かに彼の手を取った。彼女の手は小さく、でも温かかった。
「じゃあ、"選ばれた"んじゃなくてさ。"選び続けてる"って、思えばいいんじゃない?」
「選び続ける…?」
「そう。毎日、自分で選んでいくの。詩人であることを、音を響かせることを、誰かのために力を使うことを…あなたは毎日、自分の道を選んでるんだよ」
その言葉が、セナの胸の痣を――再び、熱く灯した。温かさが全身に広がり、未来への勇気が湧いてくる。
「ミラ…ありがとう」
セナはミラの手を握り返した。
「明日も、また選ぶよ。自分の言葉で、誰かを守る道を」
二人の頭上には、星が瞬き始めていた。新たな物語の始まりを見守るように。