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痣が告げる名  作者: 蜂丸
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第1章:痣が現れた日

『言葉が、誰かを救う。その声が、世界を変える』

その日、セナ・ルクスは胸に熱を感じて目を覚ました。

 うっすらと開いた目に映ったのは、灰色の天井と、木の梁。窓から差し込む光は、いつもより弱く、部屋全体が靄がかかったように暗い。

 外では朝から雨が降っていた。春だというのに、空気は冷え、まるで季節が逆戻りしたようだった。窓を叩く雨音が、いつもと違う朝の訪れを告げていた。

 「また雨か…」

 セナはぼんやりとそう呟いた。昨日まで続いていた晴天が嘘のよう。春の雨は気まぐれだ。農家の人たちは喜ぶだろうが、鍛冶屋の仕事は湿気があると少々厄介になる。

 寝返りを打った瞬間、胸の奥が――焦げるように熱かった。

 「っ…!」

 息を呑む。痛みではない、何か別の感覚。心臓の鼓動が早まり、熱は徐々に広がっていくようだった。セナは思わず掛け布団を掴んだ。誰もが一度は夢見る「その日」が、ついに自分にも訪れたのかもしれないという予感が、彼の心をかすかに震わせた。

 目を覚ましたとき、夢の残り香が胸の中にくすぶっていた。まるで誰かに囁かれたかのような、はっきりとした言葉の痕跡。

『言葉が、誰かを救う。その声が、世界を変える』

 そんな声が、確かにあった気がした。でも、自分のような平凡な村の少年に、そんな大それた使命が与えられるだろうか。セナは頭を振って、その考えを振り払おうとした。

 「きっと、ただの夢だ」

 そう自分に言い聞かせながらも、胸の熱は引かなかった。手で触れると、皮膚の上からでも異常な熱を感じる。不安と期待が入り混じった感情が、彼の中で渦巻いた。


彼の家は、代々続く鍛冶屋だった。

 王都から遠く離れたリーヴスの片隅で、父とふたり暮らし。母は幼い頃に亡くなった。写真でしか知らない母の面影は、花のように優しく、時々父が「お前は母親に似た」と言う度に、セナは少し誇らしい気持ちになるのだった。

 幼いころから、未来は決まっていると思っていた。父の後を継ぎ、この村で一生を終えるのだと。その運命に不満はなかった。鍛冶の仕事は誇り高く、村では重宝される職業だ。だからこそ、「別の道」の可能性など、考えたこともなかった。

 「おい、セナ。もう起きたか?」

 階下から、低く太い声が響く。父・ゲルハルトの声だ。

 「はい、今行きます」

 返事をすると、セナは急いで服を着た。いつものように作業着を手に取ったが、シャツを着る際、胸の部分がひりつくような感覚があった。

 父・ゲルハルトは無口な男だった。母を亡くして以来、笑顔が減ったと村の年寄りは言う。だがそれでも、息子には仕事も手も抜かせなかった。厳しさの中に愛情があることを、セナは知っていた。

 階下に降りると、父はすでに朝食の準備をしていた。質素ながらも、栄養のある食事。焼きたてのパンと、昨晩の残りのシチュー。鍛冶の仕事は力が要る。

 「今日は雨だが、オルトの農具を仕上げないといけん」

 父はそう言いながら、セナの顔を見た。そして、何かに気づいたように眉をひそめる。

 「どうした、顔が赤いぞ」

 「いえ、ちょっと胸が…熱くて」

 セナが言うと、父の目に懸念の色が浮かんだ。

 「見せてみろ」

 ゲルハルトはいつになく真剣な表情で言った。セナは戸惑いながらも、シャツをめくった。

 その瞬間、台所に落ちた沈黙が、時間を止めたかのように思えた。彼が、セナのシャツをめくったとき、かつて見たことのない表情で目を見開いて言った。

 「……それ、痣じゃねえか。しかも、**中央紋型センター・グリフ**か……!」

 父の声には、驚きと、何か言葉にできない感情が混ざっていた。

 セナは自分の胸を見下ろした。そこには確かに、見たこともない印があった。

 痣は胸の中心に、燃えるような朱色で刻まれていた。三本の詩的な線が絡み合い、まるで舞い上がる火の紋章のようだ。セナは自分の胸を見つめ、現実とは思えない気持ちに襲われた。

 「いつから…?」

 「さっき、目が覚めたときには…」

 セナの言葉を遮るように、父は椅子から立ち上がり、本棚から埃をかぶった古い本を取り出した。ページをめくる手が、わずかに震えているのが見えた。

 「ここだ…」

 父が指さすページには、セナの胸の紋様とよく似た図版が描かれていた。

 「……《戦詩人》。まさか、うちの坊主が……」

 父の声には驚きと、何か諦めのようなものが混ざっていた。そして、もう一つ――誇りの色も。

 「戦詩人…?」

 セナはその言葉を繰り返した。学校で習った言葉だ。だが、それが自分と結びつくとは思ってもみなかった。

 「ああ、古来より伝わる、言葉の力を操る者だ」

 ゲルハルトは深くため息をついた。その表情には、複雑な感情が混ざり合っていた。


この世界では、職業は選ぶものではなかった。

 "痣が現れる"ことで、その者の"天職"が決まる。

 生まれた時から、すべての子どもたちはその日を待っている。自分の運命が定まる日を。それは祝福であり、同時に宿命でもある。

 他の村の子どもたちと同じく、セナも小さい頃から、いつか自分の痣が現れる日を心待ちにしていた。でも同時に、その日が来ることを恐れてもいた。だって、痣が決めるのだ。自分がこの先、何者になるのかを。

 「父さんの痣は…」

 「腕だ。内側に。鍛冶屋の証だ」

 ゲルハルトは言いながら、左腕の袖をまくり上げた。そこには、鎚と炎を模した、小さな焦げ茶色の痣があった。シンプルだが、力強い印。それは父の誇りだった。

 痣が誰にいつ現れるかは定まっていなかった。10歳で現れる者もいれば、50歳でも出ない者もいる。早すぎても、遅すぎても、人生は変わる。

 痣が現れない者は"空白者"と呼ばれ、一生無職のまま生きることになる。村には何人もの空白者がいた。彼らの諦めの目を見るたび、セナは自分もそうなるのではないかと不安だった。

 隣の家のトビアスおじさんは、六十を過ぎても痣が現れなかった。彼は雑用をこなしながら、静かに生きている。村の人々は彼を尊重するが、その目には同情が混じる。セナはそんな目で見られるのが、何より怖かった。

 だが逆に、特異な位置に痣が現れた者は、国に召し上げられる。

 胸、顔、額、手の甲――いずれも目立つ場所に出た者は、「神に選ばれし者」として王に仕えることすらある。

 それは、村の子どもたちの間でささやかれる憧れの物語だった。誰かが王都に行き、栄誉を勝ち取る物語。でもそれは、いつだって他の誰かの話であって、自分のことではなかった。そんな話は、ただの遠い世界の物語だと思っていた。

 「戦詩人…」

 セナは言葉を味わうように繰り返した。

 それは、詩を詠むことで魔力を生み出す職業。戦場で言葉を武器にし、歌一つで士気を高め、敵すら屈服させる力を持つ。歴史の教科書で習った通り、王国の歴史を変えた偉大な戦詩人たちの名前が、彼の記憶の中で蘇る。

 エイドリアン・ソーン、百年前の大戦を終わらせた伝説の戦詩人。

 マリアンヌ・フロスト、その詩で荒れ地に雨を降らせた奇跡の詩人。

 タリス・グレイ、一族の血を継いだ最後の戦詩人。

 だが、セナは……詩なんて書いたこともない。文字は読める。書ける。村の学校では優秀な方だった。だが、**言葉に"力"があるなんて、信じたことがなかった。**そんな自分が、なぜ?

 「これからどうなるんだ…?」

 セナの問いに、父は再び本を開いた。

 「戦詩人の痣が出た者は、王立職業院に召し上げられる。特に、お前のような中央紋型は…珍しい」

 中央紋型とは、胸の中心に現れる特殊な痣のこと。その場所に現れること自体が希少で、力の強さを示すという言い伝えがある。

 「どれくらい珍しいの?」

 「……記録によれば、百年に一人いるかいないか」

 セナの胸に、重みが加わった。期待も、不安も、責任も、すべてが一度に降りかかってくる感覚。

 あんなに、憧れていたはずなのに。いざ、その身に降りかかると、ただひたすら恐ろしさしかなかった。


噂は、風のように広がった。

 村中が色めき立った。

 「鍛冶屋の息子が、王都に行くらしい」

 「戦詩人の痣が出たんだって」

 「百年に一度の才能だとよ」

 午後には、村の広場まで噂が届いていた。セナが井戸に水を汲みに行くと、周りの人々の視線が、まるで針のように刺さった。

 「本当かい、セナ?」と、パン屋のマルタおばさんが尋ねる。

 「見せてくれよ!」と、幼馴染のライルが興奮した声で言う。

 「どんな感じなんだ?」と、村長のヨハンが真剣な顔で問う。

 目立たぬよう生きてきた少年に、突如光が当たった。だがその光は、温かいばかりではない。羨望と、嫉妬と、距離感を連れてくる。

 昨日まで友だちだった者の目が、今日は違って見える。ライルは興奮した様子だったが、その目には何か別のものが宿っていた。エリックは、なぜか遠くから見ているだけで、近づいてこなかった。

 「セナ、今のうちに握手しとこうぜ」とパン屋の息子が言う。

 「俺が落ち込んだとき、詩でも詠んでくれよ」と、鍛冶屋に剣の修理を頼みに来た若い衛兵が笑う。

 笑顔の裏にある"線引き"に、彼は気づいていた。**もう、自分はこの村の"仲間"ではなくなっている。**その孤独感は、思いがけず胸を締め付けた。

 「セナ」

 振り返ると、カーラが立っていた。幼い頃からの友人で、村の薬屋の娘。彼女も5年前に痣が現れ、母親の職を継いだ。

 「本当なの?」

 彼女の目には、純粋な心配の色があった。

 「ああ…」

 セナは頷いた。カーラは、周りの視線を気にせず、セナの手を握った。

 「私、知ってるよ。突然"特別"になることがどういうことか」

 彼女の痣は、両手の手のひらに現れた。薬師の証。薬効を高める触れ合わせの形。村では珍しい才能だったが、それでも王都に行くほどではなかった。彼女は村に残り、その力を使って人々を助けていた。

 「怖いの?」

 「……ああ」

 素直に答えると、カーラは小さく笑った。

 「そうよね。でも、セナは強いから」

 その言葉が、どれだけの重みを持っていたか。彼女は信じてくれていた。自分が何者になるのかを、心配してくれていた。

 「ありがとう」

 夕方、家に戻る途中、村の広場では子どもたちが集まって、何やら話し合っていた。セナが通りかかると、皆が一斉に振り向く。

 「セナ兄ちゃん!」

 村長の末息子、テオが駆け寄ってきた。まだ8歳の男の子だ。

 「僕も、戦詩人になりたい!どうすればいいの?」

 その無邪気な質問に、セナは答えに窮した。痣は選べないのだから。

 「それは…神様が決めることだよ」

 とりあえずそう答えると、テオは少し不満そうな顔をした。

 「でも、セナ兄ちゃんは何か特別なことをしたんでしょ?」

 その言葉が、セナの胸に突き刺さった。自分は何も特別なことをしていない。ただ、目覚めたら痣があっただけだ。それなのに、村中が自分を違う目で見るようになった。

 「何もしてないよ。ただ…」

 言葉を探していると、テオの母親が呼びに来た。

 「テオ、もう夕飯よ!」

 テオは残念そうに去っていったが、最後に「王都から帰ってきたら、詩を聞かせてね!」と笑顔で言った。

 その笑顔に、セナは何も応えられなかった。もう、この村に戻ってこられるかどうかさえ、わからなかったから。


王都からの使者は、三日後に来るという。

 その間、セナは村での最後の日々を過ごした。鍛冶場の道具を片付け、未完成の仕事を父と一緒に仕上げる。村の人々との別れを告げる。慣れ親しんだ場所を、一つ一つ記憶に焼き付ける。

 出発前日。鍛冶場の火を落とし、ゲルハルトは静かに言った。

 「俺はお前に、鍛冶を継いでほしかった。だが……選ばれたなら、もう違ぇ」

 父の声には、諦めと誇りが混ざっていた。灯りの少ない鍛冶場で、炉の残り火だけが二人の顔を照らす。

 セナは黙って聞いていた。不安も、喜びも、全部混じった想いが喉に詰まっていた。父と過ごした日々、この鍛冶場での思い出が走馬灯のように過ぎる。

 「心配するな。鍛冶屋は俺一人でも続けられる」

 父は無理に笑顔を作った。

 「俺が年を取ったら、また誰か弟子を取るさ。お前の代わりはいないが…村に鍛冶屋は必要だからな」

 セナは胸が痛んだ。自分がいなくなることで、父の負担は増える。年老いた父が一人で鍛冶場を切り盛りする姿を想像すると、やりきれない気持ちになった。

 「父さん…」

 「いいんだ。これも運命だ」

 ゲルハルトは炉の灰を掻き出しながら、静かに続けた。

 「……でもな、セナ。ひとつだけ言っとく。"職業"が人を作るんじゃねぇ。お前が、その職業に"意味"を与えるんだ」

 父の言葉は、セナの心に深く刻まれた。

 「どういう意味?」

 「痣は、お前の才能を示すだけだ。それをどう使うかは、お前次第だ」

 ゲルハルトはセナの肩に手を置いた。その手は、長年の鍛冶仕事で硬く、荒れていた。だが、温かかった。

 「お前は、俺の誇りだ。どんな道を歩もうと」

 その夜、セナは眠れなかった。窓から見える星空を見つめながら、未来に思いを馳せた。王都での生活。戦詩人としての訓練。そして…いつか戦場に立つこと。それらすべてが、遠い夢のようでありながら、明日から現実になる。

 「僕に…できるのかな」

 星空に問いかけても、答えは返ってこない。ただ、胸の痣が、かすかに熱を持つのを感じるだけだった。


三日目の朝、村の広場に一台の馬車が到着した。

 黒を基調とした装飾が施され、側面には王国の紋章が描かれている。村人たちが集まり、好奇の目で馬車を見つめていた。

 そして、迎えが来た。

 黒馬に乗り、銀の甲冑を着た少女騎士――イゼリナ・クラーヴァ。彼女は馬から優雅に降り、村長に一礼した後、真っ直ぐにセナの方を向いた。

 彼女はセナが想像していた騎士とは違っていた。年齢は自分とそう変わらないのに、その佇まいは別世界の人のようだった。銀髪を短く切り揃え、蒼い瞳は凛として冷たく、しかし深い知性を湛えていた。

 「セナ・ルクス」

 彼女の声は、意外にも柔らかく、しかし芯があった。

 「はい」

 セナが答えると、彼女は一歩近づき、丁寧に一礼した。

 「イゼリナ・クラーヴァ。王立職業院ギルドノクスの使者として参りました」

 その仕草は洗練されており、小さな村の出の自分とは明らかに違う教育を受けてきたことがわかる。

 「セナ・ルクス。あなたの痣は確認されました。本日より、王立職業院ギルドノクスにて、訓練を受けていただきます」

 彼女の目は真っ直ぐで、揺るがなかった。セナがどれだけ不安でも、彼女の視線は**"選ばれた者"として彼を見ていた**。その期待に応えられるだろうか。そんな疑問が、セナの心に渦巻いていた。

 「準備はよろしいですか?」

 「あ…はい」

 セナは小さな荷物袋を手に取った。服と、数冊の本と、母の形見のペンダント。それだけが、彼の持ち物のすべてだった。

 父が近づいてきて、セナの肩を強く抱いた。

 「手紙を書け。時々でいい」

 「うん、必ず」

 短い別れの言葉。だが、その中には多くの思いが込められていた。

 カーラも来ていて、小さな袋を渡してくれた。

 「旅の薬だよ。疲れたらこれを」

 「ありがとう」

 「忘れないでね、ここのこと」

 彼女の目には涙が浮かんでいた。セナは必死で微笑んで見せた。

 「忘れるわけないよ」

 イゼリナは、村人たちとの別れにしばらく時間を与えてくれたが、やがて「そろそろ」と静かに告げた。

 馬車に乗り込む前、セナは振り返った。生まれ育った村。知っている顔々。そして、父の姿。

 彼は一度だけ大きく手を振り、それから馬車の中へと入った。

 「行きましょう」

 イゼリナの一言で、馬車は動き出した。セナの人生の新しい章が、ここから始まるのだ。




馬車に揺られ、王都への旅は五日間。

 最初の日、セナはほとんど黙っていた。窓の外を眺め、過ぎ去る風景に目を凝らし、心の中で故郷との別れを噛みしめていた。イゼリナも、そんな彼の心情を察してか、無理に話しかけてはこなかった。


 二日目、セナは勇気を出して質問した。

 「どうして、僕を迎えに来たのですか?通常は、もっと…地位の高い方が?」

 イゼリナは少し驚いたような表情を見せたが、すぐに柔らかな微笑みを浮かべた。

 「私も戦詩人志望です。来年、試験を受ける予定なので」

 「戦詩人に…試験があるのですか?」

 「ええ。全ての痣持ちが、その職業に就けるわけではありません。特に、戦詩人のような特殊な職業は」

 その言葉に、セナは少し驚いた。痣が現れれば、その道に進めると思っていた。それが村での常識だった。

 「あなたのような、中央紋型の持ち主は別ですが」とイゼリナは続けた。

 「どういうことですか?」

 「中央紋型は、才能の証です。試験なしで、直接訓練に入れます」

 それは名誉なのか、それとも重荷なのか。セナには判断がつかなかった。


 三日目、二人の会話はより打ち解けたものになっていた。イゼリナは王都の話をしてくれた。巨大な魔導図書館、高くそびえる塔、多種多様な人々が行き交う広場。それらの話を聞くだけで、セナの胸は高鳴った。

 「ところで」とイゼリナが尋ねた。「あなたは、詩を書いたことがありますか?」

 「いいえ」正直に答えた。

 「そう」イゼリナは少し考え込んだ。「でも、中央紋型が現れたということは、あなたの中には才能が眠っている」

 「でも、どうやって言葉に力を…」

 「それは、訓練で学びます。心配しないで」

 彼女は安心させるように微笑んだが、セナの不安は消えなかった。自分には無理なのではないか。この痣は、何かの間違いなのではないか。


 四日目、途中で小さな町に立ち寄った。馬を休ませ、食料を補給するためだ。

 町の広場で休憩していると、一人の少年がセナたちに近づいてきた。

 「騎士様、その人も騎士なの?」

 少年はイゼリナを見上げながら尋ねた。イゼリナは優しく微笑んで答えた。

 「いいえ、彼は戦詩人になる人よ」

 少年の目が輝いた。

 「すごい!僕も何かになりたいんだ。でも…」

 少年はそこで言葉を詰まらせた。セナは察した。

 「痣が、まだ出てないの?」

 少年は頷いた。

 「うん。もう10歳なのに。友達はみんな出てるのに」

 痣を持たない子どもに会った。その子の目には、セナが見慣れた諦めではなく、別の光があった。

 「いいなぁ、痣があって。僕にはないよ。でも、お母さんが言ってた。”痣がなくても、自分でできることを見つけなさい"って」

 セナはその言葉に、何かが刺さった。当たり前のように痣を待ち、痣に決められた道を歩む。でも、本当にそれだけなのか?痣がなくても、自分の道を見つけられる。そんな考え方もあるのだ。

 (俺は……"できること"を、自分で選べるのか?)

 その問いは、旅の間中、彼の心の奥で反響し続けた。


 五日目、イゼリナが告げた。

 「今日、王都に到着します。準備をしておいてください」

 セナは窓の外を見た。朝霧の中、遠くに何かが見えてきていた。塔だろうか。建物だろうか。その輪郭は、徐々に明確になってきた。

 「あれが…王都ですか?」

 「ええ、エルデンシア。光の都と呼ばれています」

 イゼリナの声には、自信と誇りが満ちていた。彼女にとって、王都は故郷のようなものなのだろう。

 「どうして『光の都』と呼ばれるのですか?」

 「まもなく分かります」イゼリナは意味深に微笑んだ。「もう少し近づけば」

 馬車は丘を登り、やがて頂上に達した。そこから見える景色に、セナは息を呑んだ。

 朝日に照らされた王都は、まさに光り輝いていた。白く輝く塔、金色に光る屋根、水晶のように透き通った橋。そして、都市の中心に聳え立つ巨大な水晶の塔。その姿は、まるで夢の国のようだった。


 「すごい…」

 それが、彼が言えた唯一の言葉だった。村で見た建物の中で一番大きいのは、村長の家と教会だけ。それらでさえ、王都の最も小さな建物にも及ばないだろう。

 「これから見るものは、もっと素晴らしいですよ」とイゼリナは言った。

 空を切り裂く塔。馬車が都市に近づくにつれ、セナは信じられない光景を目にした。塔の間を、人が飛んでいた。いや、人ではない。翼を持つ騎士たち。銀の鎧を身につけ、背中には魔法の翼が広がり、青い光を放っている。

 「あれは…人間ですか?」

 「風騎士団です。空を司る痣を持つ選ばれし騎士たち」

 イゼリナの説明に、セナは息を呑んだ。痣の力は、ここまで多様なものなのか。

 馬車は王都の門をくぐり、大通りを進んだ。両側には立派な店や邸宅が並び、通りには様々な衣装を着た人々が行き交っていた。貴族らしき人々、商人、職人、そして様々な軍人たち。

 空中を飛ぶ騎士たち。彼らの姿は、まるで天使のようだった。セナの村では、痣の力は実用的なものだった。鍛冶屋、パン屋、農夫…。だが、ここでは痣の力が、想像を超える形で表れていた。

 街を流れる魔導水路。通りの両側には、青く光る水路が流れていた。水は上に向かって流れたり、壁を伝って曲がったりと、自然の法則に逆らっていた。

 「あの水は…」

 「魔導水です。都市のあらゆる場所に水と魔力を供給しています」

 それは彼が知る世界とは、まったく違う世界だった。村との違いに圧倒され、自分がここに本当に属するのか、不安が押し寄せる。この輝かしい世界で、自分はどのような存在になるのだろうか。

 馬車は中央広場を通り過ぎ、さらに進んだ。人の流れは徐々に変わり、より規律正しく、より目的を持った人々が行き交うようになった。様々な服装の若者たち。彼らの胸や顔、手には、様々な痣が見えた。

 「ここは学生区です」とイゼリナが説明した。「様々な痣を持つ若者たちが、訓練を受けている場所」

 セナの心臓が早鐘を打った。自分も、もうすぐそんな一人になるのだ。

 そして、王都の中心部に――**職業院"ギルドノクス"**があった。

 巨大な白亜の建物。青銅の大門には、様々な痣の紋様が刻まれていた。建物全体が淡い光を放ち、まるで呼吸をしているかのように、その光は脈動していた。

 馬車は門の前で止まった。イゼリナが先に降り、セナに手を差し伸べた。

 「さあ、到着しました」

 セナは深呼吸をし、馬車から降りた。建物の壮大さに圧倒されながらも、一歩一歩前に進む。

 その前でイゼリナが告げる。

 「ここから先は、"痣を持つ者"しか入れません」

 大門の前には守衛はおらず、ただ青銅の扉があるだけだった。

 「セナ・ルクス――扉に手を」

 イゼリナの指示に従い、セナは大門に手を伸ばした。手のひらが冷たい青銅に触れた瞬間、彼の胸の痣が反応した。熱く、鼓動を打つような感覚。

 彼の手が、門に触れる。痣が熱を帯びる。心臓が高鳴り、これから始まる未知の世界への一歩に、恐怖と期待が入り混じる。

 大門がゆっくりと開き始めた。光が漏れ出す。セナの目が眩んだ。

 そして、世界が開いた。

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