故郷へ
「君は、誰か、なんだね?」
神殿を出て乗り込んだ馬車の中、しばらくの沈黙の後にシンダーがそう切り出した。えっと、と言いながら彼の質問の意図を考えていると、「忘れているとか、知らないふりをしているとかではなく、アメデオではない誰か、であってる?」と噛み砕いて言葉をなげかけられた。
「はい、アメデオではありません。」
「名前は?」
「名前は、雨宮、といいます。」
空に、漢字を書くように人差し指を滑らせると、じっとそれを見ていたシンダーは「知らない文字だ」と呟いた。
「異国ではないのか?」
「いや、多分、異世界です。私たちの国には、聖力や魔力は存在していないので。」
「…なるほど」
ふん、と考える素振りをしてから、シンダーは一言「君について聞いても」と尋ねた。
「何でもどうぞ。本当に大した秘密とか無いので…」
「君は何をしている人なの?」
「高校…学生です。学校に通っていました。専攻とかは特になくて、普通のことを勉強していました。」
「年齢は?」
「17です。」
「17にもなれば普通に学校に通えるのか。それとも君は勤勉なのか?」
「全員が、という訳では無いですが、わりと一般的に進学はしています。」
目を見開いたシンダーは「凄いな」と呟いた。小説を読んでいると知っていることと言えば、シンダーはアメデオと離れるまで勉学を修めることも出来なかったということだ。勉強をすること、学校に通うことが簡単ではないと知っているからこその新鮮な反応だった。
「家族は?」
「父…あとは母と、姉がひとり。」
「そうか。」
天涯孤独の彼が何を思ったのかは分からなかった。けれど、出会った時に比べると口調は幾分か柔らかくなっていて、高圧的な態度は無くなっていた。ただ相手が、何かを考えながら話している、という感覚がある。
「今、この状況をどう思ってる?」
「…正直、戸惑っています。ずっと読んで知っていた世界だ、という興奮もあってあまり感じていないけど、しばらくしたらきっと、もっと不安になるような気もしています。」
「…そうか、いや、そうだろうな。」
異世界、か、と彼は繰り返した。イマイチぴんと来ていないのか、それとも何か思うところがあるのかは判別がつかないけれど、それを理解しようとしていることはわかった。
「何か、話すべきことがありますか?」
「…正直、俺は戸惑っている。というのも、少なからずアメデオという存在を良く思っていなかったから、というか。」
多分、憎んでる。そうシンダーは言った。そうだろうな、と思ったし、それと同時に息苦しい痛みを感じた。 「私は、あなたと居ない方がいいのでは?」
「…いや、平気だよ。君は僕の知ってるあの人とは似ても似つかない。」
似てる、というか、同じ人ではあるのだが、と思いつつも頷くと、それを見たシンダーは「アメミヤと呼んでも?」と尋ねた。
「はい、どうぞ、アメミヤと。」
「じゃあ僕はシン、と。友人にはそう呼ばれていたし。」
「分かりました、シン…さん」
そう言うと、真面目だなぁ、とシンダーが小さく笑った。そういえば、初めて笑顔を見たな、なんて思った。 それを話しながら、馬車の中で考えていたことがある。シンダーの友人たち、とは、学園編で出会った人たちのことだろうと。
「〜編」と付く区切りのつくものでは一番長く、学園ものでわちゃわちゃとしたコメディ要素もあったそこは、作中で特に人気のパートでもあったため、印象は強かった。けれど、最終的に友人たちとはすれ違いで仲違いし、後の最終章で誤解が解けて仲直りでもするかと思えば、結局その掘り下げもなくそのまま終わってしまった。
シンダーの言葉が過去形だったことが気になった。それは、未だその関係はそのままで、彼と友人はすれ違ったままで、今「シン」と親しみを込めて呼ぶ人は居ないのだと意味していた。
(彼は、単純に、寂しいのかもしれない。)
ハッピーエンドを迎えたのならば、幸せであろうと漠然と思っていた。しかし、思い返すと、天涯孤独な境遇や波乱万丈な人生のせいで彼は親、師、友人、など数多のものを失っていた。こんな事は言うべきでは無いのかもしれないけれど、ヒロインと結ばれた、という形式上の「幸せ」を与えられたシンダーを可哀想にすら思った。
「今はどこに向かっているんですか?」
「ん?ああ、今は東の村へ」
「東の村?」
「そう、昔住んでいたから…」
「ああ、なるほど」
納得したように言うと、シンダーは苦笑いしたような表情で「それも知ってるんだ」と呟いた。曲がりなりにも養父であるアメデオの魂を探す、その時に、浮かぶ思い出が幼少期だというのが2人の長く深い溝を象徴するようだった。
魔術の力で直ぐに着く、と語った彼は、馬車の車窓を感情の見えない表情で眺めていた。ゲートのようなものを潜ってからは、絢爛な中世ヨーロッパもどきの街並みから打って変わって、緑が目立つ素朴な風景に変わっていた。そして外れには森が見える。原作を読んでいたからこそ鬱蒼としたあそこが彼が育った場所だとすぐに分かった。 シンダーがおもむろに手錠をはずした。いいんですか?という質問に、彼は「そもそも君は僕に勝てないだろう」と肩を竦めた。
揺れていた車内で緩やかに速度が落ちていくのを感じた。
「ここで降りようか」
「あ、はい」
止まった馬車を降りた時に、先に出ていた彼がそばで待ちながら自身を気にかけていることに気づいた。シンダーは、思っていたより優しい人だな、と感じていた。だが、幼少期、学園編ではこういう気遣いみたいな部分を感じていたし、違和感がある、という程でもない。ただ、最終章になってからはもっと勇ましく強く、怖い印象があった。よくよく思い出せば作中ではいつの間にか一人称が「俺」になっていた気がする。確認したくとも今は読みようがないのだが。
「久しぶりだな……」
特に返事もいらない、独り言のような言葉だった。あの、学園に向かってからの数年越しの里帰りというなら、そんな大事な事がこんな風な形になってしまったのを申し訳なく思う。 絢爛な馬車の周りには人が集まり始めていて、そりゃあこんな田舎にいかにも王族貴族然とした馬車がつけばそうなりもするか、と考えたりもしていた。
その時、ふと視線を感じてあたりを見回した。そこに居たのは、エプロンに頭巾をつけて、いかにも町娘という風貌の少女だった。栗色のポニーテールが風にゆれている。素朴だが可愛らしいその子を知っているような、懐かしい気持ちに襲われた。
「クララ……?」
小さく呟くと、それに気づいたらしいシンダーはその視線を追って、静かに佇む幼なじみに気づいたようだった。パッとその表情は明るくなり、眉毛が八の字に下がるのを見て、「いいな」なんて思った。 と、いうのも、一読者としてこのヒロインを応援していたからというのもある。
クララはシンダーの師であるジェラール・ルグランの娘であり、この作品のヒロインの1人でもあった。こういった作品お約束のヒロインレースの中で、所謂負けヒロインとなってしまったが、幼なじみであり、まだ幼かったシンダーに優しくしてくれた人であり、しっかりとした子で好感も高く、最初にシンダーからの好意が描写された子だった。
負けた、とはいっても、今この世界に来てから見たこともないあどけない表情を浮かべるシンダーを見ると、感慨深いような気持ちになる。
「久しぶり、元気そうね」
ニッコリと笑うクララはこちらまで明るい気持ちにさせてくれるようだった。その穏やかな目は動いて、こちらを伺った。 幼少期から少年期まで関わりのあった少女は、誰よりもアメデオとシンダーの関わりを知っているだろう。
恐怖か、驚きか、どういった感情をその瞳に宿すのかと思っていたら、彼女の表情はその予想のどれとも違っていた。
(泣きそうだ。)
どうしよう、と思ったのもつかの間、彼女は瞬きの間にその感情を隠してしまったようだった。
「あなたの家かしら?たまに掃除していたから、綺麗なままよ」
どうしてそこまでしてくれる?きっとシンダーだってクララにそう尋ねたかっただろう。しかし彼は彼女から促されるままに足を進めて、ただ静かに感謝を返した。
「ありがとう」