③Eilidh ―エイリッド―
「…………」
エイリッドは部屋に戻ってすぐ前のめりになってこの本を読み進めたが、何せ大東語である。もどかしいながらに、母国語を読むようにはなかなか進まない。
それにしても、この先を読むのが躊躇われた。
嫁入り前の娘が読んでいい内容だろうか。でも気になる。
開いては閉じ、開いては閉じ――やっと覚悟を決めて読み進めようとしたところ、またしても邪魔が入った。
「お嬢様、旦那様がお呼びでございます」
「…………今、行くわ」
まったく読めないまま、エイリッドは部屋から出るはめになった。
それにしても、父がなんの用だろう。これまで帰宅してからも部屋に呼ばれたことはほとんどない。用があれば晩餐の席で言った。
改まった話だろうか。あまりいい予感はしなかった。
エイリッドは父の書斎の前でドアをノックする。
「お父様、エイリッドです。お呼びと窺いましたが」
「入りなさい」
父の書斎の壁には装飾的な革表紙の本がたくさん並んでいる。
そして、大東国の書物も全体の五分の一程度はある。個人が所有できるものなので、そこまで歴史的な価値があるわけではないとしても、エイリッドにはこの家で一番値打ちのあるものに思える。
だから、父の書斎に呼ばれると父の方ではなく、つい書物の方をチラチラと見てしまうのだった。
けれど父は、そんなエイリッドの動きを緊張しているとしか受け取っていないらしい。特に叱られることはなかった。
ソファーに座るように促された。すると、父はエイリッドの正面に座り、何枚かの写真を並べた。
その写真を見て、エイリッドは胸が潰れるような苦痛しか感じなかった。
「あの、お父様、この方々は……」
三枚の写真はどれも青年の写真だった。
「社交場でいずれ顔を合わせるだろう。この三人がお前の婚約者候補になる」
三人とも、兄のイーデンと同じくらいかそれよりも年上に見えた。当然ながらそこにサイラスらしき人物はいなかった。
髪質の硬そうな眼鏡の男を指さし、父は淡々とした説明を始める。
この人だけ見覚えがあった。彼は兄と交流があったのではないだろうか。
何度か家に来たけれど、まだ幼かったエイリッドに目もくれなかったし、優しい言葉もかけてくれなかった。兄とどこか似通った冷たい男だと思う。
その男が父の一押しらしい。
「彼はネイト・アレン。イーデンのスクール時代からの友人だ。外務省の官僚試験に合格して大東国へ何度も派遣されている。優秀で機知に富んだ男だ」
それほど優秀な人物が兄と友人だとは思えない。官僚試験とは紙の上でのことだから、それだけで優秀というのなら、大東語を翻訳できるエイリッドも優秀と言われてもいいのでは。
「ご両親のこともよく知っている。お父上は退役将校で人望もあり、軍部との繋がりも強い」
などとアレン家について語り出した。だから、その家との繋がりがあれば盤石だと言いたいらしい。
そこにエイリッドの意見は取り入れられるのだろうか。
とにかく、第一候補であるネイトに気に入られるように振る舞いなさいと言いたいのだ。
「――わかったな、エイリッド?」
「はい、お父様」
途中からほとんど聞いていなかった。にっこり笑って嘘をつく。
何も納得していない。それどころか、気持ちはこの場から離れていた。
大東国へ行きたい。
結婚なんてして、夫が駄目だと言ったら、もう一生旅に出ることなどできないのだ。
彼の地を踏むことなく、夫に支配されて生涯を終える。そんなのはまっぴらだ。
エイリッドはグラグラ揺れる頭を抱えて部屋に戻ると、机の引き出しに入れてあるあの書物を引っ張り出した。
続きを読もう。今はこの現実を忘れたい。




