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虎帝妃の書  作者: 五十鈴 りく
➊雪月 834年?月?日~
6/6

➊雪月 ―セツゲツ― 

 もし私の他にこの書を手に取り目を通される方がいたとしても、大東国のことなど百も承知ではございましょう。

 それでも、私が心を落ち着けるために最初からすべて書かせて頂くことと決めました。


 渺茫(びょうぼう)たる海原を堰き止めるような陸地の、最も大きな国。それこそが我が大東国でございます。

 なだらかな草原、荒野、峻険な山、緑豊かな林、 ありとあらゆる美しさがこの国に凝縮されているといっても差支えはありません。


 始まりを辿れば神がおわす、そんな土地を人が託されたのでございます。

 八の神々、八の民族、八の州、八の川。八という数に調和を見出し、ひとつ欠ける七という数を厭います。

 八という全きを保つことで神に近づけようとするのです。


 けれども開闢(かいびゃく)、人は神とは違い、欲に目が眩むこともあれば、間違うことも多くあります。

 そうした時、天から下界を見守られている神が人の世を正されるのです。

 それとはわからぬよう、人を操り、人が人を裁くように国をあるべき姿へと戻してくださるのです。


 簒奪(さんだつ)が成るのは天命によるところとされております。そうして王朝が幾たびも切り替わり、今の景代になりましてようやく景王朝第三代皇帝陛下の御世でございます。


 先の皇帝陛下は(とみ)に病がちで、景王朝の次代は見込めず潰えるのではないかと囁かれておりました。

 それが、皇太子殿下はそんな噂をした者が恥ずかしくなるような傑物にご成長されたのです。


 幼かった私は、そのお噂を別世界の出来事のように受け止めただけでした。

 私の運命が陛下――琳紹(りんしょう)様と深く交わることになろうとは露知らず。




 あの御方と初めて出会った日、私はやっと十三歳になったばかりの子供でした。

 十三といえば人によってはませていることもあるのでしょうけれど、私は屋敷の奥で書物を読んだり詩作をしたりするような内気な性質(たち)です。世間ずれしておらず、殿方にも慣れておりませんでした。


 その私が後宮へ入り皇帝陛下の妃として生きると、そんなことを望むはずもございません。年頃の娘たちがそろってそれを夢見ていようとも。


「雪月、お前は亡き母親に似て美しく生まれついた。しかし、大人しいお前に後宮で陛下の寵を競い合うのは無理というものだ。部屋の隅で幸せとは無縁に朽ちてしまうかもしれない」


 後宮へ召し上げられる栄誉よりも、父は娘の穏やかな日々を願っていてくれたのです。

 それというのも、父は右丞相(うじょうしょう)として後宮での覇権争いを見聞きしたが故のことでしょう。


 父が憂慮したように、人付き合いを不得手とする私でしたから、そんなことはないとは申しませんでした。


「いずれはお前を護ってくれる誠実な男を探してやるから案ずるな」


 優しい方であればいいと、私は父の言葉に安堵しました。

 けれど、父はずっと、周りから私を後宮へとせっつかれていたようです。


 私があまり外へ出たがらないものだから、噂に尾ひれがついて、右丞相の(しゅう)懐世(かいせい)の娘は神仙のごとき美しさだと勝手に囁かれたが故のことです。


 色は白いかもしれませんが、健やかな肌色とはいえず、いかにも弱々しいだけだとしか自分では思えませんでした。




 父は、私の後宮入りを拒んでくださいました。

 これが陛下たってのご希望であれば断ることはできなかったと思いますが、そうではありません。親類縁者が立身出世のために私が寵姫となって陛下に(こう)されてほしいが故のお話でしたので、まだ首を横に振り続けることができたのです。


 ただし、それは父が存命であればこそでした。

 急な病に倒れた父が帰らぬ人となった後、私はなんの力もないただの小娘でしかございません。

 私の母はすでに亡い上に正妻ではございませんでしたので、私の立場などないに等しいものでした。


 正妻の朱氏(しゅし)とその親族は、一年経ち父の喪が明けるなり私の後宮入りを決めてしまいました。


「精一杯陛下にお尽くしして、この家を盛り立てなさい。それが周家に生まれたお前の使命です」


 私は頭を垂れ、ふたつ返事で後宮へ赴くよりありませんでした。

 この申し出を断れば、今度はどんなところへ嫁がされるかわからないのですから。




 私は後宮の誰よりも年若く、本当に幼いばかりでした。それでも、一応は周家という名家の娘であることから、淑妃(しゅくひ)という高い位を授かったのです。これは目立つつもりのなかった私にとってはただただ誤算でした。


 けれど、怯えた心を抱えた子供の私が皇帝陛下、(そう)琳紹様にご拝謁した折。

 陛下は震える私に指一本触れられることなく、ご自身の顎を摩りながら呵々大笑されました。


「これはまた、名の通り雪細工のような娘ではないか。武骨な手で触れては瞬く間に溶けてしまうな」


 そのお声の明るいこと。

 私は恐ろしさよりも好奇心に引かれ、そのご尊顔を窺いました。


 ご自身では武骨との仰りようでしたが、そこには高貴なお血筋を感じさせる気品も兼ね備えておいででした。逞しさと優美さ、相反するかに思えるものが程よく混ざり合った、それが琳紹様という殿方です。


 この時、琳紹様は御年二十四歳におなりで、私よりも頭ふたつ分は上背もございました。本当に見上げるほど大きかったはずなのに、不思議と恐ろしさが抜けていき、私はこのお方に見惚れておりました。


「朕にはまだやるべきことが多い。それが落ち着く頃には其方も麗しい女人に成長していることだろう。その時を待とう」


 幼い私に向けるせいか、お声も優しく慈しみ深いものでした。

 そして、私はこのお方の妃になるのだと、心の中ですとんと据わりよく何かが落ち着いたのです。


 それからも、陛下は後宮へ足を向ける時は私にもお声がけくださいました。なるべく日の高いうちに訪れて、私との茶会を息抜きとしてくださったのです。


「雪月の淹れた茶は優しい味がするな」


 後になって知ったことですが、病がちな先帝陛下の権威が弱まった頃に庇護してくれたという理由から、陛下は私の亡父に恩義を感じていて、それで娘の私を大事にしてくださっていたのでした。

 私はそれを知らず、いえ、知ってからも陛下の御心に感じ入るばかりでした。


「ありがとう存じ上げます。こちらは疲労回復効果のある薬湯茶でございます。お忙しいのは重々承知でございますが、どうか御身をお厭いくださいませ」


 十三の小娘が皇帝陛下に意見するのではありませんが、私は常々陛下が激務のあまりお倒れにならなければよいと案じておりました。

 そう、私はこの頃にはすでに陛下に恋心を抱いていたのです。


「ああ、そうだな」


 戦上手で戦神とさえ謳われる陛下ですが、柔らかく微笑まれるご様子にはどんな女人も抗いがたいものがございました。

 そんな陛下に相応しい、求められる人間になりたいという願いが私に芽生えていたのです。


 けれど、この時はまだ先に戦を控えておりました。陛下のなすべきことというのは、我が国へ侵略を試みる北狄(ほくてき)を平定するという大事でした。


 もちろん陛下を信じておりましたが、それでも戦となれば何が起こるかわかりません。後宮入りする時とはまた違った、あの時以上の不安を覚えずにはいられなかったのです。


「必ず戻る。戻ったら、また茶を淹れてくれ」


 そうして、陛下はやはり幼い私には指一本触れぬまま戦地へと赴かれたのでした。


 陛下がご不在の間、妃妾や宦官の中には以前から私が気に食わなかったという態度を隠さない者もおりました。それでも私は、陛下のお帰りをこの後宮で待つと心に決め、何事にも屈さないつもりでございました。


 事実、衣に針を仕込まれたり、食事に虫を入れられたり。そんな嫌がらせは可愛いもので、呪詛も行われました。

 けれど、私なりに呪詛を跳ね返す護符、人形を用意して事なきを得ました。変に用心深い性格でよかったのでしょう。


 そうこうしているうちに終戦の足音が聞こえて参りました。陛下の策、勇猛な武将の働きにより、完膚なきまでの勝利を収められたとのことです。


 陛下がご帰還されるという書簡が先になって届いた頃、私は十七歳の花盛りを迎えておりました。

 女官たちに磨き抜かれた肌も髪も赤い唇も、他の妃妾に引けを取らないはずです。


 ようやく、大人になった姿で陛下の前に立てるという喜びを抑えきれないほどでした。


 ただし、姿かたちこそ大人になりはしたものの、私はまだ物を知らない子供とそう変わりはなかったのかもしれません。


 陛下のご帰還に浮かれていて、その陛下が変わり果てていることなど思いもよらなかったのですから。


 

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