⑬Eilidh ―エイリッド― ⑴
景王朝第三代皇帝宋琳紹は生き延びていた。
そして、寵妃雪月との間に子を成して大東国の片隅で穏やかに暮らしていた。
二人の子孫は長い歳月の末に海を越え、このリングランドまでやってきたのだとする。それを知った虎はすべての血を根絶やしにするまで諦めきれなかったと。
世が世なら皇帝であったと言った。
宋家に固執していたから、虎はそのひとつ前の王朝の末裔だったのかもしれない。
その尊い血筋を誇りに、凋落を受け入れず矜持だけを抱えて獣となった。そして、いつか返り咲くことを誓い、虎妖としてこの世に居座り続けた。
ゾッとするような執念だ。
そして、その執念に多くの人が巻き込まれた。長い歳月を経て、国も越えて。
もう蘇ってくれるなと、エイリッドは心から願うばかりだった。
翌朝になっても火傷は痛むけれど、手袋をしていれば傷は見えない。
モイラはエイリッドの怪我を心配すると同時に、エイリッドに怪我をさせてしまったことを父に知られないかと恐れているのがわかった。
反省して謝罪をくれたモイラを責めるつもりはない。
これは名誉の負傷とでも言うべきか、雪月の書を、彼女の想いをこの世から消さずに救えたのだから、たとえ痕が残ったとしても悔いはなかった。
それより、自転車を失くしたことが問題だ。
どうやってフォレット横丁まで行けばいいだろうか。エイリッドは真剣に考えたが、結論は強行突破しかなかった。
家族の評価など気にしていられない。怒られたっていい。出ていけと言うなら出ていく。
それくらいの覚悟で屋敷を抜け出した。歩いていく、その一択のみである。
雪月の書を入れた鞄を胸に抱き、エイリッドは日傘を持って出た。日傘は――いざという時の武器のつもりなので差さない。
虎はもういないけれど、怖い人間だっているのだから、武器は必要だ。
自転車を漕いで鍛えた脚は、他の令嬢とは違って少々歩いたくらいでは音を上げない。気が昂っているからでもあったかもしれない。
フォレット横丁に辿り着くまでがとても遠く、砂漠の中を歩いているような気分になった。
早く着きたいのに、と気持ちだけが先へ行く。
マルヴィナは大事な虎皮を失い、ひどく気落ちしていることだろう。それでも、ランドルとマリアを護ってくれた。
それは雪月たちのためであり、きっと他にも理由はあるのだろう。
やっとフォレット横丁に辿り着いた時、エイリッドは半ば駆け出すようにしてマルヴィナの店を目がけた。
「マルヴィナさん!」
良家の子女とは言えないほど粗野に戸を開いてしまったけれど、マルヴィナは驚きもせず、カウンターの奥に座ったまま微笑みかけてくれた。
「いらっしゃい、ミス・エイリッド」
その穏やかさにほっとした。
ただ、すぐに寂しくなった壁に目が行って得も言われぬ心持ちになる。
この店の中で一番目を引いたあの虎皮がない。それだけでここが別の場所になったようだ。
店の奥でガタガタと物音がした。マルヴィナの他に誰だろうと思ったら、ランドルが奥から慌ただしい様子で出てきた。
上着もベストも着ておらず、シャツの襟も内側に折れて乱れている。黒髪もあちこちに向いているが、それを手櫛で整えながら来た。中途半端な身支度だがエイリッドが来たと聞いて慌てたらしい。
エイリッドが用があったのはマルヴィナなので、ゆっくり出てきてくれてもよかったのだが。
「おはよう、ランドル」
挨拶すると、ランドルは目を合わさず、ばつが悪そうに返した。
「おはよう、エイリッド」
エイリッドはさっそく鞄から雪月の書を取り出した。それをマルヴィナに向けて差し出す。
「全部読めました。だからこの書はマルヴィナさん――白瑚さんにお渡しした方がいいみたいです」
「……いいの?」
マルヴィナは震えていた。書のくすんだ表紙に目を奪われ、そして愛しい恋人と再会したかのような恍惚とした表情に変わる。
「はい。雪月さんはあなたにまたお会いしたいと願っておられましたから、こうするのが正しいと思います」
差し出された書を受け取り、マルヴィナはそれをそっと胸に抱いた。
エイリッドがこの書を手に入れたのは偶然でしかない。
雪月たちの子孫は海を渡ってこの国に来たけれど、雪月と虎帝がここまで来たわけではないのだ。それなのに、この書は今になって海を越えてやってきた。
それは、雪月がマルヴィナに会いたいと願いながら生涯を閉じたから、その想いが書をここまで導いたような気がするのだ。もちろん説明なんてつかない。
そしてエイリッドは何も関りがないはずだ。その自分が二人を繋ぐ役割を果たしたことにもきっと意味はない。
その意味のないことの連続が、いつの間にか意味を成している。万事、そういうものなのかもしれない。
「ありがとう。本当に嬉しいわ」
永い時を生きたマルアヴィナは、生きることに慣れすぎていて、もうそれほど心を動かされることもなかったように思う。それでも今、マルヴィナは目を潤ませ、エイリッドに礼を言った。
「雪月は本当に心優しい人だったの。私の正体を知った後になっても、怖がったり避けたりしなかった。人間だけど、仲間で、友達になれた……」
「わたしも人間ですけど、お友達では駄目ですか?」
エイリッドはおずおずと言ってみた。
マルヴィナには恩があるから、友達としてこれからも付き合ってくれたら嬉しい。
そうしたら、マルヴィナはふわりと笑った。
「そういえば私もこれからはただの人間になるのだったわ。ありがとう、エイリッド」
親しみを込めて名を呼んでくれた。ランドルはそんな二人を眺めながらつぶやく。
「俺も少なくとも仲間のつもりだけど」
「ええ、そうね。……なんだか昔に戻ったみたいな気分」
マルヴィナがどんな気持ちでこれを言ったのか、本当の意味でエイリッドが理解できる日は来ない。わかったような気分になることすらできない。
それくらい、マルヴィナの孤独は深かったのではないかと思うから。
「ランドル。彼女を送っていってあげたら? 話があるんでしょう?」
囁くような声でマルヴィナが言った。ランドルはギクリと身を硬くしている。
来たばかりだけれど、これはマルヴィナが落ち着いて雪月の書を開きたいからだろうと思えた。
それがわかったから、エイリッドはランドルに視線を向けて頼んでみた。
「お願いできるかしら?」
この時になってもまだ、ランドルはエイリッドの目を見ようとしなかった。疚しさがその表情に表れている。それでも、ランドルはうなずいた。
「わかった」
自転車がないから、エイリッドは帰りも歩いて戻るつもりだ。
男と連れ立って歩いていたと噂を立てられたとしても構わない。もう、そんなことを気にするのは嫌だ。自分のしたいようにする。
ランドルはエイリッドに話があったはずだが、きっとその時間が思った以上に早く巡ってきてしまったのだ。
まだ気持ちの整理がつかないような複雑な面持ちでエイリッドの隣を歩く。歩調はゆっくりとしていた。
しばらく無言で歩いて、やっとランドルは口を開いた。
お付き合いいただきありがとうございます!
明日で完結します(*´ω`)




