⑫Eilidh ―エイリッド― ⑷
馬車が屋敷まで着いてしまうと外出が露見してしまう。
エイリッドは屋敷から少し離れたところで馬車から降りた。御者は若い男女の逢引きだと完全に誤解しているので、訳知り顔で事情を聞かずに降ろしてくれた。
自転車はないので庭から戻る必要はなかったのだが、見つからないように隠れながらいつものルートを通ってしまう。
屋敷を回り込んで裏手から戻り、庭の端を通る。いつもならそこに人がいたとしても使用人だけだ。それがこの時はモイラが庭にいたのだ。
使用人が落ち葉を焼いている焚火があり、その前にじっと立っていて動かない。その背中がエイリッドは妙に気になった。
どこか寂しそうに見えたのは、木々が色を失っていく秋という季節のせいだろうか。
ゆらり、とモイラが動いた。
モイラは手に何かを持っている。両手で焚火の上に掲げ、そして――。
「駄目――っ!」
エイリッドはとっさに叫んでいた。くすんだ色合いの表紙。とても見慣れたあの色は、エイリッドが探している書物だ。
エイリッドの声に驚いたモイラは手を放してしまった。
それをエイリッドは燃え盛る炎に怯みもせず受け止めた。袖口のレースと手袋が焦げる匂いがして手の甲にジリジリとした痛みが襲ってくる。
「危ないっ!」
前のめりになったエイリッドの腰をモイラが抱き締め、反動で二人とも後ろに転がった。
モイラの寿命を縮めてしまったかもしれない。ハアハアと荒い息遣いが聞こえる。
「火に向かって急に飛び出すなんて……っ」
信じられないといった調子で言われた。先ほどまでの出来事も相まって、エイリッドの危機感は麻痺していたのかもしれない。
それでもエイリッドが雪月の書を胸にギュッと抱き締めて体を固くしているせいか、モイラの表情が徐々に困惑していく。
「そんなに大事なの?」
「そうよ! これはわたしのものなのに、どうして焼こうとしたのっ?」
エイリッドの部屋から雪月の書を持ち出したのはモイラだったのだ。モイラは虎のことを知らないから、そこにどんな意図があったのかは知らない。
「近頃のあなた、様子がおかしかったわ。貪るように本を読んで、何かに憑りつかれたみたいに見えて」
何も知らないモイラには、この書物が不吉なものに思えたのかもしれない。
「それは……」
心配をかけたのはわかった。
この書が見つかったのならもういい。無事に焼けず、エイリッドの手元にある。
「心配をおかけしてごめんなさい、叔母様。でもこれは特別なものなの。お願いだから、二度とこんなことはしないで」
それだけは約束してほしい。
そうしたら、モイラはエイリッドの手にそっと手を重ねた。
「私が勝手に余計なことをしたせいで、あなたに怪我をさせてしまったわ。ごめんなさい、エイリッド」
モイラの目からハラハラと涙が零れる。まるで火傷が痛むのが自分のように。
その心配がどういう感情に起因しているのかはともかく、モイラはエイリッドを大切な存在だと思っている。それだけは本当だった。
焦げた手袋をはぎ取り、口の広い水差しに片手を突っ込みながらエイリッドは部屋に籠った。
ちゃんと手当をしないといけないと言うモイラに、まずはしっかり冷やすからと納得させた。エイリッドは何より、この書の続きを読まなくてはならない。
片手が使えなくてもどかしい思いをしながら、やっと再び書を開くことができた。
この時、エイリッドは言葉では言い表せないほどの高揚感を味わっていた。




