⑫Eilidh ―エイリッド― ⑶
ランドルがいたのは、緑の木々が植えられたところだった。枝葉は定期的に整えられ、人工的な自然という矛盾の中にある。
石畳の上に立ったランドルと距離を置いて睨み合っているのは、黒いドレスを着た女性だった。
黒髪に真珠の首飾り――それは、彼ら兄弟の母、マリアだった。
「憎い、血……。お前、も」
薄暗い声は確かにマリアのものでありつつも、別人のようだ。虎が言わせているのならそれも不思議ではない。
マリアに虎が憑いていたのなら、レノックス夫人もジェマも警戒はしなかっただろう。
「母さんから出ていけ」
ランドルの押し殺した声を風が運んでくる。匂いで察知されないようになのか、マルヴィナは風下から近づいていく。エイリッドには木の陰から出ないようにと目で合図している。
「ならばお前に憑りついてやろう。その手で母を殺すがいい」
「そんなことはさせない!」
虎は残虐だ。
雪月が苦しんだように、人間を嬲って喜んでいる。今もまた――。
「あの娘ならどうだ。吾が操れば、お前はあの娘に殺されるか? それとも、あの娘を殺すか?」
「……っ」
「もう一人、無駄に死したあの小僧も我が手で引き裂くことができなかった。あの娘のせいで」
エイリッドのことだ。
マリアに憑いた虎がエイリッドを恨んでいると言った。あれは、マリアの心情を真似て言ったわけではないのだ。
サイラスを殺せなかったのはエイリッドのせいだから恨んでいたと。
「亡霊。お前は何故俺たちをつけ狙う?」
ランドルの問いかけは、エイリッドも知りたいことだった。憎い血だと。
マリア、サイラス、ランドル、この親子を虎は狙っていた。
虎はマリアの体で牙を剥くように吠えた。そこには淑女であったはずの面影がない。
「お前たちが宗家の血を引き継ぐからだ。あの憎い簒奪者の末め……!」
宋家といえば、虎帝である宋琳紹も宋家だ。
マリアは大東国をルーツに持つというから、長い歳月でどこかにその血が混ざっていても不思議ではない。だとしても、ほんの僅かであるはずだ。それすら許せなかったというのか。
それほどの執念でこの世に存在する。
もうとっくの昔に狂っている相手に理屈など通じない。
「ミセス・レノックスも、ジェマも、それで?」
「宗家の血が混ざった者共だ。匂いでわかる」
この時、マルヴィナが動いた。毛皮を手に、人の姿でマリアの前に姿を晒す。
「あなたが復讐したかった者たちはもうとうに生きていないの。もういい加減に諦めて眠りなさい」
「黙れ!」
「海まで渡ってきて、あと何百年そうしているつもり?」
「凋白瑚、貴様が奴らを逃がしたせいだ!」
「勘違いしないで。私はあなたの仲間ではないのよ」
――凋白瑚。凋康妃。
まさかとは思うけれど、人と同じ常識が当てはまる存在ではないのかもしれない。
「マルヴィナ! エイリッドはっ?」
ランドルが虎を気にしながらも問いかける。その声の響きには本気でエイリッドを心配してくれている気持ちが感じ取れた。
サイラスの死すら知らなかったエイリッドに、感謝とはなんだろう。すべてが片づいたら尋ねなくてはならない。
「彼女なら大丈夫よ」
それを聞き、ランドルは深くため息をついた。
――本当はここにいるけれど。
虎はマリアの顔で鼻筋に皺を寄せて威嚇する。しかし、マルヴィナにはまだ余裕があるように見えた。
「あなたはあの時、死ぬ機会が与えられたの。それに逆らって逃れたのは幸運ではないわ。更なる苦しみよ。そうでしょう?」
「あの下賤の、愚かな閹人と共に葬られてなるものか! 吾は、世が世なれば天子であったのだ!」
宦官の万の策に嵌り、彼に憑りつくしかなかったのは虎にとって屈辱であったらしい。しかし、虎がこうして消えずに残ってしまったということは、あの部屋に虎が消える前に誰かが乗り込んできてしまったのかもしれない。
虎はその誰かに乗り移り、逃げた。万信志の命を賭した策で虎帝は助かったが、虎を始末することはできなかった。それを雪月も知らないままだったのだろうか。
「天子様ね。でも、そうはならなかった。それが現実よ。諦めなさい」
マルヴィナは手厳しく言い放つ。
彼女は、人の世に紛れて生きてきた虎だ。誇り高い、美しい獣。
「それでどうすると? この体ごと吾を葬り去るか?」
亡霊はマリアの体を盾に強気でいる。事実、二人も手が出せないのではないだろうか。
マルヴィナがゆらり、と体を揺らした。豊かな黒髪が生き物のように動く。
「マリアもランドルも、私の大事な友人の子孫なのよ。あなたの馬鹿げた復讐につき合わせないで」
驚くほど機敏にマルヴィナは手にしていた虎の毛皮をマリアに向けて被せるように投げつけた。
その途端に、目を疑うようなことが起こった。
虎皮は膨らみ、一匹の虎になったのだ。
四つん這いに、太い四肢を地に着け――。
そして、その傍らには青ざめたマリアが倒れている。
「ランドル、撃ちなさい!」
呆然としていたランドルに、マルヴィナが叫んだ。ランドルは忍ばせていたホルスターから拳銃を抜き、立て続けに虎を撃った。
目を撃ち抜き、苦痛に吠えた虎の大きく開いた口にまた一撃を見舞い、さらに耳から頭蓋を砕き、脳天へと突き抜ける銃弾が虎をこの世から消し去った。
巨体が埃を立てて横たわったけれど、血は流れていなかった。これはすでに生き物ではないのだから、血など通っていないのか。
冷静に虎を撃ち殺したランドルだが、ことが終わってみれば遠目にもわかるほど激しく手を震わせている。
「……よかったのか? あんたの大事なもの、だったのに」
ランドルのかすれた声が問いかける。マルヴィナの虎皮は、虎の姿のままで戻らない。こうなると、マルヴィナはもう虎にはなれないのかもしれない。
それでもマルヴィナはうなずいた。
「仕方がないでしょう? これで私もただの人だけど、十分長く生きたから」
もういいだろう、とエイリッドは転がるように二人のところへ出ていった。脚がガクガクと震えていてまるで老人のような足取りだ。
「エイリッド!」
ここにいる予定ではないエイリッドが現れたことでランドルが顔をしかめた。それでも、エイリッドはランドルよりもマルヴィナに尋ねたいことでいっぱいだった。
「あなたは虎帝、宋琳紹の後宮にいた凋康妃なのですか?」
すると、マルヴィナは意外そうに目を瞬いた。
「そうよ。よく知っているわね」
「雪月の書に書いてありました。後宮を脱出する時に遭遇した凋康妃は虎の怪異だったって」
「嫌だ、雪月ったら、そんなことまで書いて残したの?」
嫌だと言いつつも、マルヴィナの口ぶりは懐かしそうに綻んでいた。
あの書の続きをエイリッドはまだ読んでいないのだ。そこでハッと思い出す。
「あっ! そうだ、書を探さないと!」
「探すって、失くしたの?」
「ちょっと見当たらなくて。慌てて外へ出たのでちゃんと探していないんですけど、すぐに帰って探してきます!」
あの書は、絶対に紛失してはならない大事なものだ。
虎との決着が着いた今となってもそれは変わらない。
雪月がその後どうなったのか、彼女の言葉で知りたい。
自転車を今は探していられない。どうやって帰ろうか。
一歩踏み出すと、足首を捻りそうになった。それをランドルがとっさに支えてくれた。ふわりと硝煙の匂いがする。
「もうあなたをサイラスとは呼ばないから安心して」
これを言ったら、ランドルは傷ついたように見えた。
「……ごめん」
消え入りそうな声で謝る。
勝手に勘違いしたのはエイリッドの方だ。そんな顔はしなくていい。
「悪いのはわたし。何も知らなくてごめんなさい」
サイラスに会いたい。
けれど、サイラスはもうどこにもいないのだ。それを認めるしかない。
悲しくて胸の奥が痛いとしても、それはエイリッドが生きているのだから仕方がない。目を擦り、ランドルの手を借りずに立つ。
「とにかく、雪月の書を探しに帰るわ」
これを言ったら、ランドルは小さくうなずいた。
「通りで馬車を拾おう」
「マリアのことは私が見ているから、行ってきて」
マルヴィナは妙に穏やかな目をして二人を見送った。フォレット横丁の店に行けば彼女には会えるはずだ。本を持って再び訪れよう。
サイラスは通りで二輪馬車を拾い、御者に賃金を握らせてからエイリッドを乗せてくれた。その馬車がエイリッドを送り届けるために出発する直前、サイラスは馬車の上のエイリッドを見上げて言った。
サイラスにそっくりなその顔で――。
「もう一度会ってくれないか? 話さなくちゃいけないことがあるんだ」
二人を結ぶ共通点はサイラスだ。だから、ランドルの話はサイラスに関することでしかない。
「ええ、またフォレット横丁の店に行くわ」
「わかった。待ってる」
今度はランドルがエイリッドを待つという。
虎を仕留めても、それでもランドルの表情は未だに晴れない。彼の心に巣食う心配事はなんだろうかと考えた。
けれど、わかるはずもない。




