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虎帝妃の書  作者: 五十鈴 りく
⓫雪月 834年?月?日~

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44/53

⓫雪月 ―セツゲツ― ⑶

 (ばん)は信の置ける宦官に話をつけてあったようで、その若い宦官に私のことを託しました。


「淑妃様を外へ。あとは手筈通りに」

「は、はい」


 その若い宦官は震えておりました。こんな状況では無理もないことでしょう。


「陛下のことは必ずお守りいたしますので、しばらくは身を潜めておいでくだりませ。では、どうぞご安全に」


 万はそう言って微笑みました。優しい、悲しい笑顔でした。

 これが万との今生の別れになるように思えてなりません。


「でも、私は――」

「時がありまぬ。お急ぎくださりませ」


 それだけ言い遺し、万は身を翻して足早に自分の(へや)へと向かったのです。

 若い宦官は一度唇を噛み締め、それから私に告げました。


「いつ兵が襲ってくるやもしれません。参りましょう。抜け道は我々宦官が秘密裏に使うものなのですが」


 私が勝手に動いては、万も困るでしょう。ここは言われた通りに身を潜めるしかないのです。


「わかりました」


 私は身を引き裂かれるような思いで答えました。若い宦官はほっとしたようにうなずき、宦官の後に続きました。


 けれど、戦いの声が後宮に響き渡ると、私は去りがたい気持ちを拭い去れませんでした。この宦官が困るのがわかっていながらも頼むしかありません。


「やはり、私を万の(へや)まで連れていってください」

「い、いえ、そのようなわけには――」

「お願いします。陛下や万を残していくなど、到底耐えられません」


 私が宦官の衣に縋りつくと、宦官は目に涙を溜めて言いました。


「あなた様がそういうお方だから、お守するとお決めになったのですよ。どうか、お聞き分けください」


 この宦官には申し訳なく思いましたが、私も決意しました。

 宦官が使う抜け道があるとするのなら、それは宦官たちの住まいのそばであるように思いました。


 私は黙ってこの宦官に従って進みましたが、途中で彼の背中から離れました。万は個房をもらっているはずなのです。それならば、とあたりをつけて向かいました。


 その時、建物から火の手が上がっていたのです。誰が放った火なのでしょうか。戦いの最中、燭台が倒れたのかもしれません。


 けれど私はその辺りに陛下と万がいるような気がしてならなかったのです。火に向かっていくなど愚かなことだったでしょう。


 それでも私は向かいました。

 そして、そこには確かに陛下と万の声が聞こえたのです。


「おのれ――」


 その声はとても苦しげでした。息が荒く、恨みを込めた低音は陛下のお声です。


「そのお体では苦しいでしょう?」

閹人(えんじん)(宦官のこと)、貴様の、仕業か」

「ええ。あなたを滅ぼすにはこれしか策がござりませぬ」

「主君殺しが、まかり通ると――」

「あなたはどのみち狩られるのです。大体、あなたは奴才(わたくし)の主君ではなく、粗暴な虎です」


 堂々としているようでいて、万も緊張からか声が硬く、浅い呼吸を繰り返していました。一人で虎を暴くなど、正気とは思えませんが、万には何か策があるのでしょうか。


「違う。(われ)は、虎ではない。人だ。人であるはずが、虎になった。元に、戻ったのだ」

「虎になった者は人には戻れませぬ。陛下に憑りついたが最後、もう打つ手はないでしょう? さて、毒が回ってきたようです」


 毒、と。

 万が陛下に毒を盛ったと言うのです。助けると言ってくれた言葉は嘘だったのでしょうか。


「仕方が、ない――」


 本当に呂律が回らなくなっていて、陛下はそれを最後に何も口を利かれなくなりました。

 まさか本当にお亡くなりになってしまったのでしょうか。私は恐ろしくて房の戸を開くことができませんでした。


 けれどその時、急に万が呻き始めたのです。


「ぐっ、貴様――」


 万には似合わない乱暴な言葉を吐きました。その直後に、人が倒れた音がしました。

 私は中で何が起こっているのかを確かめるしかなく、やっとの思いで戸を開けました。


 すると、中で二人が倒れていたのです。陛下は毒を盛られたと言いますが、むしろ毒の症状が出ているのは万の方でした。泡を吹き、白目を剥いて倒れています。

 陛下の方が血色も良く、今にも目を覚ましそうでした。本当に、目を覚まされたのです。


「へ、陛下」


 私が驚いてへたり込むと、陛下は目を瞬かせ、それから顔をしかめて首を振られました。


「一体、これはどうしたことだ。何故に奴がいなくなった?」


 そこでこの(へや)を見回され、陛下は倒れている万を見つけられました。


「まさか、そちらに移ったのか?」


 陛下は、ゆっくりと体を起こされました。そうして、やっと私に気がつかれたのです。


「雪月か?」

「あ、あの、毒を盛られたというのは本当ですか?」

「大したものではない。しばらく痺れが出る程度のものだろう。その宦官は息をしているか?」


 万は、生きているようには見えませんでした。

 私は直視することができず、涙が頬を伝うばかりです。

 万が陛下をお助けすると言った意味がようやくわかりました。万は自分の身に虎を憑かせて陛下をお助けするつもりだったのです。


 きっとこの(へや)に戻る前に自ら毒を飲み、それを隠して虎と対峙したのです。陛下の御体が毒によって蝕まれ、そのままでは一緒に死んでしまうと虎に思い込ませ、自分に憑くように仕向けたのです。


 万は、陛下を返してくれました。

 けれどそれは、手放しで喜べる方法ではありません。

 私は、愛する人と引き換えに友を失ってしまったのですから。


「雪月、こんな時だが今は動かなくてはならない。この勇士のためにもな」


 今の陛下は万の死に心を痛めておいでのようでした。

 私にもそれがほんの少しの慰めとなります。


「虎は、もういないのですね」

「あの虎に体を操られながらも、中ですべて見ていた。お前たちにはつらい思いをさせた」


 陛下はご自分の中で表には出られずとも何もかもを見聞きしておいでだったようです。


「あの虎は――いや、虎と呼ぶのもおかしいのかもしれない。元は人であったのだ。強い憎しみから獣になり、怪異となって人に憑りついた」


 虎ではなく、元は人であったというのです。

 けれど、今、この話をするには時が足りません。


「陛下、今はここを抜け出しましょう。どうか私と共に生き延びてください」

「何故このようなことに――いや、今はそれを言うべき時ではないな」


 火の手が勢いを増して来ました。

 私は涙で曇る目を擦りながら、まだ痺れの残る陛下と共に外へ出ました。


 煙から逃れるように急ぎましたが、私には大柄な陛下を支えるほどの力がありません。それはもう、必死でございました。


 そんな時、建物の陰から現れたのは(ちょう)康妃でした。纏足をしている凋康妃は他の者たちと同じようには逃げられなかったのかもしれません。

 こんなところに潜んでいたのです。


「ああ、陛下。よくぞご無事で」


 ほっとしたように凋康妃は言いましたが、私は何かが引っかかっていました。

 陛下も険しい顔をされ、凋康妃を睨んでおられました。


 まさか、凋康妃が間者で、私たちの居場所を探していたとお疑いなのでしょうか。陛下は急に私の髪から(かんざし)を抜き取られ、それを凋康妃に向かって投げつけられたのです。


 声を上げる隙さえありませんでした。

 纏足のせいで素早く動けないはずの凋康妃は、飛びずさり、それを容易く躱したのです。その動きは人間離れしていて猫のようですらありました。


「なんてことをされるのですかっ」


 再び建物の陰に押し戻された凋康妃の目は、金色に輝いておりました。猫目石を嵌め込んだように。


 この時になって、万と調べたことを思い出しました。人虎には踵がない、と。踵がなければ小さな纏足も履けてしまうのでしょう。


 あの纏足は、踵がないことを隠すためだったのかもしれません。

 凋康妃は、怪異であったのです。

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― 新着の感想 ―
王朝、怪異多過ぎ事件。 人の心の闇が濃くなる時代の変わり目には、怪異が増えるのかもしれませんね。
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