⓫雪月 ―セツゲツ― ⑵
「淑妃様、ご無事ですか?」
「あなたは、万――ですか?」
施錠されているのか、戸は音を立てているばかりで一向に開きません。
「はい。淑妃様、戸を壊します。離れてくださりませ」
「え、ええ」
私は言われた通りに、狭い房の中で下がれるところまで下がりました。すると、戸の方から妙な破裂音と焦げ臭さがするのです。
その後で戸には穴が開いていました。煙が立ち上る扉を万が開きます。
「何をしたのですか?」
「火薬にございます。少し拝借して参りました」
周りがあまりにも騒がしいので、こんな音を立てても誰も気づかないのでしょうか。
「陛下はどちらにおられるのですか?」
「私の房です」
「えっ?」
「とにかく、淑妃様は先にお逃げ頂きます。陛下は私がお護り致しますので」
「今の虎憑きの陛下にお話が通じるとは思えません。あなたの方が殺されてしまいます」
「岱王様は淑妃様にご執心のご様子。この混乱に乗じてお逃げにならなければ、一生不本意な囚われの身となりましょう」
「それでも陛下をお助けできなければ、逃げても意味などありません」
私だけ逃げて、それで陛下がお討たれになったと噂に聞く。そんな絶望を味わいたくはございません。
この謀反を抑える手立てがあるとするのならば、それは陛下が正気にお戻り頂くよりないでしょう。それですらもう、覆った盆の水はもとには戻らぬのかもしれませんが。
万は悲しそうに私を見ておりました。これが今生の別れとなるかのように。
「こんな時にする話ではござりませぬが、奴才はどうしてもあなた様には生き延びて頂きたいのです」
「ありがとう。でも――」
私の言葉を遮るように、万は袖を振り、密やかな声で囁きました。
「奴才は幼くして宦官となりました。女など知らぬままですが、それでよいとも思っておりました」
万が子才と同じような境遇であったことは知っているつもりでした。それを当人が語りたがらないことにも気がついていて、万の過去に水を向けないよう避けていたのです。それをこの時に、当人が語り始めたのでした。
「奴才を宦官にしたのは継母でした。初めは、血の繋がらぬ子は疎まれるものだとばかり思っていた奴才に、継母はとても優しく世話を焼いてくれました。ですから、継子さえも可愛がってくれている心の清らかな女人だと信じていたのです」
この話を、万がしたいようには見えませんでした。傷口から血を流しているように苦し気に見えたのです。それでも、膿を出しきるつもりなのか、続けました。
「日に日に、彼女の手が執拗なまでに、衣の下の肌に触れてくるようになりました。撫で回されるのが嫌で、奴才が拒絶を示した途端に態度が豹変し、憎悪に近いものを向けられるようになりました。恥をかかされたとでも思ったのでしょうか。優しいと信じた継母は、幼子相手に欲情するほど見境のない女でしかなかったのです。奴才の意志に反し、施術を行ったのは拒絶の腹いせでしょう。女を見ると色に狂った継母を思い出して不快でしかないのに、そんな奴才が後宮勤めとは、どこまでも残酷なさだめにございました」
万があまり感情を見せず、心を殺しているように見えたのは、本当にそうしなければ生きられなかったということです。
この白粉が香る後宮において、万は息をするのも苦しかったことでしょう。
傷ついた幼い心は癒えないまま大人になったようです。万を癒したのは人ではなく、多くの書物だったのかもしれません。
そう考えたのですが、万の口から想いが告げられました。
「あなた様は後宮へ来た時、まだ幼い少女でした。女と呼ぶには幼くて、ただ怯えている無垢な子供にしか見えなかったのです。あなた様は奴才の勝手な嫌悪感の外におられました。どうかこのまま、傷つかれることがありませんようにと願っておりましたが、現世はどこまでも惨たらしいものです」
傷だらけであったはずの万が、密かに私のことを気にかけてくれていたとは。
それを知り、なんとも言えず切なさが込み上げて参りました。思わず落涙すると、万はそっと小さく私に告げました。
「陛下から虎を追い出す策がござります。それを今、行うのです」
万はついに虎を追い出す方法を探り当てたようでした。




