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虎帝妃の書  作者: 五十鈴 りく
⑪Eilidh 1132年10月10日

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⑪Eilidh ―エイリッド― ⑵

 ココアしか飲んでいないエイリッドは明らかに燃料不足だった。

 息を切らしながらマルヴィナの店のあるフォレット横丁まで必死で漕いだ。最初にここへ来た時には少しも美味しそうだと思えなかった、辺りに漂うスパイシーな匂いでさえ食欲を刺激する。


 打ちひしがれて寝込むのは無理な体質らしい。こういう時ですら空腹感はあるのだから。


 まだ夕方だ。店を閉めてはいない。

 大事なはずの自転車を乱暴に立てかけて、エイリッドは入り口からマルヴィナに呼びかける。


「マルヴィナさん! お話があります!」


 大声で叫んだせいか、マルヴィナはびっくりして奥から飛び出してきた。


「まあ! あなた、危ないからうろうろするのはおよしなさいって言ったばかりでしょう?」

「わたしは大丈夫です。あの二人と違ってオーダムセット州なんて行ったこともありませんから」


 それを言うと、マルヴィナの表情が変わった。


「どういうこと?」

「ええと、被害者の二人はどちらもオーダムセット州の生まれなんです」

「……そうかもしれないけれど、それだけが被害に遭った理由だと決めるのはどうかしら?」


 マルヴィナは雪月の書のことを知らない。だからエイリッドがこんなことを言い出せば浅はかだとしか思わないのだ。

 何から説明しようかとエイリッドは困ったけれど、まず核心から始めることにした。


「サイラスが八年前に亡くなったと聞きましたが、どういうことでしょう?」


 それを言うと、エイリッドの緊張とは裏腹にマルヴィナは力を抜いた。


「ああ、誰かから聞いたのね。そうよ、可哀想にね……」

「じゃあ、わたしが会っていたのは誰なのですか?」

「そうなるわよね」


 マルヴィナは苦笑し、下ろしていた艶やかな髪をかき上げた。


「彼はあなたに〈サイラス〉と名乗ったの?」


 あの時、最初にサイラスと呼びかけたのはエイリッドの方だ。

 けれど、彼はそれを否定しなかった。エイリッドは変わっていないとまで言われた。明らかにサイラスのふりをしていたと言える。


「わたしが先にそう呼んだのかもしれません。でも、違うとは言いませんでした」

()は、あなたがサイラスの死を知らなかったことに驚いたのだと思うわ」


 エイリッドは、何も言えなくなってしまった。

 本当に知らなくて、サイラスのために冥福を祈ることすらなかったのだ。ただ、いつか会いに来てくれると無邪気に信じていた。


 自分の愚かしさが情けなくなってうつむいてしまうと、マルヴィナは小さくため息をついた。


「本当は()もあなたのことを恨んでいたの。サイラスが死んだのは、あなたが手紙の返事ひとつ寄越さなかったから、それで会いに行こうとしたせいだって」

「わたしのところにその手紙は一通も届いていなくて……。わたしからもサイラスに手紙を書いたのに、行き先を知らなくて手紙を送れなかったんです」

「ええ。今となっては彼もわかっているわ。彼はランドルといって、サイラスの兄弟なのよ」

「サイラスに兄弟なんていなかったわ!」


 思わず言ってしまった。フルフォード家は招待を受ける時は必ず両親とサイラスの三人だった。サイラスから兄弟の話など聞いたこともない。


「ランドルは体が弱くて、家族と離れてオーダムセット州の療養所にいたそうよ」


 家族とは暮らしていなかった。だから存在を知らなかったのか。

 それにしても、話くらいは聞いてもよかったはずなのに、その話題には触れられなかった。


「サイラスは学校が休暇に入ると真っ先に会いにランドルに来てくれていたって。ランドルにとってもサイラスは大事な存在だったのでしょう」


 だから、彼はエイリッドを嫌い、恨んだのだ。

 最初に会った時の、笑顔なのにどこか突き放すような違和感はそれだったのかもしれない。


 エイリッドとサイラスの婚約の話をした時、ランドルはどんな気分だっただろう。エイリッドはずっと、サイラスと勘違いしたままランドルと接していた。

 大事な友人だというわりに兄弟との区別もついていないのだ。さぞ腹が立ったことだろう。


 サイラスと再会できたと思って浮かれていた自分が恨めしくなる。

 ここへ来て、サイラスが本当にもういないのだという事実を突きつけられ、エイリッドは抑えようがないほど悲しくなってボロボロと大粒の涙を零すしかなかった。


 二人で旅をしたかった。もっと一緒にいたかった。

 それはもう二度と敵わない夢のままだ。


 泣き崩れたエイリッドの肩をマルヴィナがそっと抱いてくれた。


「ランドルがサイラスのふりをしたことを許してあげて。あの子も苦しんでいるから」


 ランドルを恨む気持ちはない。エイリッドはうなずいた。

 少なくとも、ランドルもサイラスが好きだった。エイリッドと同じか、それ以上に。


 彼は虎が化けたサイラスではなかった。かといって、ランドルに虎が憑いていないとは言えないのかもしれない。

 それだけはあってくれるなとエイリッドは願わずにはいられない。


 ひと通り泣いて、落ち着いたらエイリッドの前に丸い物体が差し出された。


「お嬢様のお口には合わないかもしれないけれど、どうぞ」


 マルヴィナがにっこりと微笑んで差ししてくれたのは、肉饅頭だった。

 受け取るとほんのりとあたたかい。大東国の食べ物だ。


「嬉しい。わたし、大東国の文化が大好きなんです」


 話に聞くだけで食べたことはない。こんな時だけれど本当に嬉しかった。


「あら、若い子にしては珍しいわね」


 なんてことを言われた。エイリッドは大東国に寄せる想いを熱弁したくなった。


「いつか大東国に行きたくて、大東語も勉強しました。大東語の書物だって読めます。今も丁度読んでいるところなんです」

「そうなの? すごいわねぇ」


 マルヴィナは肉饅頭を食みながら感心してくれたが、思えばマルヴィナは大東国の品を扱う骨董屋だ。エイリッドよりも余程大東国のことには詳しいはずだ。

 そう考えてふと訊ねてみたくなった。


「あの、大東国の景王朝についてどう思います?」

「いきなりね」

「すみません」


 笑われてしまった。突飛なのは仕方がない。

 マルヴィナは首を傾げた。


「どうして急に景王朝なの? もしかして、今読んでいる本がその辺りなのかしら?」

「そうです。景王朝の第三代皇帝が出てきます」

「へぇ。面白そうね」


 ただの小説か歴史書だとしか思われていない軽さで返された。当然のことではあるが。


「景王朝の第三代皇帝が虎に憑りつかれていて、それに雪月という妃が気づいていて異変を書き記したんです」


 それを言うと、マルヴィナの顔から表情が消えた。


「――それ、どこで手に入れたの?」

「父が大東国から持ち帰った机の中にありました。もしかして、値打ちがありますか?」

「ええ、あると思うわ。一度見せてもらえるかしら?」

「今度持ってきます」

「なるべく早めにお願いね」


 その書の中に虎に襲われた被害者の共通点が書かれている。マルヴィナに見せたら信じてくれるだろうか。


 これ以上サイラス――ランドルには頼れない。マルヴィナに見せるのもいいかもしれない。

 エイリッドは肉饅頭を味わって食べてから、マルヴィナに深々と頭を下げた。


「今日は本当にありがとうございました」

「いいのよ。気をつけて帰ってね」

「はい」


 あとどれくらいで読みきれるだろうか。今晩中には無理かもしれないが、半分以上は過ぎている。




 こっそりと屋敷に戻った後、なんとか部屋まで行ってシーツの下の雪月の書を探る。


 食事は部屋に運んでもらって食べたが、家族には会わなかった。モイラだけは気を遣ってこないでいてくれるのだと思ったが、他は知らない。


 邪魔が入らなくて助かるとしか思わなかった。

 

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