①Eilidh ―エイリッド― ⑶
嫌だと断れるはずもなく、エイリッドの家族は帰国した。
叔母のモイラはエイリッドが髪を短くしたことを隠したいようで、メイドに言いつけてそれはきつく結い上げられた。大きなコサージュでこれでもかというほど飾り立ててごまかす。
まあいい。しばらくの辛抱だ。
エイリッドはモイラと一緒に家族を迎え入れた。使用人たちは一斉に頭を下げ、本来の主を迎え入れる。エイリッドが若輩だということでモイラは監督者としてこの屋敷に住むように頼まれた。
それがなくては、モイラは一人寂しく小さな借家にいるしかない。だから兄である父の機嫌を損ねて追い出されたくはないのだ。
「おかえりなさいませ、お父様、お母様、お兄様」
エイリッドはにっこりと微笑んで優雅に一礼して見せる。美人である母親似のエイリッドは少なくとも不美人ではない。めかし込んで笑っていればそれなりには見えるはずだ。
「エイリッド、すっかり娘らしくなったな」
父のカドフリーは娘と形ばかりの抱擁を交わしながら言った。前に会ったのは半年前なので、そこまで変化もないはずだから、そう思いたいだけだろう。
母のケイトはモイラと抱き合い、互いを労っている。ただしこの二人は互いのことが嫌いだ。それを隠し通せているつもりでいる。
美人で、何せ持参金の多かった母だ。その上、しっかりと跡取りの嫡男を産んだ。モイラが持っていないものを母はすべて持ち合わせていて、モイラを馬鹿にしている。態度に出していないつもりかもしれないが、そんなことは相手に筒抜けだった。
つまり、美人で持参金が多くて嫡男を産んだ母だが、ほんの少しばかり賢いとは言い難い。
そして、兄のイーデンも父の次にエイリッドを抱き締めた。
「ただいま、エイリッド」
「おかえりなさいませ、お兄様」
母親譲りの金髪だが、顔立ちは父に似ている。角ばった印象で特別美形だとは思わないが、平均よりは僅かに上回っているだろうか。
会話がまったく弾まない兄妹だった。何せ十歳差と、年が離れすぎている。いつも何を話せばいいのかわからない。一緒に遊んでもらった記憶もなかった。いつも馬鹿にした見下したような目をする兄のことがエイリッドも好きになれない。血が繋がっていることを会うたびに残念に思う。
――と、そういうわけでエイリッドにとって家族の帰還は喜ばしいことではなく、むしろ波風を立てて去っていく台風のようなものだった。ただ、ひとつだけ嬉しいと言えるのは、土産の品を受け取れることだろうか。
エイリッドが憧れてやまない大東国からの土産だ。東海を越えてきた品はどんなものでも嬉しい。
前回の土産は硯と筆、その前は扇、そのまた前は陶器でできた香炉だった。
書物が一番嬉しいけれど、エイリッドがここまで大東語を解読できるようになっていることなど知らない父だから、そんなものは買ってこない。ねだったとしても失笑されて終わるだろう。
土産はいつも、家族よりも数日遅れて届く。今回は何かな、とそれを楽しみに退屈を通り越えて苦痛な時間に耐えよう。
しかし、晩餐の席で父から告げられたのは絶望的な言葉だった。
「これからお前は社交界に出て大人の仲間入りをするのだから、当分の間は忙しくなる。私たちもこちらでの滞在を伸ばすよう予定を組んできた」
これには思わず、えっ、と声を漏らしてしまった。
「ドレスや装飾品を誂えるのはもちろんのこと、作法のおさらいも必要だ。本来ならばもっと早くに始めなくてはならなかったのだが、私たちは多忙を極めていて、なかなか帰国が叶わなかった。まあ、それを今更言っても仕方ない。それから、お前にはエスコートしてもらうような相手がいるわけでもなし、当日はイーデンにエスコートしてもらうがいい」
考えただけでゾッとする。エイリッドは動揺しすぎて立ち上がりそうになるのを必死で堪えた。
「お兄様は婚約者のセアラ様をエスコートされるのでは……っ」
すると、その場の空気が凍てついた。料理を運ぶ給仕の手すら震えているように見える。
「セアラは体調が悪い。静養していてこちらにはいない」
兄が吐き捨てるように言った。病身の婚約者になんて態度だろう。
――いや、これにはきっと何かあると考えるべきだ。けれど、エイリッドが口を挟んでもろくなことがない。それだけはわかる。
セアラのことは嫌いではなかったが、滅多に会わないので顔も忘れかけていた。
そこで母が小さく息をつき、それからエイリッドを品定めするような目を向けてきた。
「あなたはいずれ、縁続きとなっても我が家の品格を損なわないところに嫁ぐのです。品性を疑われるような物言いは控えなさい」
母は口を開けば〈品性〉だとか〈品格〉だとかいう言葉を口にする。それを口にすることが上品だと信じているからだ。
エイリッドが自転車にまたがっているところを見られた日には恐ろしいことが起こりそうだ。
「はい、お母様」
それ以外の返答は求めていないのはわかっているのでこう答えた。間違っても本心ではない。
裕福層ではあるが、我が家に爵位はない。父が外相にでもなればいずれは、と母が期待しているだけである。
サイラスのフルフォード家も貴族ではなかったが、貴族の親戚がいた。それをとても羨んでいたのを覚えている。
ちなみに、サイラスの母親のマリアも当時、エイリッドの目から見ても黒髪が印象的で相当な美人だった。それもまた、母には気に入らないところだったかもしれない。
こちらでも仲の良いふりをしていた。子供の頃はあれが〈ふり〉だとは知らず、仲がいいと信じていたけれど。
「エイリッド」
父が改まって声をかけてきた。
「はい」
何か、運命がエイリッドを絡めとるような、逃れられない蜘蛛の糸が張り巡らされているような気分になった。
いつか大東国へ羽ばたけるなんてことはない。本当は心のどこかではわかっていて、認めないでいるだけだ。
自分の体から血の気が失われていく。失われていくのは、生きる気力だろうか。それとも希望だろうか。
けれどこの時、父はふと柔らかく笑ってみせた。
「お前にも土産がある。そのうちに届くだろう」
土産を無邪気に喜べるほど子供でいられる時間は、そう多くないのかもしれない。
「ありがとうございます、お父様……」
こんな時こそ、思いきり自転車を飛ばしたいと思った。
それを口にはしないけれど。
この晩餐の間、モイラはいるのかいないのかわからないほど大人しく、ほとんど口を利けずに料理を食んでいた。
そんなところはどこか草食動物めいて見えた。