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虎帝妃の書  作者: 五十鈴 りく
➓雪月 834年?月?日~

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38/53

➓雪月 ―セツゲツ― ⑴

 亡くなった恵嬪は、名を(じょ)阿英(あえい)と言ったそうです。

 享年二十一歳、華やかな牡丹の花のような女人で、艶やかな舞を雅楽に乗せて披露したものでした。


 北寄りの(らい)州の(ゆう)の出とのことですが、私はあまり口を利く機会もございませんでした。


 それというのも、私が人見知りをしがちであったせいもありますし、そればかりでもありません。

 除恵嬪は、陛下の気を引くために色々な努力を重ねていて、そんな人からすると私は親の力だけで陛下に目をかけて頂いたようにしか見えないのでしょう。


 好かれてはいなかったという気がしています。もちろん、この後宮で周りは敵ばかりで味方と呼べる相手などはいなかったとは思われますが。

 けれど、除恵嬪は康妃である(ちょう)白瑚(はくこ)とは普通にお話していました。


 凋康妃は纏足を施されておりますが、陛下はそれをあまりよい風習だとお思いではなかったご様子です。

 あれは彼女が望んだことではなく、親がさせたことなので、陛下は彼女の足を歪められて憐れだと感じておられたようでした。お優しい気遣いを見せられてはおられましたが、寵愛とまでは行かなかったのでしょう。


 知性の感じられるお顔立ちで、妃嬪の中では一番年長なのではないでしょうか。陛下と同じくらいのお年頃かと。


 凋康妃はより高みを目指すのではなく、後宮で安らかに過ごせていられたならばそれでよかったのでしょう。積極的に寵を競い合うようなこともなく、常にゆったりと構えているふうでした。


 だからこそ、除恵嬪も凋康妃を相手に肩肘を張ることはなかったのではないかと感じます。

 凋康妃がお相手でしたら、私もきっと落ち着いて話せるという気がしました。

 

 私は早速、凋康妃とお茶を頂きながら語らいたいという旨を金児に伝えに行ってもらいました。急なことに思えるでしょうから、近頃の変事に私が心細く思っているようだと言い添えてもらいました。


 しばらくして戻った金児は満足そうに見え、その表情から良いお返事を頂いたのだとわかりました。


「康妃様は二つ返事でお受けくださりました。歩くのも難儀ですので、こちらにお越し頂けるのならいつでも構わないとのことでした」

「ありがとう、金児。では、支度をしてから参りましょう」


 年上の女人に会うのですから、あまり華やかな衣はかえって心証を損ねてしまうことでしょう。私は装飾を控えめに直してもらい、それから金児を連れて凋康妃の(へや)を訪いました。


「このたびは急な申し入れをお聞き入れ頂き、ありがとう存じ上げます」


 凋康妃は椅子の背もたれを支えに立ち、穏やかに微笑んでいます。


「いいえ。周淑妃様にお声がけ頂いて光栄にございます」


 品秩は私の方が上ではあっても、年が違います。当然のことながら礼儀は必要です。

 私は下手に出てお話ししようと決めておりました。

 椅子を勧められて正面に座ると、凋康妃は穏やかに微笑まれました。


「本当に淑妃様のお美しいこと。後宮にいても私はあまり出歩きませんから、お会いする機会も限られますけれど、お越し頂けて嬉しい限りです。近頃は嫌なことが続きましたから、淑妃様に心が慰められる思いでございます」

「いえ、そんな――」


 私はそんなにも大層な者ではありません。過分な評にすっかり恐縮してしまいました。

 けれど、凋康妃はそこから私をじっと見つめ、ほんのりと悲しそうにも感じられました。


「淑妃様もおつらいことがおありだったのでしょう。もちろん、それを口にできるものではございませんが――」


 私の顔にできた痣を言うのでしょう。私に乱暴を働くのは陛下なのですから、それを誰に訴えることもできないのだと心配してくれているようでした。お優しい方なのだと、私も安堵しました。


 凋康妃には不思議な包容力があるように思われました。それは年齢のためなのか、もともとの気質であるのか、そばにいて護られているような気すらするのでございます。


「あなたは除恵嬪と親しかったと伺いました。あなたこそ、さぞおつらいことでしょう」


 除恵嬪の話を持ち出すと、凋康妃は小さくうなずきました。


「ええ。阿英は小さい頃から苦労ばかりだったらしくて。後宮へ来てからいい暮らしができるようになって、来てよかったと申しておりました」


 名で呼ぶほどには親しかったようです。除恵嬪も凋康妃を姉のように慕ったのでしょう。


「お気の毒なことでございます。何故、そんな方が死ななくてはならなかったのかと思うと不憫です」

「母親が妓女で、その母親の死後、妓館で雑用をこなしながら踊りを覚えたそうです。その容姿と舞に目をつけた除家の旦那様が養女に迎え入れたのですが、正妻からは陰で苛められたとか」


 幾人もの妻を持つ主の家ではよくあることです。私自身も同じでした。

 とはいえ、私の場合は父のおかげで表立って苛められたというわけではございませんが。


「除家の大家(だんなさま)がお父上ですか?」

「違うそうです。除家の大家は別の妓女のご贔屓だったとか」

「本当のお父上はわからないのでしょうか?」


 妓女ならば、色々な男性のお相手をしたのですから、母親が語らなければ誰の子だかはわからないのかもしれません。

 すると、凋康妃はやや困惑して見えました。


「はっきりとは存ぜぬようでした。ただ、母親は高級妓館の看板と言えるような名妓だったそうなので、そんな相手を望めるのならば卑しい身分ではなかったのでしょう」


 除恵嬪が誰の子であったとしても、それは彼女の死とは関係のないことなのでしょう。

 そう思いつつも何かが気になったのでした。宦官の子才(しさい)の来歴も――いえ、子才も北の出身だったようですが、そんな者はいくらでもおります。


 私が考え込んでしまうと、凋康妃は私の様子を窺いながら囁かれました。


「このところ、陛下のご様子はいかがでしょうか?」

「えっ?」


 驚いてつい声を上げてしまいましたが、凋康妃は特におかしなことだとは思われなかったようです。


「戦よりお戻りになってから、以前とは変わられたように思われます。過酷な戦からお戻りになられたのですから、それも当然のことではございますが、少し気になったものですから」


 凋康妃は閨に指名されていなかったはずですが、どこかから陛下のお姿を垣間見たのでしょう。それで、付き合いの長い凋康妃は以前の陛下とは別人のようだと気づかれたようです。


 私はすべて話してしまいたい衝動に駆られましたが、(ばん)の意見を聞かずに動くのはよくないと思い留まりました。

 凋康妃は訳知り顔でため息を零し、それからすべてを見通すような目を私に向けていました。


「もう一人の亡くなった宦官はとても可愛らしい子でした。残念なことです。阿英も可愛がっていたのですよ」

「私は、どちらともあまり口を利いたことがなくて――」


 除恵嬪と子才はまったく面識がなかったわけではないようです。

 凋康妃は何を知っているのでしょうか。この時、私の緊張も伝わっていたのかもしれません。


「同じ州の生まれだそうです。とはいっても、あの宦官は後宮へ来るまでは小さな村から出たことがなかったというので、以前からの知り合いではないのでしょうけれど」


 同郷のよしみで除恵嬪は子才を可愛がっていたのかもしれません。その除恵嬪が殺されて、子才はさぞ悲しかったことでしょう。

 本当に気の毒なばかりです。


「この後宮で味方は貴重な存在ですから、同郷の者がいて除恵嬪の心も慰められたことでしょうね」


 足を引っ張り合い、騙し、陥れ、そんな関係ばかりの中で気を遣わずにいられる相手が互いにいたのならばそれは間違いなく救いでございます。

 凋康妃はにこりと笑いました。


「ええ。後宮は魔の棲み処ですから。けれど、私は陛下の寵を競い合うのには疲れてしまいました。淑妃様にとっての敵ではございませんと申し上げておきましょう」


 私が急に会いたがったものですから、様子を窺いにきたのだと思われたのでしょうか。恥ずかしくなって、私は身の置き場がない思いをしましたが、凋康妃は大人のゆとりを持って微笑んでおりました。


「あ、ありがとうございます」

「さあ、お茶を頂きましょう」

「は、はい」


 この時、私は気もそぞろで、口に含んだお茶の味がよくわかりませんでした。

 それというのも、凋康妃の(へや)の片隅に掛けられていた虎皮を見たせいです。衝立の裏側、目立たないところにひっそりとですが。


 虎というものに過敏になりすぎているのはわかっています。それでも、あの黄色と黒の縞を見ると、震えてしまうのでした。

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