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虎帝妃の書  作者: 五十鈴 りく
➒雪月 834年?月?日~

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36/53

➒雪月 ―セツゲツ― ⑵

「金児、宦官の(ばん)を呼んできてほしいの」


 心細くて、私は金児にそう頼みました。

 待つばかりではいつまで経っても万と話せそうにありません。


「え、ええ、承知致しました」


 私があまりにも怯えているので、金児は慌てて飛んでいってくれました。

 待っている間、私は不安でなりませんでした。今、この国はどのような流れの中に在るのかと。


 陛下の異変、殺人、内廷へ男性が入り込む珍事――。

 陛下が正常にお戻りになれば、何もかもが落ち着くのでしょうか。


 金児が出ていって、半時ばかりしてからようやく万が私の(へや)へ現れました。私がほっとしたのも束の間、万の顔にも殴られたような痣ができていました。

 私が目を見張ったせいか、万はゆるくかぶりを振りました。


「これは武官の方にお叱りを受けただけで、虎とは無縁のことにござります」

「何を叱られたというのですか?」

奴才(わたくし)共宦官は、後宮をお護りする立場にござります。ここは陛下以外の男性が入ってよい場所ではござりませぬので、あの方々をお諫め致しましたらこのようなことに」

岱王(せんおう)様は陛下のお許しを得ておられないのですね?」


 よくもそのようなことができたものだと思いましたが、万も困惑した様子でした。


「――昨日」

「えっ?」

「陛下は岱王様を廃太子にしろと乱暴なお言葉を吐かれたそうです」

「けれど、岱王様の他に立太子されるような方は――」

「ええ。ですが、子などそのうちにできると」


 誰の(はら)にかと思うと、私は吐き気を及ぼし身震いしてしまいました。

 陛下のそのお言葉が引き金になったのでしょうか。岱王様がなりふり構わず動き始めたのは、簒奪をお決めになったということかもしれません。

 万は思い詰めたような面持ちで言いました。


「虎は獣です。陛下の言動に粗暴さが現れ出したのはその獣性によるところだと初めは考えておりましたが、もしかするとそうではないのやもしれません」

「どういうことですか?」

「あの虎はわざと調和を乱し、この国を内側から滅ぼさんとしているのでしょうか?」


 まるで独り言のように万は言いました。私が答えを持つはずもございませんが、ただ聞いてほしかったのでしょう。


「獣がそのようなことを企てるものでしょうか?」

「ただの虎ならば違いましょう。けれど、あの虎妖は、恨みを持って人――いえ、国に仇なしているような気が致します」


 そこで私は、読みふけった書の中に気になるくだりがあったと思い当たりました。


「人が、虎になり、その虎が恨みを残していて陛下に憑りついたと?」


 私が読んだ程度の書ならば万もすでに読んでいると思われます。苦々しい面持ちでした。


「強い矜持を捨てられぬ人間が虎になったという伝承はござりまするが、あれは誇張された作り事で、実際に起こったことだという認識ではおりませんでした」


 それは私も同じでございます。人が虎になるなどと誰が思うでしょう。


「もしそうだとしても、それがどのような恨みであるのかを特定しても虎を止めることはできません。虎はこの国が滅べば満足なのでしょうか?」

「易姓革命の際に滅んだとされる王朝の末裔か、現王朝の際に登用されなかった者の恨みか、言い出してはきりがござりませぬ。そも、この考えが的外れでないとも申せまぬので」


 結局はそこなのです。私たちは何も確かめられてはおりません。

 陛下が煙を避けたというだけなのです。踵や虎皮といったわかりやすいものは見つけられず、ただ妖しく光る目を見たことだけは本当でございます。


(じょ)恵嬪と通貞(つうてい)、あの二人は何故死ぬことになったのでしょう? あの二人が何かを見たのか、知ったのではありませんか?」


 そこに手がかりがあるのでは、と考えてみます。それとも、無差別なのでしょうか。

 これを言った時、万はやはり悲しそうでした。


「あの子――子才(しさい)は北方の貧しい家に生まれ、それ故に親に売られるようにして宦官となりました。本人が望んだと申しておりましたが、親に頼まれて嫌だと断るには、子才は聡すぎたのです。子才ならば何かに気づいてしまったのだとしてもおかしくはござりませぬ」


 まるで弟を悼むような声でした。だから私は思わず言ってしまいました。


「あなたとその子はよく似ていたようですね」


 それを言うと、万は驚いたように顔を上げました。私は何かおかしなことを言ってしまったのかもしれません。


「ええ、境遇も似ていたのでしょう。奴才(わたくし)も子供の頃に内廷へ参りましたので」


 賢く、容姿の優れた子供を去勢して差し出せば褒賞が見込めるのでございます。

 万がその子供のことを語りながらも苦しそうなのは、自分と重ねたせいもあるのではないかと思えました。

 もとの体に戻れぬように、心に負った傷も癒えることはないのです。


 私は無言で立ち上がりました。この時、万は初めて狼狽えたように見えました。


奴才(わたくし)共のことを淑妃様にお聞かせするなどとは、厚かましいことを致しました。お耳汚しをお許しください」


 いつになく万が人間臭く思えました。平素は人形のように見えるほど表情を浮べない者ですのに。

 私はそれを嬉しく思いました。私に心を許すから、つい口から出たのだとすれば。


「謝ることなど何ひとつありません。少しお待ちになってください」


 私は立ち上がって(へや)を歩き、戸棚の中から赤い紐で封をした陶器の茶罐(ちゃかん)を取り出して戻りました。それを万の手に握らせます。


「私が飲んでいる薬湯茶です。とても優しい香りがして心を解してくれますから、どうぞお持ちになってください」

奴才(わたくし)は宦官にござります。淑妃様からこのように気にかけて頂くなど――」


 辞しようとした万の手を、私はさらに力を込めて握りました。そうして、笑みを浮べました。


「あなたは(まいない)を嫌うのでしたね。これは賂ではありません。友愛の証です」

「ゆう――」

「あなたは宦官である前に私の同志です。あなたがいなくては、私は虎に立ち向かえません。どうか受け取ってください」


 そうまで言われると、万も断れたものではなかったようで、頭上に拝して受け取ってくれました。私は笑い、万も表情を和らげました。


「ありがとう存じ上げます、淑妃様」


 万の心のとても深いところに傷があるのだと思えました。それを私にすべて語る日は来ないのかもしれませんが、万が語りたくないのならば、それは私が知るべきことではないのでしょう。そう考えることにしました。


 そして、私は亡くなった恵嬪のことを、万は子才という通貞に関することを調べるとそれぞれ決めて別れました。


 二人は一体何を見たのでしょうか――。

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