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虎帝妃の書  作者: 五十鈴 りく
⑧Eilidh 1132年10月6日~10月8日

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31/53

⑧Eilidh ―エイリッド― ⑷

 息切れしながら店の前まで来ると、エイリッドは自転車を壁に立てかける。

 すると、その時、開いた窓から声が聞こえた。


「――彼がどこにいるのか探しているのね?」

「ええ、そうよ。息子を探しているの」

「駄目よ。もう諦めてお帰りなさい」

「どうして?」

「もういいでしょう? いつまで追いかけるつもり?」


 エイリッドは思わず息を止めていた。

 窓から中を覗くことはできなかったけれど、遠い昔の記憶を辿ればわかる。この声はサイラスの母親、マリア・フルフォードだ。

 ただし今聞えた声には抑揚がなく、昔はもっと朗らかな印象ではあった。


 息子を探しているという。サイラスはマリアに黙って出てきたというのか。

 そして、マルヴィナはサイラスの居所を知っているくせに教えない。

 マリアは昔からサイラスを溺愛していたから、青年に成長した今となっても子離れできていないのかもしれない。


 それにしても、マルヴィナの言い方は不躾だった。敬語ですらない。

 わからないことが多すぎて、エイリッドはその場にへたりこみたいような心境だった。それでも、二人の会話は続いている。


「きっと、〈彼女〉に恨みを晴らしに行ったのよ。私も、あの子のことは恨んでいる」

「逆恨みよ。あなたの執念には恐れ入るわ」

「……あなたは今も昔も私の味方ではないのね」

「当然でしょう? あなたは私の平穏を乱したのだから」


 一体、誰の話をしているのだろう。

 エイリッドはそれが自分のことのように思えてしまった。


 九年も前に都心を離れたサイラスやマリアがそこまでの恨みを抱いている相手がいるのだとしたら、それは手の平を返したエイリッドの家族ではないだろうか。


 サイラスはエイリッドとその家族を恨んでいたのだろうか。

 もう会いたくなかったというのは嘘で、恨みを晴らしに来たのに、予想外の再会になってしまって戸惑っただけなのだとしたら。


 エイリッドは、自分ではどうにもならない理由で恨まれていた。

 エイリッドもサイラスがよかったのに。サイラスと婚約できたら嬉しかった。

 それをさせてくれなかったのは家族だ。それでも、サイラスとマリアにとってはエイリッドも同罪なのか。


 もっと自由に、自分のことを決めさせてもらえる環境に生まれたかった。それを思って切なくなる。


 マリアはもうマルヴィナと会話を続ける気はなくなったらしい。無言で戸口に向けて歩いてくるのがわかった。

 エイリッドは慌てて自転車を押し、横丁の奥へ潜んだ。


 店から出てきたマリアは、九年経っても美しかった。黒髪の艶も衰えず、凛とした横顔だ。


 視線を感じたのか、マリアは一度立ち止まり、エイリッドの方を見た気がした。エイリッドは今、マリアと上手く話せる気がしなくてそのまま隠れてやり過ごした。


 しゃがみ込むと、少し泣きたくなった。

 けれど、頬をつねって立ち直る。エイリッドはマルヴィナと話をしに来たのだ。

 あの虎の毛皮を持つ女性と。




 戸をガラリと開けると、マルヴィナは奥に戻ったのか姿が見えなかった。

 そうすると、エイリッドは雑多な店の中にポツリといることになる。目の前にはあの立派な虎の毛皮があり、エイリッドはじっと飾られている虎の毛皮を見た。


 その毛並みは美しく、今にも生きて動き出しそうに思える。とても貴重な品なのだということだけはよくわかった。

 けれど、さすがに虎の毛皮を所有しているというだけの理由で殺人犯だと決めつけるのはひどいだろう。


 エイリッドはフラフラと吸い寄せられるように壁際の毛皮に近づき、カウンターを越えて毛皮に手を伸ばしていた。ただし、その毛皮に手が届く前にマルヴィナの鋭い声に制止された。


「触らないで!」


 エイリッドは我に返り、手を後ろへ引っ込めたが、奥から出てきたマルヴィナはまるで泥棒を見つけたような険しい表情になっていた。


「ご、ごめんなさい! あんまりにも立派な毛皮だったものだから触ってみたくなってしまって……」


 ここは素直に謝るしかない。頭を下げると、マルヴィナの深いため息が聞こえてきた。


「これはとても大事なものだと言ったでしょう?」

「ええ、お聞きしていたのに、本当にごめんなさい」


 言い訳はできない。エイリッドがひたすら謝っていると、マルヴィナはようやく怒りを和らげてくれた。


「それで? また彼への伝言かしら?」


 急いできたあまり、今回は手紙も何もない。

 マルヴィナが虎ではないのかと怪しんで来たとは言えず、エイリッドは戸惑った。すると、マルヴィナはエイリッドをどこか憐れむような目をした。


「あなたはあまりここへは来ない方がいいわ。私が怒っているというのではなくて、危ないから」

「危ないって、この辺りの治安のことですか?」


 薄暗いし、不審者がいないとも限らない。労働階級の貧しい人が多そうではある。そうした人々にとっては、裕福そうな娘が一人でうろついていたら狙ってやりたくはなるのかもしれない。


「それもあるけれど、だってここ数日で殺人が立て続けにあったのよ。わかるでしょう?」

「はい……」


 マルヴィナは虎ではないのか。エイリッドのことを心配し、こうした忠告をくれるのだから。

 うつむいた時、マルヴィナの足元を見たけれど、ブーツを履いているので踵なんて見えなかった。


「今日、サイラスはここへ来ましたか?」

「いいえ」


 来ていないと言う。本当だろうか。

 エイリッドはこのまま大人しく帰るべきかと思ったけれど、やはり先ほどのマリアとの会話が気になって仕方がなかった。

 サイラス本人に訊けないのなら、他に訊けるのはマルヴィナしかいない。


「……あの、サイラスとおば様が恨んでいる人って、わたしなんですか?」


 立ち聞きしてしまったことを詫びる前に、もう破れかぶれで言った。言ったら悲しくなった。


 大事な幼馴染に恨まれているとは思わず、エイリッドはずっとサイラスとの友情を信じていたのだ。それでも、サイラスはエイリッドの家との交流が切れた時には家を含めてエイリッドのことも嫌いになっていた。

 そうだ、大好きだったと言ってくれたのは『あの頃』までなのだ。


 エイリッドが何かをしたわけではないのに、理不尽にしか思えない。それでも、怒るよりも悲しかった。


「正確には少し……かなり違うのだけれど、あなたに説明するのは難しいわね。気にしなくていいと思うわ」


 マルヴィナは苦笑しながらそう答えた。エイリッドがあまりに落ち込んで見えたから、慰めてくれているのだろうか。


「どういう意味ですか? それと、おば様がサイラスを探しているって――」

「とにかく、あなたは自分の身の安全を第一に考えなさい。あなたがしていることは、自分で思っているよりも危ないの」


 マルヴィナはそれ以上は何も教えてくれなかった。

 サイラスにも会えず、エイリッドはなんの収穫もないままフォレット横丁を後にする。


 帰って雪月の書を読もう――。


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