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虎帝妃の書  作者: 五十鈴 りく
①Eilidh 1132年9月26日~10月3日
3/7

①Eilidh ―エイリッド― ⑵

「エイリッド! あなたはまた自転車で図書館へ行ったそうですね!」


 叔母であるモイラはオールドミスで、父の援助がなくては生活に貧窮してしまう。だからこそ、言いつけを忠実に守ろうとしてエイリッドを厳しく躾けようとするのだ。けれど、そんな内情を知っているエイリッドがモイラを尊敬することはなかった。


「ええ、風が気持ちよかったわ。叔母様も自転車にお乗りになってはいかがかしら」


 エイリッドはにっこりと笑って茶色の波打った髪を揺らした。

 この髪も、令嬢としては短すぎる。肩に届くか届かないかというところまで切ってしまったのだ。

 理由は、手がかかるからだ。いざとなれば結い上げるなり鬘を被るなりどうとでもなるのに、切った時にはモイラが卒倒しかけたのだ。


「自転車なんて淑女が乗るものではありません! それから、付き添いも連れずに出歩いて何かあったらどうするのですかっ?」

「自転車に乗る時はちゃんと(ズボン)を穿いているわ。それがなくても、ほら、サイクリング用のスカートにはプリーツが入っていて、漕いでいる時には優雅に見える設計になっているの。脚を剥き出しにしているわけでもないし、むしろ今、自転車は淑女たちに人気なのよ。短い髪だってそう」

「先進的だの流行だの言えば皆が納得するとお思いですか? はしたない」


 はしたないと言われてしまえば、さすがのエイリッドもショックを受けて慎むだろうと思っているのなら、それは姪を甘く見ていると言わざるを得ない。


「叔母様が未だに独身なのは、慎ましすぎたからではなくて?」


 笑顔でこう返す、それがエイリッドという娘だ。

 気が強い方ではあると自覚している。


「なっ!」


 モイラは絶句して震えた。

 醜くはないけれど、モイラは地味で目立たない女性だから、若い娘の派手さや奔放さを嫌う。


 それでも、エイリッドが規律の厳しい寄宿学校へ入れられず屋敷に残って家庭教師の教育だけでいられたのは、この叔母がいたおかげではあるのだ。叔母の監督がなければさっさと全寮制の学校へ放り込まれた。


 それだけはどうしても避けたかった。だから、叔母がエイリッドを利用しているとしてもお互い様だった。

 エイリッドは怒り心頭の叔母にギュッと抱きつき、背中をポンポン、と叩いた。


「ごめんなさい、叔母様。叔母様がはしたないなんていうから、つい」


 先に謝られると、モイラはいつもそれ以上怒らない。エイリッドほど彼女の対処法に精通している人間はいない。

 笑ってみせると、モイラはしかめっ面をして呆れていたけれど、これはいつものことだ。


「私も言い過ぎましたが、思ったことをすぐに口に出すのは賢明とは言えませんね」

「ええ。でも心の中でこっそり思っているのと、口に出して謝るのとだとどっちがいいのかしら? ねえ、叔母様、わたし借りてきた本が読みたいの。もういいかしら?」

「またわけのわからない異国の本でしょう? そんな知識は女性に必要なものではありませんよ」

「女性に必要かどうかではなくて、()()()に必要かどうかなのよ、叔母様」


 まだ何か言い足りないというふうにブツブツ言っていたけれど、エイリッドは聞き流して部屋に籠った。扉の前でふぅ、とひとつ息をつき、ソファーに向かって身を投げ出した。

 そうしたら、テーブルの上には古臭い書物が一冊。エイリッドは嫌なことは忘れてにんまりと笑みを浮かべて本を手に取った。


 もとは赤かったと思われる表紙は黒ずみ、あまり綺麗とは言い難い。ペンとインクとは違う、筆と墨で書かれた文字は太く生き物のようにくねっていた。エイリッドはその表紙を愛しげに撫でる。


 家族に顧みられない、はねっ返りで令嬢たちとも気が合わないエイリッドを孤独から救ってくれたのは書物だった。

 読むことに没頭する時間は至福だ。特に大東語の文字で書かれた物語は余計なことを考える隙もなく頭を使う上、異国へと足を踏み込んだような気分になれる。


 語学だけでは補えない、想像の範疇を越えた文章に遭遇した時は、図書館で調べてさらに知識を深める。それもまた楽しい。


 本当にいつか大東国に行けたらどんなに楽しいだろう。

 その時は冷えきった家族とではなくて、再会したサイラスとだったらなお嬉しい。


 なんてことを考えてみて、それからすぐに冷静になる。あんな子供の約束をいつまでも真に受けているなんて、それこそ子供じみている。


 サイラスはあれから一度もエイリッドに会いに来たことがないのだ。その気になればいくらだって会いに来られる年齢だというのに。

 来ないのは、サイラスにその気がないからではないのか。幼馴染のことなど思い出しもしないくらい、毎日を楽しんでいるかもしれない。

 孤独なのはエイリッドだけだろうか。


 寄宿学校行きを回避して屋敷に留まる努力は無意味なことなのか。

 サイラスが簡単に会いに来られないような遠方に引っ越したと考えたい自分と、夢が叶わなかった時に傷つきすぎないよう疑う自分と、どちらが正しいのだろう。


 本を手にしているのに、今日は何故か感傷的になってしまった。気を取り直して本を開く。


 独特の匂いに心が躍った。

 しかし、その日のうちにエイリッドの気分が落ち込む手紙が大東国から届いたのである。



“――月末に一度帰国する。

   半年ぶりに家族そろっての晩餐となるだろう。”



 手紙の差出人は父で、こう書かれているのなら両親と兄が三人とも帰ってくるのだ。


 幼いエイリッドは家族にとってお荷物だと言わんばかりにいつも留守番だった。

 向こうは熱病が流行っているから、抵抗力の弱い子供は危ないとか、治安に問題があるとか、理由はいくつかあったようだけれど、置いていかれる当人にとっては理由などどうでもよかった。


 不慣れな家族団欒は、堅苦しいだけで何も楽しくない。この手紙が投函されたのはいつだろう。


 今日は九月二十六日。今月末だというのなら、いつ帰ってきてもおかしくない。

 エイリッドはため息をついた。


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