⑧Eilidh ―エイリッド― ⑴
虎が化けている人は、虎の毛皮を持つ。そして、踵がない。
エイリッドはそのくだりを読みながら小さく唸った。
この国では家の中ですら靴を脱ぐ習慣がない。踵なんて、夫婦でもなければ確かめられないだろう。
それから、虎の毛皮を部屋に敷いている人はいるかもしれないけれど、それが本物かどうかの判断は難しい。本物は高価だから、偽の毛皮という場合もある。
「なんだか変なことになってきたわね」
思わずつぶやいてしまった。
レノックス夫人を殺害した犯人を突き止めるのに靴を脱がさなくてはならないとか、家に毛皮がないか確かめないといけないとか――。
そこでふと、最近どこかで立派な虎の毛皮を見たなと思い出した。
そう、フォレット横丁の骨董品店だ。
マルヴィナという女主の店に虎の毛皮があった。
とはいえ、あそこは大東国の骨董品を取り扱う店だから、虎の毛皮があっても不自然ではない。虎は大東国にしか生息しない猛獣で、権威の証に欲しがる人もいるだろう。
余程の収集家でない限り、虎皮が厄除けのお守りになるなんてことは知らないと思われるが。
けれど、マルヴィナはあの虎の毛皮は売らないと言っていたのではなかったか。
とても大切なものだから、と。
マルヴィナは専門家だから、虎の毛皮がお守になることも知っているのだろう。
だから大切にしているのかもしれない。
――明日、サイラスに会ったらここまで読み進めた内容を伝えよう。何かの役に立つといいけれど。
ふぅ、とため息をついて顔を上げた。さすがに一気に読むと疲れる。
それに集中するといつも以上に空腹感を覚えると思ったら、食事を抜いたのだった。エイリッドの腹が、ぐぅ、と切ない音を立てる。
どうしようか。こっそり台所へ行って料理人に何か残っていないか訊いてみようか。
そんなことを考えていると、誰かが部屋を訪ねてきた。ノックの音がして、エイリッドはとっさに本を閉じる。
来たのはモイラだった。
「エイリッド、食欲がないと聞いたのだけれど、まだ食べられそうにありませんか? 体に優しいものがいいかと思って、ポリッジを用意してもらいましたけれど」
食べ物が来た。エイリッドは喜んで扉を開けた。
モイラはエイリッドの『食欲がない』を真に受けたらしい。思えば、普段は小言がうるさいモイラもエイリッドが病気の時には優しかった。
血の濃い父母よりも、この叔母と過ごした時間の方が長いのだ。モイラも家族なのだと、仮病のエイリッドを気遣う様子に罪悪感を覚えた。
「ありがとう、叔母様。具合は随分よくなったの。頂きます」
それを聞くと、モイラは控えめに微笑んだ。いつもこうして笑っていたらいいのに。
「それはよかった。テーブルに置きますよ」
そう言ってモイラはポリッジの載ったトレイを大東国の机の上に置こうとした。まだ雪月の書は机の上にある。
「あっ、叔母様! こちらのテーブルで頂くわ」
エイリッドは慌てて、以前から使っていた丸テーブルの方へ移動する。モイラは本に気づき、顔をしかめた。
「あなた、また具合が悪いのにこんな本を読んで……」
「今日はもう読まないわ。食べたら素直に休むから」
すると、モイラはそれ以上うるさいことは言わなかった。トレイを置き、カバーを外すと、中からまだ湯気の立ったポリッジが出てきた。
「お父様たちは夜会に行きました。娘の具合が悪いと知っていても、母親でさえ自分たちの楽しみを我慢できないのですから……」
非難の矛先がそちらに向かった。エイリッドは家族についていてほしいとは思っていないので構わないのだけれど。
「社交界のための支度もちっとも進んでいませんし、本当に何をしに帰ってきたのかお忘れのよう。……あなたが本ばかり読むようになったのは、思えば幼少期から家族と離れて寂しかったのもあるのでしょうね」
しんみりとそんなことを言われた。
そうなのかもしれないし、そうではないのかもしれない。
返答に困ったので、エイリッドはさっそく座ってあたたかいうちにポリッジを食べることにした。
オートミールはかなり柔らかく煮てあり、味付けも甘かった。小さな子供に戻ったような気分で食べる。
「美味しいわ。ありがとう、叔母様」
メイドに頼めばいいのにわざわざ持ってきてくれたのは、エイリッドの具合を気にしてくれたからなのだろう。
エイリッド以上に孤独なモイラにとって、姪であるエイリッドはこの世界で一番近い存在なのかもしれない。
ほっとしたようにうなずいていた。




