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虎帝妃の書  作者: 五十鈴 りく
➐雪月 834年?月?日~

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27/53

➐雪月 ―セツゲツ― ⑵

 私は(ばん)に椅子を勧めました。


「お越し頂いてありがとうございます。昨夜はひどい煙でしたね」


 この時、珍しく万は薄い唇を少しばかり弓なりにして微笑みました。


「ええ、淑妃様の御(へや)は火元から見て風下ですから、さぞ煙たかったことでしょう」


 やはり、万の仕業であったのだと私は得心が行きました。

 私のそばに獣の怪異がおり、それが陛下だと疑っているのだとしたら、昨晩の出来事で万は確信したでしょうか。


「獣は煙を嫌うとおっしゃいましたね。とはいえ、煙だけで獣を祓うのは難しいのでしょうか」

「あれはその場しのぎに過ぎません。あの獣はどのようにして、その」


 言いかけて、万は苦々しい表情になりました。そうして、ため息交じりに首を振っていたのでございます。


「こうまどろっこしい言い方をしていたのでは、時がいくらあっても本題に届きませぬ。極刑を覚悟で申し上げさせて頂きますと、陛下のご異変はいつから始まったのかが重要でしょう」


 あまりにはっきりと口にするものですから、私は金児が近くで聞いていないかとはらはらしてしまいました。そんな私を前に、万は続けます。


奴才(わたくし)は極刑を覚悟しておりますと申し上げました。淑妃様を道連れにするつもりなど毛頭ござりませぬが、このままでは淑妃様が獣の餌食になるも必至。どうか不敬を恐れずお聞きください」

「我が身のことよりも、私は陛下をお救いする術を知りたいのです。そのためでしたら危険は覚悟の上です」


 万もそうなのでしょうか。陛下への忠心によって命を賭するのでしょうか。

 その本心はわかりませんが、私は万を信じると決めたのです。


「ご立派なお志に感服致しました。さすがは清廉の徒、周懐世殿の御息女。――では、お話させて頂きます」


 そう言って万は恭しく私に拝礼し、それから語り始めました。


「陛下は遠征のために兵を指揮し、北上されておられました。陛下は戦において策士にござります。奇策を用いて勝利を収められることも多く、その策は時に玉体をも囮にされるのです」

「いくら勇猛果敢な陛下とはいえども、信じがたいことです」


 軍師の策を用いず、陛下はご自身で兵の指揮を執るのだとは聞いておりましたが、思いのほか危険なことをされておいでだったようです。


「ええ。奴才(わたくし)は戦にお供することはござりませぬので、これらはすべて従軍したとある将よりお聞ききした話になりますが。――今度の戦で、陛下は堂々と敵前にお姿を現し、追ってきたところを返り討ちにするという戦法を取られたそうです。ただし、敵の精鋭は驚くべき騎馬技術を駆使し陛下に追い縋りました。陛下は金色の鎧を脱ぎ、兵に紛れて林へと身を隠されて事なきを得たのだと」

「そんなことまで――」


 もし御身に何かあったら、この国は他国からの侵略に耐えきれなくなるかもしれません。陛下という(かなめ)が外れてしまえば、もうもとの形には戻れないのです。

 太子である弟君はおられますが、陛下とはまったく性質の違うお方ですから。


「この時、陛下をお護りする将たちは、しばしの間だけ陛下を見失ってしまったそうです。けれど、陛下はすぐに皆の前にお戻りになられたとのことでした。ただし――」

「その後からのご様子が以前と違ったと?」


 私が先になって言うと、万は静かにうなずきました。


「はい。皆が林で陛下を見失ったとされた時、林に一匹の虎が現れたのだとお伺いしました」

「虎が?」

「その猛々しい咆哮に歴戦の将さえ怯むほどの大虎だったとのことです。ただ、その虎は人に襲いかかることなく去ったそうで、その虎が消えた後に陛下がお戻りになったとお聞きしました」

「陛下は虎になど()わなかったとおっしゃられたのですね?」


 そんな気がしたのです。万の様子から、その通りであったのだと知れました。


「左様にござります。陛下の玉体は傷ひとつなくご無事で、あの虎は人に見向きもせず林を通り過ぎたのだと思われたそうなのですが、さすがに陛下と近しい将ともなれば、陛下のご様子が異なることにお気づきのようでした」


 私は万の話を手が白くなるほど握り締めながら聞いていました。万はそんな私に続きを話すべきかと躊躇っているようにも感じられましたが、私がすべてを聞きたいのだということをわかってくれたのです。


「あの林の中で何かが起こったと考えるべきでしょう。虎が陛下に化けて成り代わったのか、陛下に虎妖(こよう)が憑いているのか、どちらであるのかをまずは見極めねばなりませぬ」


 万の考えは私と同じでございました。私は勝手に、そのことに勇気づけられたような気分になりました。


 万はさらに、持参した書物を細長い指で捲り、開きました。


「虎に化ける人を虎人、人に化ける虎を人虎と申します。この場合、虎人は生まれ持った性質なのです。ですから、陛下は虎人などではござりませぬので除外致します」


 今、万が語った内容は私が書物で調べたものと同じでした。けれど、万はもう少し詳しく知ることができたようなのです。


「それで、虎は巧みに人に化けますが、ただ一部、踵だけは上手く化けられないのだと書かれていました」

「踵ですか?」


 確かに、四つ足の獣の足先は丸く、人のような角のある踵をしておりません。それでも、他の部分は上手く化けるのに、何故踵だけなのだろうとは思いましたが、理由などいいのです。


「踵を見ればわかるということですか」

「この文献に書かれていることがすべてだとは思いませぬ。上手く化ける虎もいるのやもしれませんし、個体差というものがあるのではないでしょうか。それでも、今この段階でのひとつの目安にはなります」


 陛下が靴をお脱ぎになる時があるとすれば、それは沐浴か閨でしょう。

 万は、それから、と言って一度言葉を切りました。


「陛下は皇太子であらせられた頃にも戦に出られており、その際に背後から矢を受けたことがござります。右肩にその時の古傷が残っておられるとのことですが、ご存じでしたか?」

「い、いえ」

「もしその傷跡がおありでしたら、それは間違いなく陛下にござります。けれど、その傷がないのならば、それは陛下に化けた者であるとも考えられます。踵よりもこの傷跡をお確かめ頂けるとよいかと存じ上げます」


 踵以上に、肩の後ろとなると確かめられる者は限られております。

 あの晩も私は組み伏せられたまま、陛下の背後など一度も見る機会などなかったのです。私にそれができるでしょうか。


 この確認は大事なことで、どうしてもやらねばならないのだと私は自分に言い聞かせました。


「わかりました。このことは胸に留めておきます」


 けれど、万は喜びません。

 相手は獣です。もしかすると私の身を案じてくれているのかもしれません。

 私自身は万に富や地位といった利をもたらす人間ではありませんが、そんなものを求める人ではないということでしょうか。


「それから、虎は人に化けた際、自分の毛皮を持っているそうです。それを羽織ることで本来の虎の姿に戻るのだとか」


 陛下は虎の毛皮などお持ちではありませんでした。どこかに隠しているのか、やはり虎に憑りつかれているだけなのかと。


「とはいえ、虎皮は身を守る呪物として垂涎の品です。貴人でなければ持てるものではございませぬが。奴才(わたくし)は虎皮を持つ者がいないかを調べてみたく存じます」


 もし虎の毛皮を持つ者がいたとするのなら、その毛皮は陛下に化けた虎のものかもしれません。それを預かっている者がいるとすれば、何かを知っているのでしょう。

 私たちはそれぞれにすべきことを胸に秘め、その日は別れました。

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