➐雪月 ―セツゲツ― ⑴
夜が近づいてきます。
それを感じると、指先がどうしようもなく震えてしまいます。今日も陛下に化けた獣が後宮にやってくるのでございます。
今回は私もどうにか方策を練ってみました。
まず、虎の仕業なのだと決めつけるだけでなく、他の可能性も視野に入れておきたいと考えました。それで護符を用意してみたのです。
もし陛下が悪霊に憑りつかれていた場合、この護符に何か感ずるところがあるかもしれません。
虎の怪異の場合、護符は効かぬのでしょうか。それもわかりません。
ただ、この護符を寝台へ持ち込めるかという点も問題ではあるのですが。
こんなものは気休めで、どうにか気持ちを紛らわせたいだけだと自分でもわかっているのです。護符を用意したりしている時は恐ろしさが紛れても、やはり夜にはあの苦痛を思い出し、恐ろしくなるのでした。
ざわ、ざわ、と廊下で話し声がしました。また何かが起こったのでしょうか。
人の影が房の前を通りました。私は息を止め、報せを待ちます。
「火が――っ」
宦官たちが騒ぎ立てておりました。どこかから火が出たというのでしょうか。
夜になれば灯燭を使うものですから、それを倒してしまったのかもしれません。近くに布や紙があれば火は簡単に燃え広がります。
急な出火に、後宮では混乱を極めました。
控えていた金児が隣の房から飛び出してきて、私に煙除けのための衣を被せます。
「雪月様、お外へ」
金児に促され、私は何が起こっているのかもわからぬまま房から出ました。
回廊には煙が広がっておりました。私は口元を押さえ少し咳込みましたが、廊下に陛下はおられず、そのことに安堵していたのでございます。
そんな私に二人の宦官が近づいてきて拝礼しました。
「すでに鎮火されましたのでご安心ください。ただ、陛下は興が削がれたと仰られて寝宮にお戻りになられました」
小火騒ぎでも身の危険を感じたのでしょうか。
それならば、やはり陛下は獣だと。
こうして私は今晩、あの苦痛から遠ざかることができたのです。
護符の効力を確かめることはできなかったのですが、安全な眠りが約束され嬉しくて仕方ありません。
もちろん、それを顔に出してはなりませんが。
「火元はどちらだったのでしょう?」
「廊下の窓辺に手燭が置かれておりました。それが倒れ、窓辺の帳を焼いたのです。何者かの不始末ですが、責任の追及は今後ということでご容赦ください」
「幸い、大事には至りませんでしたが、康妃様が転倒されてお怪我をされました。かすり傷ではございますが」
火に水をかけると小さな火は消えますが、その分煙が出ます。凋康妃の房の周りにも煙が届いてしまったのでしょう。
凋康妃は今時珍しく纏足をされているので、あの痛みを伴う小さな足でとっさには動けません。驚いて転んでしまったのだとしたらお気の毒ですが、軽症だとのことでした。
まさかとは思いますが、この小火騒ぎを起こしたのが宦官の万ではないかという気がしてしまいました。万が、陛下が獣のように煙を嫌がるのかを見るために起こしたとしたら。
けれど、もしそんなことをしたと知れたら、自身が死罪になるばかりか親類縁者にまで累が及びます。さすがに考えすぎでしょうか。
それとも、それほどの危険を冒してでさえ確かめねばならないことだったのでしょうか。
だとするのなら、万の忠義には感じ入るばかりです。
明日、万に会えることを願いつつ、私はその日ばかりは穏やかに眠ることができました。
こう異変が続くと、やはり警備が厳しくなります。私が書庫へ出向くのは難しく、万がこちらを訪れてくれるのを待つしかありませんでした。
けれど、万も忙しいのでしょう。待てどもなかなか来てくれるものではありません。そもそも来てくれるつもりなのかどうかさえ確かめられません。
待つことに不安を覚えた私は金児に頼むことにしました。
「あなたも万信志という宦官を知っているでしょう?」
手持ち無沙汰に鏡を磨いていた金児は、驚いて顔を上げました。
「はい。万公公(宦官の敬称)は宦官の中では珍しく、賂に靡かないのだとか。だからか、後宮では浮いた存在で近寄り難くはございますけれど、根はお優しい方です。時々小鳥に餌をあげていますよ」
その話を聞いて、私はこんな時なのに笑みを浮かべておりました。
万はきっと、仏頂面で小鳥に餌を撒き、それでも小鳥たちはそんな万に懐くのでしょう。
「万を呼んできてほしいのです。古詩に造詣が深いそうなので、尋ねてみたいことがいくつかあるのです」
「はぁ」
金児は気の抜けた返事を返しました。きっと、万にはすげなく断られるという気がしたのでしょう。
それでも、私に頼まれた以上は出かけていきます。万は来てくれるのではないかと私は考えました。
そうして、その通りに万は書物を手にやって来ましたが、古詩について答弁するつもりはきっとなかったでしょう。
「ありがとう、金児。あなたはしばらく休んでくれていいわ」
金児は古詩に興味などありません。拝礼すると下がっていきました。




