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虎帝妃の書  作者: 五十鈴 りく
⑥Eilidh 1132年10月6日

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20/53

⑥Eilidh ―エイリッド― ⑶

 やっと母たちから解放されたエイリッドは、部屋に戻るふりをしながら庭に潜った。垣根に身を潜めつつ、自転車に近づいていく。


 小屋のそばに立てかけてある自転車に跨り、エイリッドは周りをよく見てペダルを踏み込んだ。


 あんな事件があった以上、暗くなってからでは怖いので急ぎたい。図書館まで行くのに片道十五分はかかる。

 それよりも少し遠いのなら、迷わなかったとしても二十分。一時間あればどうにかなるだろうか。

 とにかく急ごう。




 人にぶつからないように、エイリッドは人通りのあるところでは速度を落とした。もし誰かに怪我などさせた日には自転車を取り上げられてしまう。


 いつもは近づくと胸躍る図書館を通り過ぎ、エイリッドはフォレット横丁へと自転車を進めていく。


 風が運んでくる食べ物らしき匂いがする。美味しそうとも思えないけれど、妙に気になる。スパイスの強い香りだ。

 大東国の料理を屋敷のシェフは作らないから、食べたことも匂いを嗅いだこともない。大東国の料理は書物で知る限りの知識なのだが、もしかするとこういう感じなのだろうか。


 フォレット通りはエイリッドが普段立ち寄る場所よりも煤けていて、あまり心惹かれる場所ではなかった。それでも、横丁の入り口でエイリッドは自転車から降り、自転車を押しながら歩いた。


 どうやらエイリッドは場違いらしく、視線が刺さった。ここにいる人たちは移民か何かなのだろうか。少し顔立ちがエキゾチックだ。

 ――居心地が悪い。落ち着かないながらに踏み入る。


 骨董屋の看板を探すとすぐに見つかった。そこで思わず、あっと声を上げてしまった。

 思っていたアンティークショップとは違った。

 看板が大東文字で書かれていたのだ。大東国趣味の店のようだ。


 先ほどまでの心細さは嘘のように、エイリッドは親戚を訪ねるような気安さで戸を開いた。それも大東国風の引き戸であって、エイリッドは密かに感動する。


「すみません、お邪魔します」


 中へ入りたいけれど、自転車が盗まれてしまっては大変だ。自転車が見張れるところまでしか行けない。


 それでも、焼き物の大皿や瓶、山水画、墨書、屏風、鋳物の行燈――店内には所狭しと大東国の品々が置かれていて、エイリッドはこの店で寝泊まりしたい気分だった。


 なんて素敵なところだろう。こんな店が近くにあるなんて少しも知らなかった。サイラスに感謝しなくては。


 うっとりしていたエイリッドは、ふとカウンターの奥の壁に堂々と飾られている虎の毛皮が目に入ってぎょっとした。

 美しい毛並みだけれど、雪月の書のおかげで虎に過敏になってしまった。


 この時、奥から大東国風の煌びやかな刺繍の衣装を着た婦人が出てきた。

 黒光りしている髪をシンプルな(かんざし)でまとめていて、なんとも婀娜っぽい。まだ三十は超えていないと思われる年頃だ。

 まさかこの女性が店主なのだろうか。


「いらっしゃいませ。何をお求めでしょうか?」


 嫣然と微笑まれた。エイリッドを見て小娘だと馬鹿にした様子はない。

 エイリッドの方が戸惑った。


「あ、あの、実は買い物に来たのではなくて――あっ、でも、今度は買い物に来たいと思います。素敵なお店だから」


 ほとんど持ち合わせがないのが悔やまれた。持っていたら散財したのは間違いない。

 大東国の工芸品は、どうしてこう精緻で美しいものばかりなのだろう。


 ――と、本題を忘れそうになるが、エイリッドは思いきって言ってみる。


「サイラス・フルフォードという方をご存じですよね? 彼に、用がある時はこちらに伝言を頼むといいと言われました」


 けれど、その女性は初耳だとばかりに首を傾げてしまった。エイリッドは慌ててつけ足す。


「わ、わたしはエイリッド・グレイソンです。何か聞いていませんか?」


 ここでようやくその女性は何かに思い当たったらしい。


「ああ、フルフォード商会のご子息のことね? 私はこの店の店主でマルヴィナ・リー。フルフォード家とは仕事上のお付き合いがあるの。皆様、マリア様のご実家のあるオーダムセット州においでだけど、こちらに来る時は必ず寄ってくれるの」


 サイラスの母親の名はマリアだった。それなら間違いないだろう。


「この手紙を渡してほしいのですが、お願いできますか?」

「ええ、次に会ったら渡しておくわ」


 それがいつになるのかはわからないといったふうだった。それでも、他に連絡手段がない。


 この手紙には、毎日図書館にいるから声をかけてほしいと書いた。さすがに家には招けないから。


「ありがとうございます。――あの虎の毛皮、とても立派ですね」


 エイリッドが飾られた毛皮を眺めていると、マルヴィナは含みのある笑みを浮かべた。


「そうでしょう? でもあの毛皮は非売品なの。私の命と同じくらい大事なものだから」

「何か思い入れがあるのですか?」

「ええ、そういうこと」


 本当に綺麗な女性だ。顔立ちも黒髪も大東国風で、もしかするとそちらの血が混ざっているのではないだろうか。


 サイラスの母親のマリアも昔、自分のルーツは大東国にあるというふうなことを言っていた。サイラスも母親譲りの黒髪だ。

 黒い髪をエイリッドはとても美しいと思う。雪月の髪もきっとこんなふうだったのだろう。


 エイリッドは丁寧に礼を言ってから帰った。帰り道は、本当に大東国から帰ってきたような心境で現実味がなかった。


 仕事上の付き合いがあると言っていたから、フルフォード商会が輸入した大東国の品をマルヴィナが買い取って売りに出しているのだろう。




 庭に自転車を戻した後、エイリッドは何食わぬ顔で屋敷に戻る。

 晩餐の席では家族にネイトについてあれこれ言われたり尋ねられたりしたが、今日という日の中でネイトの存在は限りなく薄いものであったから、曖昧にごまかすばかりだった。


 就寝前にエイリッドは部屋で雪月の書の続きを読む。

 以前のようにただ楽しいばかりではなく、重たい気分だった。それでも、サイラスに相談する時にこの書の内容をできるだけ知っておいた方がいいのは確かだから。


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