①Eilidh ―エイリッド― ⑴
会うたび、彼の体のどこかに痣があった。
それは顔などの目立つところではなく、手の甲が多かった。あるいは太もも。
ひどくつねられた痕なのだと、それを見るたびにエイリッドは小さな胸を痛め、痛みを分かち合うように自分のスカートの裾をギュッと握りしめた。
彼――サイラス・フルフォードは、エイリッドの父の友人の子だった。
普段は全寮制の寄宿学校で過ごしており、長期休暇の際にだけ帰ってきて家族と共にエイリッドの前に現れる。
人当たりがよく、優しい男の子だった。敵など作りそうにないサイラスだから、エイリッドは余計に気になった。
サイラスは、それが誰の仕業であるのかを決して教えようとしなかった。加害者を庇うのなら、それは家族か友人か、近しい間柄なのだろう。
もしかすると、貴族の子息もいるという学校で、商人の子供だと虐められているのだろうか。
誰がやったのかと問い質すと、サイラスは困った顔をして黙り込んでしまうから、エイリッドは尋ねるのをやめた。
『サイラス、あなたとわたしはお友達だから。わたしは、あなたが嫌がることはしないわ』
自分は彼の味方であろうと決めた。幼い子供のことだけれど、この友情は確かなものだったはずだ。
その気持ちはきっとサイラスにも伝わっていた。
『ありがとう。……ねえ、エイリッド。僕、大きくなったら何がしたいかってずっと考えていたんだけど、旅に出たいと思うんだ』
『旅に? わたしたちのお父様みたいに遠くまで?』
『そうだよ。エイリッドのお父様はお仕事で海の向こうの大東国に行くんでしょ? 僕のお父様も時々商品の買いつけに行くよ。僕たちも大人になったらこのリング王国を出て、大東国でもどこでも行ける。……つまりね、いつかエイリッドと一緒に旅に出たいって意味なんだけど』
両腕を広げ、照れたように笑う幼い男の子。
黒い髪に淡い緑色の目をした可愛らしい幼馴染。
『素敵ね。じゃあわたし、今から大東語を勉強しておく!』
『僕も。あと、エイリッドを護れるように強くなるね』
エイリッドも強くなりたかった。サイラスを護れるように。
広げた彼の腕の中に飛び込みたいと思ったけれど、それをするほど幼くはなかったのかもしれない。男の子を相手に、軽々しくそれをしてはいけないことくらいわかっている。
『大人になるのが楽しみだね』
大人になれば自由だ。
痛みや苦しみから逃げ出すこともできるようになるだろう。
不自由な子供時代に別れを告げる、輝かしい未来を二人で思い描いた。
『うん。サイラスと一緒ならきっと楽しい旅になるわね』
――あの時は本気でそう信じていた。
けれど、あれから九年が過ぎ、それでもこの約束は未だ果たされていない。
それは、エイリッドがまだ未成年で、〈大人〉ではないからなのだろうか。それならば、成人と認められる年齢を迎えれば、サイラスは旅に誘いに来てくれるのだろうか。
その頃になればエイリッドも婚約ひとつしていないということもなく、自由が利かないのではないかと心配になる。
大人と呼べる年頃に近づくにつれ、子供の頃に抱えていた問題が解決すると同時に、大人ならではの問題が浮上するものなのだと気づき始めてしまう。
だから、早く会いに来てほしいのに――。
エイリッド・グレイソンは自室のベッドの上で目を覚ました。
天井の文様が見えるのだから、真夜中というわけではない。十分な明るさで、今に仕着せを着たメイドが起こしに来る時刻なのだろう。
ゆっくりと上体を起こすが、そのままぼうっとしてしまった。
懐かしい夢を見たせいだ。
サイラス――。
父の友人の子であるサイラスは、エイリッドの幼馴染だった。一番親しい親友と言ってもよかった。
詳しい事情は話してもらえなかったものの、どうやら父親同士の不和がもとで両家の交流がなくなり、その後引っ越して会う機会がなくなってしまった。
サイラスが遠くへ引っ越したと聞いてエイリッドは泣き喚いたが、慰めてくれたのは家族ではなく乳母だった。
外交官である父と母と、年の離れた兄はさっさとエイリッドを残して出国した。エイリッドのそばに残されたのは、口うるさい叔母だけであった。
エイリッドは寂しさを埋めるように本を読んだ。特に大東語で書かれた古典を読み解き、気づけば家庭教師よりも詳しくなって渋い顔をされた。
そうして、エイリッドはついにデビュタントを控えた十七歳となったが、季節の折々にしか会わない家族は、この娘が一般的な令嬢として相応しく育っていないのだということにまだ気づいていない。
それは、叔母が正しく報告していないせいでもある。