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虎帝妃の書  作者: 五十鈴 りく
➎雪月 834年?月?日~

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17/53

➎雪月 ―セツゲツ―

 恵嬪を殺したのは獣ではないかと、そのように囁かれておりました。


 けれど、高い外壁と堀に囲まれた後宮にどうやって獣が入り込むというのでしょう。獣だとするのなら、恵嬪を殺したその獣はどこへ消えたのか、誰にも真実はわかりません。


 この事件があったため、私たち妃も(へや)から出ぬようにというお達しがありました。書庫へ行きたかった私は困り果てておりました。

 ただし、ひとつだけ救いがあったとするのなら、その晩は穢れを避けるということで陛下が後宮へ来られなかったことでしょう。


 私は一日体を休めることができました。亡くなった恵嬪のことを思えば容易く喜べるものではありませんが。


 穢れを祓う儀式を(みこ)が行い、それを終えてから陛下が来訪されるそうです。

 その儀式は、もしかすると今の邪悪な陛下になんらかの影響を及ぼすのではないかと考えてみましたが、それは私の期待に過ぎないのでしょう。


 とにかく、私は書庫へ向かいたいのです。

 けれども、下手人が捕まらぬのでは自由に行き来するのも難しい状況でした。金児が(はべ)っていたとしても、もし凶暴な獣に遭遇したのでは追い払えません。

 とにかく(へや)から出ないようにと言われてしまいました。


 然れども、時を無駄にするわけには参りません。

 私は極力目立たないように、(かんざし)を髪から抜き取り、衣も色味を抑えたものに替えて、下級の宮女のようななりでうつむいて回廊を速足で進みました。


 後宮の書庫は広く、多方面に渡る知識が詰まっております。ここを利用するのは妃ばかりではなく、宦官や女官も読むことができるのです。女人が好みそうな詩や読み物ばかりに留まらないのはそのためでした。


 私はどこから手をつけてよいものか迷いましたが、〈捜神記〉など幅広い怪奇を取り扱ったものを選び取りました。とはいえ、一朝一夕ですべてに目を通すのは無理です。気になるところを選び取るしかないでしょう。


 人に化ける怪異をとにかく探しました。

 けれど、それらは本当に数多いのです。


 まず、狐や狸でしょうか。

 それらは人に化けるだけでなく、憑くこともあると聞きます。犬や(かわうそ)、鶴などの鳥。

 蛇、それから蛙。(いなご)田螺(たにし)まで。


 柳や牡丹、菊などの植物も化けますが、これは違う気がします。

 今の陛下にはもっと欲望を剥き出しにした生々しさがあるのです。


 これほど多くのものが化けるというのなら、常に私が人だと認識しているうちの幾人かは人ではないのかもしれないとさえ思いました。

 そう順調に調べものが進むと安易に考えていたつもりはありませんが、あたりをつけることすら難しく思われました。


 陛下の御身に一体何が起こったというのでしょう。

 胸が塞ぐような重たさを抱えながら私が頁を捲った際、ふととある文字が目に入りました。


 〈人虎〉、と。

 その二文字に肌が粟立ちました。


 確信など持てるはずもないのに、目がそこに引きつけられるのです。

 あの猛々しい威圧感は虎のようだと、私が感じたからでしょう。


「周淑妃様ではござりませぬか?」


 調べものに没頭するあまり、私は周囲に気を配っていられませんでした。とっさに呼ばれ、思わず顔を上げてしまったのです。


 薄暗い書庫の片隅で目立たない扮装をしてる私に気づいたのは、女官ではありませんでした。宦官の一人です。


 その者を私は見知っていました。

 (ばん)信志(しんし)という、後宮で儀礼を管理する司礼監に属する者です。


 宮刑によって肉体を欠損したのではなく、利発であったがために継母に疎んじられて去勢されたという惨い噂を聞きました。本人がそれについて語ることはなく、真偽のほどはわかりません。


 ただ、子供の頃にそのような目に遭ったというのに、万は落ち着いています。他の宦官たちよりも整った顔をして、(ふと)ってもおらず、背筋を伸ばして颯爽と歩くのです。


 万は以前、他の妃に嫌がらせを受けていた私を助けてくれたことがありました。

 ただの一度ですが、とある妃に命じられた女官が私に泥水を引っかけた際、私の前に出て代わりに泥水を受けてくれたのでした。


 女官は慌てて逃げ、それを見送ると万も私に一礼して無言で去りました。何も言葉は交わしませんでしたが、彼の目には労りがあったように思えました。

 他の者たちの手前、一宦官を追いかけることはできませんでしたが、心の中では深く感謝しておりました。


 私への嫌がらせを妨害したせいで、命じた妃に折檻されたのではないかと気になりましたが、やはり礼を言うために呼び出すようなこともできず、そのままになっていたのです。


 私は戸惑いつつも相手が万であったことにほんの少しだけ安堵しました。誰かに言いつけるようなことをしないでいてくれると思えたからです。


「あなたには以前のお礼を述べたいと思っておりました。会えて僥倖ではございますが、その、私がここに来たことは内密に願います。こんな時に本を読んでいるなんて不謹慎でしょう?」


 人死があった後ですから、朗らかに笑うものでもなく、私は控えめに表情を緩める程度に留めました。万はあまり表情を浮べないので、この時もそれほどの変化は見られませんでした。


「こんな時だからこそ書物を読むことで心を落ち着けたい場合もござりましょう。ですが、まだ事件は解決しておりませぬ。どうぞお気をつけくださりませ」


 言葉は淡々としたものですが、万が私を見る目つきに痛ましさが感じ取れました。殴られた痣に気づいたのでしょうか。


「ええ、ありがとうございます。――あの、あなたは恵嬪のことをどう考えているのでしょう? やはり野犬か何かだと?」


 陛下のことは誰にも話せないと思っておりました。けれど、恵嬪に関しては違います。このふたつを結びつける人は私の他にはいないのでしょう。


 相談というほどではありませんが、私は万の意見を聞いてみたいと思いました。このような人物ならば、この宮廷を取り巻く異変に人一倍敏感なのではないかと。


 万は目を伏せて小さく嘆息しました。


「この国には古来、人知の及ばぬ存在がござります。もしそのような野犬がここに紛れ込んでいるだとすれば、それは人が退治できるものではないのやもしれませぬ」


 この者は何かを感じ取っていると私は思いました。けれど、これ以上踏み入ることはできませんでした。


「それでも、私は諦めることはしたくないのです」


 私は手にしていた本を閉じ、棚に戻しました。手が震えて、それすら手間取りました。


「御身をお大事に」


 万は拝礼し、背を向けて書庫から出ていきました。その後に私はもう一度その書を手に取って懐に忍ばせたのでございます。

 それからこっそりと戻ると、茶を淹れて戻ってきていた金児が青い顔をして私に泣いて縋りました。


「こんな時にどこへ行っていたしたのですか? 淑妃様が連れ去られたのかと思って、私も死んでしまおうかと」

「ごめんなさいね、金児。(へや)にじっとしていると息が詰まってしまって、少し散歩をしていただけなの」


 金児を泣かせてしまって申し訳なく思いましたが、私が手に入れた手がかりが役に立つのならばいいと願うしかありません。


 ――虎も、人に化けるのです。

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