➍雪月 ―セツゲツ―
悪夢のような夜が明けました。
私はずっと気を失ったふりを続け、陛下の姿をした何者かが房から出ていくのを待ちました。汗や体臭ですらおぞましく、息が詰まる思いでした。
心を空にして耐えていると、ようやく陛下ではないあの者が衣擦れの音を立てながら起き上がり、靴を鳴らして房を出ていったのです。
恐る恐るまぶたを開くと、その途端に涙が溢れ出ました。
満身創痍の私はやっと解放されたのです。
その後は、行きはあんなにも丁重に扱われていたのに、帰りは雑なものです。衣を着せて房へ連れ帰ってくれた宦官は私と目を合わせないように前を見据えていました。
陛下の手前、私の体を労わるようなことは言えぬのでしょう。
私は戻るなり、房に置かれた鏡から目を背けつつ、机の引き出しを開けました。そこに仕舞ってある小刀を衝動的につかみ取ったのです。研ぎ澄まされた刀身を首に当てがい、握り締めました。
「っ……」
お慕いしていた陛下が化け物にとって代わられてしまったのです。
私の心はもう、これ以上の苦痛には耐えられそうもありません。それなのに、魂は死という安楽を引き寄せてはくれませんでした。
まだ生きろと、私に訴えかけるのです。
陛下が以前の陛下ではないと気づいている者はどれくらいいるのでしょう。
もしそれが私だけなのだとしたら、その私が死んでこれからどうなるのか、それを考えろと自分自身が迫るのです。
本当に、本物の陛下は戦でお亡くなりになったのでしょうか。そうして、何者かが陛下に成りすましているのでしょうか。
それとも、陛下のあのお体は本物で、怪異に憑りつかれているのでしょうか。
このどちらかであるとしたら、前者と後者ではまるで違います。
前者であれば、陛下はもうこの世におられないのです。これ以上の悲劇はありません。
けれど、もし陛下が何かに憑りつかれているのだとしたら、祓わなくてはなりません。それは、この異変に気づいている者にしかできないことです。
私が苦痛から目を背けたいがために自死を選んだ場合、それが陛下を見殺しにすることに繋がるのかもしれません。
そう考えた時、私の手から力が抜け、小刀は床に落ちていました。
それが私の選んだ答えなのです。
まずは事実を知ることから始めなくてはならないのでしょう。
夜な夜な、あの者が私のもとへやってきて昨晩のような乱暴を働くのだと考えると、恐ろしくて体が震えます。
私が賢妃様のように正気を失う時もそう遠くないでしょう。
私に残された時はあまりに少ないのです。心と体が保てなくなる前に、あの者を暴く手段を探さねばなりません。
それでも、私は、ほんの少しの希望を持ち始めていました。
本当の陛下が変貌されたのではないのなら、その憑き物が落ちた場合に以前の陛下を取り戻すことができるかもしれないと。
陛下がお亡くなりになっているという仮説が事実だとしたら、私の希望は打ち砕かれてしまうのに。
そんな期待をしてしまうのは、希望がないととても動き出すことができなかったからでしょう。
陛下ではない化け物に体を汚され、それでも生きていかねばならないのですから、絶望ばかりでは歩めません。
私は、お優しかった陛下のことだけを思い出し、まぶたの裏に繋ぎ止めました。
そして、決意を込めて、先ほどは目を背けた鏡を覗き込みました。
首には指の跡が残り、顔には赤紫色の痣が口元と目の辺りに浮いていてひどいものです。
けれど私は、陛下のために戦うと決めました。美しく飾るのではなく、この時、傷だらけでも前を向いた自分をいつか誇れるでしょうか。
朝になって部屋に入ってきた金児は、私の痣を見て息を呑み、それから涙を零していました。
けれど私は、そんな金児を前にして、かえって冷静でいられたようです。
「今日は書庫へ行きたいの。痣が目立たないようにお化粧をして頂戴」
微笑んで告げると、金児は涙を拭いてうなずきました。
「は、はい。その、お体の具合はいかがでしょう?」
「平気よ。ありがとう」
本当は体が重く、痛みはいつまでも引きません。それでも、書庫へ行って調べものがしたかったのです。這ってでも行かねばなりません。
古来、人に化ける、憑りつくものと言ったらなんなのでしょう。
そうした化け物が嫌うものを調べ上げなくてはと。
今の私が頼れるものは書物しかございませんでした。
怪異といえば私が知るだけでも、狐狸妖怪、色々とあります。
ただ、相手は皇帝陛下です。戦時中とはいえ、陛下の身辺は護られていたはずです。それを掻い潜って陛下に近づいたのならば、少なくとも低俗な存在ではないのでしょう。
まずは怪異の正体を突き止める、それが最優先にすべきことです。
ちなみに、賢妃様のように正気を失った場合、廃妃となるのでしょうか。
この後宮の頂点であった賢妃様が失脚され、勢力図が塗り替えられます。
朝からどこか騒がしいと感じたのはそのせいだろうと私は考えていました。
けれど、そうではなく、どうやらこの後宮で人死があったというのです。
頓死と言うにはあまりにも生々しい、夥しい血が流れた死であったとのことです。
死んだのは、恵嬪という、上から数えて十本の指から零れる品秩(階位)の女人。
まるで獣に襲われた爪痕ような傷は、あまりに不吉でした。
これは誰の仕業であるのか。私が思い浮かべた相手は、言うまでもありません。
惨たらしく、人の所業ではないと言われるのならば、それは人が行ったことではなかったのでしょうから。




