④Eilidh ―エイリッド― ⑶
「お嬢さん、どうした? どこか痛むのか?」
その涼やかな声の主は、彫刻のように均整の取れた青年だった。グレーのスーツがよく似合う、黒髪の。
淡い緑の目も優しげな顔立ちも、昔の面影を十分に保ちながら美しく完成されたと言っていい。
「……サイラス?」
呼びかけると、彼は肩をピクリと震わせた。そして、少し癖のある魅力的な微笑を浮べる。
この表情は子供の頃に別れたサイラスらしくはなかった。大人になってから身に着けたものだろう。
「もしかして――エイリッドか?」
覚えていてくれた。
この瞬間にエイリッドは痛みと不安とを忘れて歓喜に浸った。転んだ痛みでも出なかった涙が、嬉しさのあまり滲んでくる。
「うん! ああよかった、サイラスなのね?」
ん、とサイラスは小さくうなずいた。成長して、あの頃ほど無邪気に感情を見せてくれることはなくなったのは当然だろうか。
それでも、エイリッドは一方的に喜びを爆発させていた。
「サイラスにはまた会えるって信じていたけど、九年もかかるなんて思わなかったわ!」
会いに来てくれなかったことを責めているつもりではないのだが、なんとなくサイラスの視線が泳いだ。エイリッドの勢いに押されたようでもある。
サイラスはエイリッドほどこの再会を喜んでいないのかもしれない。それに気づいて少しがっかりしたのも事実だが、サイラスも忙しかったのだと思い直す。
「そのうちに会いに行こうとは思っていたんだ。エイリッドがそんなに会いたいと思ってくれていたのは嬉しいな」
取り繕うように、綺麗な笑顔を今更浮かべる。社交辞令だなと嫌でもわかった。
「嘘。ちっとも嬉しそうじゃない」
子供の時の関係のまま、つい本音を口にしてしまう。そうしたら、サイラスは気まずそうに首を振った。
「そんなこと言ったって、戸惑うに決まってるだろ。自分の恰好考えてみろよ。こんなところに転がっている女に再会を喜ばれても、どう返事していいか。お転婆も大概にしろよ」
ぐっ、と言葉に詰まった。
車輪にスカートが絡まり、そのせいで捲れ上がっている。下にズボンを穿いているとはいえ、目を逸らす理由としては十分だ。
「これには、その、事情があって……」
エイリッドがなんとかスカートを車輪から外そうと奮闘していると、サイラスは急に笑い出した。ここ最近のサイラスは、ちょっと皮肉で、これが普通なのだろうか。
「どんな事情があったらこんなところで転がるんだ?」
「じ、自転車を漕いでいたら道に迷ったの」
あなたに会いに行こうとしたとは言えなかった。もっと笑われてしまいそうだ。
「せっかく美人に成長したのに、傷でもついたらどうするんだ?」
サラリと言われて、赤面する間もなかった。なんて女性を褒め慣れているんだろう。
サイラスはエイリッドの記憶の中より、容姿ばかりでなく言動も男らしくなっていた。嫌だということはないが、今度はエイリッドの方が戸惑って目を瞬かせた。
「触ってもいいか?」
そう断ってからサイラスは膝を突いた。エイリッドはうなずく。
力任せにサイラスはエイリッドのスカートを引っ張り、裾を車輪から抜き取るのに協力してくれた。
ただし、ビッと生地が裂ける嫌な音がしたのと、油汚れがついたのはもうどうしようもない。
「ありがとう」
礼を言うと、サイラスはじっとエイリッドを見つめた。エイリッドが困惑するほど長く見つめてくる。エイリッドがドキドキと意識してしまうと、急にニコッと作り笑いをされた。
「どういたしまして」
落ち着かない気分になって、エイリッドはぶつけた箇所を確かめた。骨が折れたり捻挫したりというような怪我はないようだ。そのことにほっとする。
ほっとしたら、意識させられたのがなんとなく腹立たしくなった。
「あなたは背が伸びたわね。可愛げも、ちょっとなくなったかも」
憎まれ口を叩いてみるが、それは嬉しさと照れ臭さ、寂しさの裏返しではあった。
サイラスは確かに、年頃の娘が浮かれるほど素敵に成長していた。それなのに、エイリッドにはそれほど重きを置いていない。
きっと飽きるほど、エイリッドよりもっと美人な女性たちに囲まれているのだ。
嬉しくて、やっぱり寂しい。
サイラスはクク、と声を立てて笑う。
「この年でまだ可愛かったら困るだろ。まあ、誰かさんはいい年をして迷子になるみたいだけど」
むぅ、とエイリッドはむくれかけたが、子供っぽいと気づいてすぐに表情を改めた。
サイラスの笑い声は耳に心地いい。だから本気で怒ったりはしていないけれど。
白手袋の手が差し出され、気づくと極上の微笑が向けられている。
「じゃあ、お送りしましょうか、レディ・エイリッド?」
どこかからかうような響きだった。
「送ってくださるの?」
「女性の一人歩きはよくないな」
「歩いていたわけじゃないけれど」
エイリッドはその手につかまる。引っ張り上げてくれた手は、やはり若い男性だけあって力強い。
「その自転車で転んだのは誰だ?」
と、サイラスはエイリッドの自転車のハンドルを持って片手で自転車を起こした。
さすがに恥ずかしくて言い返せなかった。
「お嬢様が考えるよりも世の中は物騒なんだから、気をつけた方がいい」
「そんなこと――」
わかっているつもりだと言いかけたが、そうでもなかったのかもしれない。
あの目のような光は危険なものではなかっただろうか。
エイリッドが固まっていると、サイラスは体を屈めてエイリッドの顔を覗き込んでいた。
「どうした?」
妙に顔が近い。いくら幼馴染でも久々に再会した女性に対する距離の取り方ではない。自分が紳士だという自負があるのならば。
それでも、サイラスは昔の名残を留めた端整な顔でふわりと笑いかけている。
「……あなた、すべての女性が自分には好意的だって思っているのね」
「まあ、概ね好意的だと思ってる。エイリッドも俺に会いたかったみたいだし」
悪びれもせず答えられた。
「会いたかったけど、思ってたのと違うわ」
あのサイラスが成長したら、それは誠実な好青年に育っていると思っていた。それなのに、目の前にいるサイラスは美青年ではあるが軽薄だ。
思っていたのと違う、というひと言に、サイラスの顔から表情が消えた。そんなことは言われたくなかったのかもしれない。
「期待に沿えなくて悪かったな。エイリッドの中身は昔のままみたいだけど」
「あら、わたしのどこが成長してないっていうの?」
「すぐ顔に出るところ」
顔を摩って確かめていると、やはりクスクスと笑われてしまった。
性格が少しばかり意地悪くなったけれど、笑っているとやはりサイラスだと思える。あの可愛かったサイラスが、と残念な気持ちも湧くけれど。




