➌雪月 ―セツゲツ―
その夕べ。
私のもとに報せが届きました。
「陛下が――」
陛下が私の名を記した緑頭牌を裏返し、指名されたと。
私はもう、陛下を見送った時ほど稚い子供ではございません。陛下の妃として共に夜を過ごすのです。
胸が痛いほど疼きました。
不安はありましたが、それ以上の喜びがあったと言うべきでしょうか。
数多の女人の中から私をお選びくださったのです。
ただ、その喜びに水を差すのは、賢妃様のことでございました。
侍女が取り乱していたほどのご不調のため、陛下は賢妃様をお召しになることができないのです。それ故に私が幸されることになったのですから。
苦しんでおられる方がいると思うと複雑ではあります。それでも、陛下に見向きもされないままこの後宮に埋もれるよりは、ただの一度でも私に触れて頂きたいと願ってしまうのです。
恋焦がれた陛下が、ひと晩だけでも私と過ごしてくださる、それだけで私は報われたような気持ちでおりました。
本当に愚かしくて、後になってこの時の自分を笑う気力も湧かなくなるのですが。
金児は宮人に指示をしながら私の湯浴みをいつもより丹念に行ってくれました。ただし、その顔は晴れません。
本来であればこんなにも喜ばしいことはないはずなのに、やはり賢妃様の侍女の様子が気がかりなのでしょう。
何かを言いかけてはやめ、そうしてすぐに時は過ぎていくのでした。
私は羽毛の衣だけを身に着けて赤絹に包まれ、閨事監太監に連れられていきました。この時、太監は宦官らしい独特の高い声で私の顔を見ずに言いました。
「本来でしたらお時間が来るとお声がけをさせて頂く決まりでございましたが、陛下がひどくお怒りになられまして、今はお声がけをやめさせて頂いております」
それがどういうことなのか、この時の私にはよくわかりませんでした。
あのお優しい陛下がお怒りになるところは想像しづらく、どんな仔細があるのかも、それが私にどのような影響をもたらすのかも、何もかも不明のままだったのです。
「でしたら、私はいつ辞すればよいのでしょう?」
陛下がお眠りになった時に勝手に出ていくものなのでしょうか。その辺りの作法を知りません。
太監は、やはり私を見ずに答えました。
「陛下が御身からお放しになった時でしょうか」
「わかりました」
中は暗く、明りが灯っておりませんでした。外から漏れてくる僅かな光の仄明るさだけ私は広い房を歩かなくてはなりませんでした。戸が閉められる音が背後から聞こえ、心細さが一層募ります。
けれどこの先に陛下がおわすのだと、私は自らを奮い立たせて進みました。
大きな寝台の縁に陛下が座しておいでのような気配がありました。次第に目が慣れてくると、陛下に間違いございませんでした。
ただ、陛下は戦帰りのためか、以前のような優美さを抜き取り、猛々しさだけを残したとでも言うべきご様子でした。
それでも陛下に間違いございません。私は嬉しさで胸が張り裂けそうでした。
寝台の前に額づき、感極まりながら申し上げたのです。
「ずっとお待ち申し上げておりました。こうして再び陛下がお戻りくださいまして、私は――」
この時、不意に舌打ちのような音が聞こえたのです。
そして、陛下は立ち上がられました。大股で私の方へ近づいてこられたかと思うと、そのまま私の髪を鷲づかみにされたのです。
引き攣れる痛みと驚嘆で私は言葉の続きを失いました。それでも、陛下はそのまま私を寝台へ叩きつけるようにして放りました。
私を見下ろしたまま、陛下は低く唸るようなお声で短くおっしゃったのです。
「くだらぬ前置きは不要だ」
その目の奥には嗜虐心が表れていました。弱い小さな獲物を狩る喜びです。
「あの女は壊れた。お前は精々長く持てよ」
先ほど私の髪をつかんだ手が、今度は私の頭を寝台に押さえつけました。首が抜けそうなほどの力でした。
繊細な布地が小さな音を立てて破れたのを皮切りに、私は、初めて陛下に、男性に体を開きました。
けれどそれは、ただただおぞましい夜でしかなかったのです。
あの晩の私は、自分が人間であることを忘れてしまいそうでした。
父が亡くなった後の実家でさえ、冷遇されていようとも、私はまだ人として扱われていました。けれどこの晩は、猫にいたぶられる鼠のようなものでした。
苦痛に呻けば殴られ、気を失うほど首を締められ、体中で声にならない悲鳴を上げました。本当にしばらくの間は気を失っていて、その間だけが苦しみから解放されていたと言えるでしょう。
これが高貴な御方のなさりようでしょうか。明らかに弱い相手を殴り、痛めつけ、愉悦に浸っているのです。
私が焦がれた陛下はまるで獣のようでした。
あの知性、優しさがこうも失われてしまうものなのでしょうか。
私はもう、考えることをやめてしまおうとしました。考えるだけ虚しく、つらいことだからです。
陛下の指や歯が私の肌に食い込み、傷をつけていくのにひたすら耐えておりました。
けれど、私は涙でぼやけた目を一度だけ薄く開いたのです。何も見たくなかったというのに、何を期待していたのでしょう。
どうせ暗くて何も見えないはずでした。
ところが、闇の中に小さな光がふたつ浮かび上がっていたのです。それが私に覆い被さっている陛下の目なのだと気づいた時、私は再び気を失いました。
まさかと思うような疑惑だけが私の中に残りました。
これは、陛下ではなく、陛下に化けた何かだと。
それなら、本物の陛下はどこにおいでなのでしょう。
本物の陛下は戦で散り、この陛下に化けた何かが陛下のふりをして凱旋したのです。
このままでは、この国はこの化け物に食い荒らされてしまうのでしょう。
この事実を誰にどう伝えればよいものか。何かを成すには、私はあまりにも無力でした。




