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 夢から醒めるまで、二人はたくさんの話をしました。子犬の飼い主を探すために、家族のことをたくさん聞きました。しかし、その度に淋しそうに目を潤ませる子犬に、どうにか笑ってほしくて、桜の精は丘で起こった様々なことを面白おかしく話してやりました。

 子犬は桜の精の話に興味津々で、とりわけ、春の満開になった桜の話を何度も聞きたがりました。子犬は今まで、桜を見たことがなかったのです。


「僕の歌声に合わせて、鳥達も一緒に歌ってくれるんだ。その声を聞くと、僕も嬉しくなってどんどん花が開いていって……あたり一面、桜の花びらで覆われるんだ。桜の花はね、薄らピンク色を帯びた白い色で、とってもやさしい香りがするんだよ。風に舞うとひらひらと落ちていって、今度は地面を彩るんだ」


 桜の精はその光景を思い出して、うっとりと微笑みました。春は桜にとって大切な季節です。その光景が大好きで、桜はついつい長く歌い過ぎてしまったのです。

 子犬は桜の話に目を輝かせていましたが、瞼は眠そうに重たくなってくっついてしまいそうです。それでも懸命に目を開けようとする子犬に気づいた桜の精は、優しく声をかけました。


「眠たい?寝て良いんだよ」


 桜の精が頭を撫でてやると、子犬は力なさげに首を横に振ります。


「もっと、桜さんのお話聞きたい……」


 そうは言うものの、瞼はほとんどくっついています。そんな子犬の姿に桜の精はくすりと笑いました。


「大丈夫、またいつでもお話しするよ。今はゆっくりとお眠りなさい」


 桜の精はやさしい声で子守唄をうたってやります。その声に導かれるように、子犬はすぅすぅと深い眠りへつきました。どうか、この子が安心して眠れますように。そう歌に願いを込めて、桜の精は子犬の夢が醒めるまでずっと歌い続けました。


 翌る日も、そのまた次の日も、桜の精は毎晩、子犬の夢の中に現れては、ずっとそばにいて歌を歌ってやりました。子犬は桜の精がそばにいてくれることをとても喜び、夢の中で桜の精にしがみついて離れませんでした。


 しかし、桜の精には子犬の家族を探すと言う大事な約束があります。桜の精が人の夢の中を渡って探しに行けるのは、人々が寝静まった夜の間だけです。

 子犬が目覚めてからの数時間しか、ろくに家族探しをできませんでした。この子を一人にはできないと、家族探しに本腰を入れられないことに理由をつける桜の精ですが、どんなに言い訳を重ねだって、自身の本当の気持ちはとっくにわかっていました。


 桜の精は子犬との生活が楽しくて、子犬の家族が見つかって別れてしまうのが寂しかったのです。早く子犬の家族を探さないといけないことはわかっていました。でも、名残惜しくて、あと一日だけ、もう少しだけ……と、子犬のそばを離れられずにいるのです。


 しかし、二人に残された時間はわずかとなっていたのです。


 迷子になって数週間が経ち、子犬はどんどん衰弱していったのです。そんな子犬の体に、冬の厳しい寒さが突き刺さります。そして、とうとう子犬は高熱に侵されてしまいます。

 その様子に驚き、慌てて子犬を覗き込む桜の精ですが、子犬の声が胸に突き刺さりました。


ーーーくぅん……


 苦しいよ……助けて……。

 子犬の苦しそうな姿に、桜の精はようやく、自分の犯した過ちを知りました。自分が寂しいからと、こんなに傷だらけで、何日もろくにご飯食べられていないこんな状態の子犬を、放っておいたのは桜の精です。寂しさを理由に、現実から目を背けていたのです。


「本当にごめんなさい……!僕が絶対、君の家族を連れてくるから……!」


 桜の精はそう言うと、丘の上を飛び出しました。

 なんとしてでも、子犬の家族を探し出さなければ。桜の精は必死です。手当たり次第、たくさんの人の夢の中に潜り込み、子犬の家族を探しました。


 この人じゃない……。あの人でもない。今度こそ……。


 村中、全ての人の夢の中に潜っても、子犬の飼い主は見つかりません。日はとうに登ってしまっています。もう寝ている人はいないでしょう……。


 早く、あの子の家族を見つけないといけないのに……!もし、あの子が死んでしまったらどうしよう……!


 はらり、と目の前に桜の花びらが落ちた気がしました。

 見上げた桜の精は悲しみにも似た絶望を感じました。桜の精が見たものは桜の花びらではなく、大粒の雪でした。雪は瞬く間に視界を白に染めていきました。


 冷えた空気は桜の精の心までをも凍らせていくようでした。きっと、雪はすぐに積もって丘を真っ白に染まるでしょう。そうなれば、丘の上にいる子犬はどうなってしまうのでしょうか?凍てつくような寒さは、弱りきった子犬にとって致命傷となるでしょう。桜の精は絶望して崩れ落ちそうになります。心が折れかけた、その時、一台の車が桜の精の前を横切りました。


 夫婦らしき大人が運転する車の後部座席に、小さな子どもが泣き疲れたのか、目を真っ赤にさせてすぅすぅと眠っていました。

 あの子が何か知ってるかもしれない。桜の精は最後の望みをかけて、その子の夢の中に潜り込みました。


 くすん……くすん……。


 夢の中に入ると、真っ暗闇の中女の子の啜り泣く声が聞こえてきました。桜の精は目を凝らしながら、ゆっくりとその子に近づき声をかけます。


「ねぇ、どうしたの?」


 あまりにも悲しそうなその子の様子に、桜の精は思わずそう口にしていました。ゆっくりしている時間はないのに。焦る桜の精に、顔をあげた少女は目に涙をいっぱいに浮かべて訴えます。


「あのね、シロがいなくなっちゃったの……!もうおうちに帰るのに……。シロどこにいったの……?シロ……」


 それって、もしかして……!


「ねぇ、そのシロってこれくらいの小さな犬のこと?」


「っ!!お兄ちゃん、シロのこと知ってるの?」


 桜の精の言葉に、食い気味に答えた少女の顔がパッと光り輝きます。間違いない、この子だ。桜の精は少女に、うん、と大きく頷きました。


「この丘の上で君のことを待ってる!ほら、早く夢から覚めて!あの子を迎えにきてあげて」


 桜の精はそう言うと、パンっと手のひらを叩いて鳴らしました。その音が刺激になり、少女の夢の世界が崩れて行きます。きっと、すぐに少女は目を覚ますでしょう。


 やっと、みつけた……。


 桜の精はその少女に望みを託し、すぐさま丘の上に戻りました。桜の精が熱で朦朧とする子犬の前に降り立つと、子犬は不思議そうに目を開けました。

 子犬が不思議がるのも無理はありません。現実の世界で顔を合わすのは初めてでしたから。夢の中では子犬を抱きしめてやれましたが、今の桜の精では子犬に触れることもできません。

 それでも、子犬の苦しみを取り除いてやりたくて、その背中をなぞるように優しく撫でてやりました。


 お願い、早く来て……。


 桜の精の思いが通じたのか、枯れ葉を踏み締める足音が聞こえてきました。


「ゆめか、本当にここにいるのかい?」


「本当だもん!綺麗なお兄さんが教えてくれたんだもん!」


「シロー?どこにいるの?」


 あの少女です。両親を連れて、ちゃんとシロを迎えにやってきてくれたのです。


 桜の精が自身の枝葉を微かに揺らします。

 

 枝の揺れる音に顔をあげた少女の目が、幹の間にいる子犬の姿を捉えました。


「シロー!!」


 少女の声を皮切りに、皆がシロ、と叫びながら丘を駆け上がってきます。


「シロ!よかった……!」


 ワンワン泣きながらシロを胸に抱き抱えます。そして、後ろから駆けつけたお母さんが急いでマフラーをシロに巻いてやりました。家族の存在に気づいたシロが嬉しそうに尻尾を振ります。


「本当によかったわ……!」


「ひどい熱だ。すぐに病院に連れて行こう」


 お父さんもシロを撫でてやりながら、ほっとやさしい笑みを浮かべます。やっと、離れ離れになった家族が、元通りぴったりとくっつくことができたのです。


ーーーよかったね。


 桜の精は遠ざかって行く子犬の顔を、その瞳に焼き付けようと、静かに見守ります。安堵と幸福の入り混じったその顔は、とても輝いて見えました。


ーーーバイバイ。


 桜の精の心の声が聞こえたのでしょうか。急に子犬が、くぅーんと声をあげて泣きだします。


「シロ、どうしたの?どこか痛いの?」


 少女は慌てて子犬の顔を覗き込みます。子犬の目は、しっかりと桜の精をとらえていました。


 ああ、君は僕のことを案じてくれるのかい?


 桜の精の胸に、熱いものが込み上げてきます。

 優しい子犬は、寂しい時、辛い時にそばにいてくれた桜の精の姿を探していたのです。


 こんなに身勝手な僕のことを?


 桜の精は優しく微笑むと、胸にいっぱい空気を吸い込みました。そして、その口が軽く開かれた時、綺麗な音色が微風のように辺りを包み込みました。


 それは、桜の精の歌声です。


 まるで春の木漏れ日のように温かく、洗い立てのタオルに包まれたように優しいその音色は、桜が春に歌う開花の歌でした。


 安心してお行きなさい。大丈夫。僕はずっとここから見守ってるよ。


 その歌声は、しっかりと、子犬の耳にも届きました。夢の中で聞いていた、優しい歌声に子犬の心は凪いでいきます。


「ねぇ!パパ、ママ!あれ見て!」


 少女が桜の精を指差します。


「わぁ……桜だ……」


 そこにはほんの一房、桜の花が咲いていました。


「狂咲かな?綺麗ね……」


「シロは桜が見たくてここにいたのかな?」


 少女の胸の中に包まれたシロが、まっすぐに桜の花を見上げました。その目が、嬉しそうに笑ったような気がしました。

 

 シロと、その家族が丘を下り、その姿が見えなくなっても、桜の精は歌い続けました。その声の続く限り、桜の精は子犬の幸福を祈って歌い続けました。


 そして、春の女神様が到着した頃にはもう、桜の精は力尽き、眠ってしまっていました。とても、優しい穏やかな顔でした。


「桜の精、よくがんばりましたね」


 春の女神様が、横たわった桜の精を優しく抱き上げてやりました。


「あなたに力を戻してやれなくて、ごめんなさい」


 女神様の瞳から、一粒の涙が桜の木に落ちました。すると、たちまち、桜の木は淡く光り輝きます。


「私から最期の手向です。さようなら、私の愛しい子」


 数枚だった桜の花が瞬く間に、一面に咲き誇ります。光をまとった真っ白な花が、眠った桜の精を包み込むように優しくゆらめきます。


 それはまるで、夢のような、とても美しい光景でした。


 その冬以降、桜の木が咲くことはありませんでした。しかし、その桜の木はいつまでも、村人達に語り継がれて行きました。この世で1番、美しい桜の木として。


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