中
そんなある日のこと。桜の精がいつものように草花の夢の中にお邪魔していると、不思議な噂話を耳にしました。
「迷い子?」
それはこの辺りをひとりで彷徨っている、子犬の話でした。紅葉さんは心配そうに眉を寄せます。
「首輪をしていたから、はぐれてしまったのだと思うわ……。それにしても、もうだいぶ寒くなってきたでしょ?だから心配で……」
季節はいつのまにか、秋も終わり冬に差し掛かろうとしていました。
こんなに寒い中、ひとりぼっちだなんて……。桜の精はその子犬のことが心配でたまりませんでした。ひとりぼっちの心細さを、桜の精はよく知っていましたから。
「僕、その子を探してくる!」
桜の精はそう言うと、紅葉さんに教えてもらった子犬の夢を探し始めました。
世の中にはたくさんの子犬がいるものですから、なかなかひとりぼっちの子犬を見つけることができません。
「そういえば、昨日丘の麓で見たよ」
幾度も夢の中に入り、訪ねて回っていると、黒い大きな犬が桜の精に教えてくれました。その子犬は、桜の精のいるこの丘の麓にいるというではないですか。
桜の木のある丘の中ならば、桜の精は自分で見に行くことができます。早速、桜の精は子犬を探しに出かけました。
声を出せないものですから、桜の精は慎重に目を凝らして木々の間や草むらを探します。すると、大きな切り株の横に、小さく丸まって凍えている子犬を見つけました。
首に赤い首輪をつけた、ふわふわの小さな子犬は泥まみれで所々、かすり傷のようなものがありました。桜の精は一目見て、紅葉さんに聞いていた子犬だとすぐにわかりました。
桜の精は願いました。この子の夢の中に入らせてください。
するとすぐに景色が変わり、真っ暗で何も見えない闇の中でした。そして、その真ん中で子犬はひとりぼっちで、しくしくと涙を流していました。子犬は夢の中でも迷子のままだったのです。その何とも可哀想な姿に、桜の精は胸が張り裂けそうでした。
「どうしたの?大丈夫?」
桜の精が慌てて駆け寄ると、子犬は目に涙をいっぱいにためた顔を上げました。
「あなたはだあれ?」
子犬の問いかけに桜の精はにっこりと微笑みました。
「僕はこの丘のてっぺんにいる桜の木だよ。それよりも、君のことが心配だ。家族と離れてしまったの?」
桜の精の問いかけに子犬はポロポロと涙を流します。
「きれいなちょうちょを追いかけてたら、知らない場所に来てしまったの……。ともちゃんはどこにいるの?帰りたいよ……」
桜の精は慌てて子犬の背中を撫でてやります。やはり迷子のようです。桜の精はこの子の力になってやりたくて、仕方ありません。
「大丈夫、僕が見つけてあげるよ!ともちゃんって子を探して、見つけたら君を迎えに来てもらうように頼んであげる」
桜の精の言葉に、子犬は涙で濡れた目を大きく見開き、桜の精を見上げます。
「ほんとう?」
「本当さ。だから、心配しなくていいよ」
子犬は安堵からなのでしょう、またポロポロと涙を流しながら「ありがとう」と桜の精に抱きつきます。
「すっかり冷えてしまったね。まずは温かい場所でゆっくりと休もう」
桜の精は子犬をぎゅっと優しく抱きしめてやりました。夢の中だと言うのにその体は冷たく、体もボロボロです。夢の中でもそんな姿になるくらい、この子犬はずっと1人で彷徨っていたのだと思うと、可哀想で胸が苦しくなります。
「いいかい、夢から醒めたらこの丘の、1番上を目指して登っておいで。太陽の方を目指して、まっすぐ進むんだよ。
そうしたら、平たい丘の上に桜の木が一本生えてるからね。それが僕の木だよ。木の根元に小さな穴があるから、そこに入るといいよ。ここよりも、ずっと温かいからね。
ちゃんと辿り着けるように、丘のみんなにお願いしておくからね。心配しなくていいよ。」
桜の精は子犬がきちんと理解できるように、反応を見ながらゆっくりと話して聞かせました。子犬は夢から醒めたら1人で桜の木を目指していかなければなりません。そのことが不安で、桜の精は夢が醒めるまで、何度も同じことを話して聞かせました。
子犬は桜の精の言葉に耳を傾けながら、その優しい声音に安心感しました。桜の精の声は、とても柔らかで温かく、寂しかった子犬の心を埋めていってくれました。そして、ひとりぼっちで心細かった子犬は、やっと安心して眠りにつくことができました。
子犬が夢の世界がとけていき、景色が歪んでいきます。そろそろお目覚めの時間です。
桜の精は慌てて子犬の夢の中を出ていくと、今度は丘に住む花や木々、鳥達の夢の中に入り込み、子犬が桜の木に無事に着けるように皆にお願いして回りました。
丘の植物や動物達は、いつも優しい歌を歌ってくれる桜の精のことが大好きでしたから、桜の精のお願いに皆快く応えてくれました。
すっかりと、夜が明けて太陽が天高く昇ります。昼の時間がやってきました。
桜の精は心配で、とても1人で丘の上で待つことはできそうにありません。それならば、無事に着けるように見守ることにしようと、こっそりと子犬の跡をつけることにしました。
子犬を前にしてしまうと、つい声を出してしまいそうでしたので、あくまでも見つからないように、こっそりと子犬を見守りました。
子犬は夢から目醒めると、不思議そうに辺りをキョロキョロと探して回りました。きっと、夢の中で見た桜の精のことを探しているのでしょう。
桜の精は心の中で「どうか、この子が無事に丘の上まで辿り着けますように」と願いました。
すると、その願いに応えるように足元の草花が、子犬の足を優しく押してやりました。子犬は突然の感覚に驚いたようですが、足を触られては地面から離し、また触られては離すを繰り返しているうちに、丘の頂上へと体が向かっていきました。
太陽を目指して、まっすぐ。その言葉を思い出したのか、子犬は顔を上げてまっすぐ空を見上げました。太陽はその柔らかな日差しで丘の頂上の方角を指し示します。
冷え切った身体が、太陽に照らされてポカポカと温まってきました。子犬は勢いよく、丘の上を目指して駆け上がっていきます。
木々の中に入ると、太陽の光が遮られてぐっと気温も下がったようです。早く丘の上に辿り着きたいのに、道標の太陽の光もろくに見えず、子犬の足取りに迷いが生じました。桜の精はハラハラと、どうしたものかと悩みました。
すると、そこへ待ってましたと言わんばかりに小鳥達が子犬のそばへと降り立ちました。そして、その愛らしい歌声でこっちだよ、と子犬を案内してやりました。小鳥達の助っ人に、桜の精はとても安心しました。
小鳥達に導かれて、子犬はようやく、丘のてっぺんにたどり着くことができました。子犬はもうくたくたです。ふらふらとした足取りで、大きな桜の木の下にやってくると、クーンと哀しげな声で泣き出しました。
ーーー桜さん、どこにいるの?
そのあまりにも哀しげな声に、桜の精は思わず飛び出そうになりました。ここにいるよ、そう言って抱きしめてやりたくて仕方ありません。
しかし、そうしてしまえばきっと声を出してしまいます。桜の精が消えてしまえば、この子の飼い主を探すことは叶いません。桜の精は出て行きたい気持ちをグッと堪えて、子犬が眠りにつくのを待ちました。
しばらく泣いていたあと、力尽きた子犬は夢の中で桜の精が教えてくれた穴の中に入りました。日はとっくに暮れて、木枯らしがピューピューと寒さを運んできました。桜の精が教えてくれた通り、穴の中はとてもあたたかく、その大きな幹に体を預けると子犬はウトウトしはじめました。
怪我を負った小さな体で懸命に丘の上まで登ってきて、とても疲れていたのでしょう。子犬はすぐに夢の中へとおちていきました。
子犬の夢の中は、まだ淋しげな暗闇の中で、先ほどと同じようにしくしくと涙を流しています。桜の精が慌てて駆け寄ると、子犬は「やっと会えた!」と声をあげながら、今度は安堵の涙を流しました。
「ずっと、探してたの……また会えてよかった」
桜の精は子犬を抱きしめて、「寂しい思いをさせてごめんね」と何度も謝りました。
仕方がなかったとはいえ、子犬を一人にしてしまったことに罪悪感を覚え、自分が桜の精であることを悔やみました。もし、実態を持つ存在ならば、すぐにでも駆けつけて現実の温もりで抱きしめてやりたかったのです。
子犬が泣き止んだのを見計らって、桜の精は自分が夢の中でしか会えないこと、そして、目には見えなくてもこの桜の木として子犬のすぐそばにいることを伝えました。
「僕はずっと、君のそばにいるからね。でも、目に見えないと不安だよね……」
落ち込む桜の精に向かって、子犬は懸命に首を横に振りました。
「そんなことない!この木下に来てから、すっごくあったかくて、心もポカポカした気がしたの。それって、君が近くにいたからだよね。ここに連れてきてくれてありがとう」
そう言うと、キラキラ光る眩しい笑顔を桜の精に向けました。その一言でどれほど報われたことでしょう。じーんと胸の奥が温かくなるような心地がしました。
歌を歌っている時とは違う喜びが、桜の精の心に芽生えたのです。