上
むかしむかし、とある小さな村の丘の上に若い立派な桜の木がありました。
桜の木には小さな精霊が宿っていて、桜の精は、その村に住む人が大好きで皆が喜ぶ顔を見ることが何よりも楽しみでした。なので、毎年たくさん歌を唄っては綺麗な桜の花を枝いっぱいに実らせて、皆を喜ばせていました。
桜の精は自分が唄えば、桜の花が咲くことを生まれながらに知っていました。なので、毎年、桜の花が散るのを残念そうに人々が嘆いているのを見て、来年はもう少し長く唄おう、そのまた次の年も、もっと長く唄おう、とどんどん桜の精の歌う時間が長くなっていきました。
気がつけば、3月終わりから5月の頭まで、長く唄い咲き続けた桜の木は、いつ枯れてもおかしくないほど力尽きていました。
自分の身がボロボロになろうと、人々を楽しませるために懸命に花を咲かせる桜の精のことを哀れに思った、春の女神様が言いました。
「桜の精霊よ、あなたに力をあげましょう。その代わり、来年の春まで一切声を出してはいけません。声を出してしまうと、私のまじないも解けて、あなたは枯れ木になってしまうでしょう」
桜の精は女神様に感謝しました。この一年我慢すれば、来年も、再来年もきっと沢山の歌を唄える。そして、綺麗な花で人々を楽しませることができる。桜の精は女神様との約束を必ず守ります、と誓いました。その日から、桜の精は決して声を出さぬよう、口を閉ざし黙って木の上から人々や動植物の暮らしを見守りました。
春が終わり、木々達が緑豊かに生い茂り、夏の訪れを告げ、そして、赤や黄色、そして茶色へと色を変えて行く。いつもなら、夏には日差しから逃げて一休みする人々のために微かなハミングを、木々の上で眠る小鳥やリス達には子守唄を、そして、秋には冬に備えて働く動物へ応援歌を。
どの季節にも何かしらの歌を贈っていたものですから、声を一切出さずに過ごすということが辛くて辛くて仕方ありません。
誰かと話したい、小鳥達と一緒に歌を歌ったり、人々の農業の歌に混ざりたい。ずっと、ひとりぼっちなのは寂しい。
生まれて初めての孤独を経験した桜の精は、心の中で女神様に泣きつきました。
女神様、1人って寂しいです。こんなにも辛いのですね。
声を殺して泣く桜の精の姿に心を痛めた女神様は、桜の精を抱きしめました。
「声は戻してあげられないのです、ごめんなさい……」
女神様は申し訳なさそうに桜の精の涙を拭いました。心の中でも、女神様とお話できたのが嬉しくて、桜の精はまたぽろぽろと涙を流しました。あまりにも哀れに思った女神様は、新しいまじないを桜の精にかけます。手から眩い光の粉が溢れ桜の木を包みます。
「代わりに皆の夢の中に遊びに行けるまじないをかけてあげましょう。夢の中でなら声を出しても問題ありませんから」
桜の精には眠るという行為はありませんから、夢の中というものがピンと来ませんでした。木の枝で眠る小鳥達と、話ができるということでしょうか。女神様は桜の精の疑問を感じ取り、こう続けました。
「あなたが話したいと思う誰かを念じるのです。人でも動物でも、会ったこともない存在でも構いません。わたしのまじないが、あなたをその人の夢の中まで連れて行ってくれますから」
そして、今、話したい誰かを思い浮かべてみなさい、と桜の精に訴えます。桜の精は少し悩んで、毎年桜の開花を楽しみにしてくれていたお婆さんを思い出しました。
あのおばあさんとお話ししたいな。
心の中でそう念じると、体がふわりと浮くのを感じました。桜の木から離れることはできないはずなのに、どんどんと丘の上から景色が遠ざかっていきます。なんということでしょう!あっという間に景色が移り変わり、気がつけば全く知らない畑の中にいました。そして、その中央には思い浮かべた、あのおばあさんがせっせと畑をたがやがしています。
あのおばあさんだ!
嬉しくなった桜の木はおばあさんに近づきます。手には大きなお芋を持っていました。
「大きなお芋!」
桜の木が驚いて声をかけると、おばあさんはにこやかに答えてくれました。
「立派だろう?私が育てたんだよ。あんた、ここら辺の子かい?掘るのを手伝っとくれ」
おばあさんはさつまいもを収穫する夢を見ていました。桜の精は見よう見まねでおばあさんの真似をします。夢の中ですから、なんの力も入りません。桜の精にも簡単に芋が掘れます。嬉しくなって、せっかく話せるようになったのも忘れて、桜の精はせっせと、おばあさんのお手伝いをします。
「上手だねぇ」
おばあさんはにこにこと桜の精を見守ります。桜の精は褒められていっそう嬉しくなり、夢中で芋をほります。その途中で、ふと、女神様の言葉を思い出し、はたと止まりました。
ここは夢の中なの……?
夢中になってて気づきませんでしたが、現実なら人と話すことも、野菜に触れることもできません。そもそも、桜の木から離れられないのですから、畑に来ることもできません。
全部、おばあさんの夢の中だからできたことです。
なんてすごい力なのでしょう。感動した桜の精は嬉しくなって、もっともっと皆と話がしたい、色んなことがしたいと心の中で願いました。
するとなんということでしょう、ぐんっとおばあさんの夢の世界から一気に引き離されていくではありませんか。おばあさんの畑がどんどん小さくなっていって、代わりに青色の世界がどんどん近づいてきます。
瞬きをする間に、桜の精は青空のような真っ青なお花畑に立っていました。風が爽やかに、優しく花たちを撫でて甘い香りが漂ってきます。
一体、ここはどこなのでしょう。桜の精は辺りを見渡しますが、人の気配はありません。
おかしいな、そう思った桜の精は足元で何やら小さな声がしていることに気がつきました。
「桜さん、こんにちは」
「こんにちは」
「久しぶり」
花が意思を持っているかのように、左に、右に、大きく各々に揺れて桜の木に話しかけてきます。
「もしかして、君たちはネモフィラさん?」
花たちは口々に正解といいながら、右に左に大きく揺れます。なんとここは、ネモフィラ達の夢の中なのです。
「なんでここにいるの?」
「どうしたの?」
「何かあったの?」
心配そうに問うネモフィラ達に、桜の精は春の女神様と出会ったこと、誰かの夢の中でお話できるようにしてもらったこと、おばあさんの夢の中に行ってきたこと……これまでのことを全て話しました。
桜の精の話を聞いて、ネモフィラ達は嬉しそうに体を揺らします。
「よかったね」
「桜さんが話さなくなっちゃって心配してた」
「お話しできるの嬉しい」
ネモフィラ達は言いました。今はネモフィラ達は花を咲かせ終わって、その身を休ませる時。夢の中で聞こえてきた、桜の精の子守唄が聞こえなくなったことを、ずっと気にかけていたのだと。
ネモフィラ達の思いを知り、桜の精は嬉しくて涙が出そうになりました。歌を唄わなくても、自分のことを気にかけてくれた存在がいる、そのことが桜の精にとって何よりも嬉しかったのです。
それから、桜の精は夜が明けるまでずっと、ネモフィラ達とおしゃべりをしました。すごく楽しくて、桜の精は夜が明けてしまうのが残念でなりませんでした。
夜が明けて、ネモフィラ達とお別れした桜の精は、静かな枝の上に座って、自分の身に起きたことを一つずつ振り返っていきました。春の女神様が下さった力は、とてつもないほど、素晴らしい力でした。
桜の精が願えば誰の夢の中でも遊びに行けて、その人の夢の中では桜の精も実態を持つことができて、なによりもたくさんお話しすることができる。これほどまでに幸せな能力はありませんでした。
桜の精はその日から、毎晩毎晩、いろんな人の夢の中へ遊びに行きました。いつも桜の木のある丘まで走りにくる男子学生さんや、いつも早起きのおじいさん、桜の木の下で毎年ピクニックを楽しみにしている幼い女の子、そして、遠くの街の木や、たくさんの花々、犬や猫……たくさんの夢の中で、桜の精はその素晴らしい笑い声を響かせました。桜の精は毎日が、それはそれは楽しくて仕方ありませんでした。