表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
<R15>15歳未満の方は移動してください。

番の巫女短編シリーズ

番の巫女3~伴侶としては慣れてきました/嫉妬って怖いんですね~

互いを夫婦と認め合う事はできるようになった15歳の少年少女、最後の物語です。

3作合わせると6万文字弱ですかね。

案外キャラを気に入っていたみたいです。

序盤に初の微ざまぁ要素がなくもない。積み重ねがないのであんまり「ざまぁ」っぽくないですけどね。












 ――春爛漫。その言葉が、春の風と共に空気に満ちていた。

 そんな季節の昼下がり、フォースト王立学院高等部の校庭で駆けまわる生徒たちの姿があった。



「今度こそ当てろよ!」


「任せとけ!」


「あら、さっきからそればっかりね。たまには有言実行してみたら?」



 布で出来た球を使った玉避け遊び――布球を投げ合って避け損ねたら退場する。最後まで退場せずに済んだ者が勝者というシンプルな遊びだった。

 今月に入って、一人の少女が持ち込んだ庶民の遊びだ。

 貴族子女ばかりが通うこの学院では物珍しく映り、瞬く間に男子たちの間に広まった。

 生徒たちは、いくつかのグループに分かれて遊びに興じていた。

 男子に混じって、女子の姿もちらほら見える。



 男子の投げつける球を制服のまま、スカートを翻して華麗に避けて見せる――赤い髪の少女は、この遊びが得意だった。


「ああくそっ! また外した!」


 退場者が控える外野に布球が渡り、再び赤い髪の少女が狙われる――赤い髪の少女は今度は布球を正面から受け止めて見せた。


「なんだよ! 避けるだけじゃなくて、受け止める事も出来るのかよ!」


 男子の驚愕の声に、赤い髪の少女は得意げに笑って見せる。


「あんな甘い球、受け止めてくださいと言ってるようなものよ?」


 赤い髪の少女が手首のスナップを利かせて男子最後の一人に鋭く球を投げつける――事前予測した弾道よりわずかに軌道がずれ、避け損ねた男子の背中に球が当たった。


 球を当てられた男子が心から悔しそうに地面を蹴った。


「くっそー、今日もリオが勝者かー」


 赤い髪の少女――リオが笑顔で応える。


「レオナルドも最後までよく粘ったわ。貴方は筋がいいわよ?」


 リオが最後まで残っていた男子――レオナルドの背中を勢いよく叩いた。


「いってぇ! そういう時までスナップ利かせなくていいんだよ!」


「あはは! ごめんね! ――そろそろ戻らないと昼休みが終わるわね。みんな、戻りましょうか!」





 リオを先頭に、数人の女子と多数の男子が群れを成して校庭から引き揚げて行く。

 そんなリオたちの前を、十人ほどの女子の集団が道を塞いだ。


「ちょっと貴方、誰だか知らないけれど、未婚の貴族子女がそうベタベタと異性に近付くのは破廉恥よ?! 恥を知りなさい!」


 集団の中で先頭付近に居た金髪の少女が顔をしかめてリオにけたたましく怒鳴りつけた。


 彼女の視線の先――そこには、親し気にリオの肩に乗せられたレオナルドの手がある。

 それをリオは確認してから、改めて怒鳴りつけてきた金髪の少女に顔を向け、小首を傾げた。


「貴方こそ誰かしら? 私は貴方のことを知らないのだけれど、会ったことある? もしかしてレオナルドの友達?」


 金髪の少女は更に興奮して声を荒げる。


「エルトロ侯爵子息であるレオナルド様を呼び捨てにするなど、貴方に常識と言うものはないのかしら?! とにかく! 今すぐその方から離れなさい! 身分違いという言葉すら知らないなんて、初等教育からやり直した方がよろしくてよ?!」


 リオは少女の言葉を無視してレオナルドに振り返り、尋ねる。


「ねぇレオナルド、あの子、貴方の知り合い?」


 レオナルドは肩をすくめ、目を瞑って首を横に振る。


「いーや、全く。顔も名前も知らん」


 リオの傍に居る生徒たちはニヤニヤと笑みを浮かべ、黙って状況を楽しんでいるようだ。

 その空気が更に癪に障ったのか、金髪の少女は顔を真っ赤にして絶句してしまった。


「――貴方は下がって。私が直接話を付けます」


 道を塞いでいた女子集団――その一番奥に控えていた女子生徒が、声を上げて最前列まで歩を進めた。

 艶やかな長い白金色の髪を縦巻きに巻き上げ、その双眸に強い矜持を湛えた少女が姿を現した。


 リオは赤い瞳を瞬かせ、前に出てきた少女に尋ねる。


「貴方も知らない人ね。誰かしら? ――レオナルド、知ってる?」


「あー……釣書で見た顔だな。確かアレンビスト公爵家のご息女だ。ヘレナ嬢だかエレナ嬢だか、確かそんな名だ」


 リオの顔が明るい笑顔に変わる。


「あら、レオナルドったら公爵家から釣書を貰うだなんて、隅に置けないわね!」


 再びリオのスナップが効いた掌がレオナルドの背中を叩き、レオナルドが悲鳴を上げる。


「いってぇっての! なんで背中を叩くのに毎回スナップ利かせるんだよお前は!」


 周囲で様子を楽しんでいる生徒たちは、その瞬間に少女のこめかみに青筋が浮いたのが確かに見えた。


 顔を引きつらせながら、少女が口を開く。


「失礼、レオナルド様。改めて自己紹介させて頂きますね。わたくし、アレンビスト公爵家息女のエレナと申します――そこの平民の女子生徒、レオナルド様からいい加減離れなさい。気安く触るのも止めて頂きたいの。お分かりかしら?」


 リオが周囲を見渡した後、小首を傾げた。


「平民の女子生徒? それ、もしかして私に言ってるのかしら? それとも別の子? ここにそんな子は居ないわよ? 貴方、何か勘違いしてない?」


 エレナがこめかみを引くつかせながらリオに告げる。


「貴方、まさか自分が貴族子女だと言い張るつもりかしら? 社交界で貴方のような子を見かけた覚えなんてなくてよ?」


 リオが赤い瞳を瞬かせ、小首を傾げて応える。


「いいえ? 私は”貴族子女”ではないわね。私のお父さんもお母さんも貴族ではなく、平民だもの」


「なら平民じゃない! なにが勘違いだと言うのか説明して欲しいわ! 平民風情がレオナルド様に近付くなど汚らわしいのよ!」


 勝手に興奮を増していくエレナを、リオはきょとんと眺めた。

 小首を傾げ、エレナに告げる。


「でも私は、平民ではないわよ?」


 貴族の作法プロトコルが通用しないリオに、エレナの我慢も限界を迎えようとしていた。

 顔を真っ赤にしてエレナは叫ぶ。


「じゃあ早く名乗りなさいよ! 普通、名乗られたら名乗り返すのが貴族の礼儀でしょう?!」


 リオがぽん、と手を叩いて笑顔に変わる。


「ああ、そういえばそう習ったわ! 学院でもそれはやらなきゃいけないのね。ごめんなさい、すぐに気が付かなくて――私はリオ・ウェラウルム第三王子妃よ! ……ねぇレオナルド、これで大丈夫だったかしら?」


 振り向いて確認を取るリオに、レオナルドは満面の笑みでウィンクを飛ばし、親指を立てて見せる。


「オッケー! 問題ない。ちっと気づくのが遅れたが、お前の方が格上だ。そのくらいは大した問題じゃないさ」


 リオの名乗りに呆気に取られたエレナが、躊躇いがちにリオに応える。


「――ごめんなさい、ちょっと耳の調子が悪いみたいなの。もう一度聞かせてもらえるかしら?」


 エレナに向き直ったリオが、再び笑顔で名前を告げる。


「私はリオ・ウェラウルム第三王子妃。ミルス・ウェラウルム第三王子の正室よ。王族だから、正確には貴族でもないわね。未婚子女でもないし、私がレオナルドに向ける態度に何か問題があったかな? 後学の為に教えてもらってもいい? ……えーと、アレンビスト公爵家のエレナさん、でしたっけ」


 外見も発言も所作も平民にしか見えないリオが王族だと名乗った――エレナは理解が追い付かず、思考が停止していた。

 呆然自失するエレナの傍で、取り巻きの女子が何かに気づいたように蒼褪め、慌ててエレナに耳打ちをする。


 『この子、つがいの巫女じゃないですか?! 噂のリオ・マーベリックって子!』


 その言葉で我に返り、ようやく理解に達したエレナが、思わず叫び声を上げた。


「――貴方、ミルス殿下のつがいの巫女なの?!」


 神に捧げられる成竜の儀という儀式が未だ現役で執り行われる、この古い国家内で最も権威ある王族。

 その中でも特に絶大な権威を持つ存在――それが王家直系の男子と、そのつがいの巫女だった。

 国内においてその存在は、他国における王族とは一線を画する。神の力を振るう彼らは、半ば神に近しい存在として敬われていた。

 エレナはようやく、目の前に居るリオの身分を正しく認識したのだ。


 リオは微笑みながらエレナの言葉を肯定する。


「ええ、そうよ? 先月この学院に編入したばかりだから、私の事を知らない人もまだ大勢いるみたい。本当はこういう時、私は王族として貴方たちの態度を戒めないといけないらしいんだけど、不敬とか堅苦しいのは不慣れだし苦手なの。私は今日の事を忘れるから、貴方たちも忘れて貰えるかな? ……ねぇ、私たち、そろそろ行ってもいい? 早く戻らないと、休み時間が終わってしまうわ」


 エレナは絶句したまま頷いた。


「よかった! じゃあみんな戻りましょう!」


 再びリオを先頭に球遊びをしていた集団がエレナたちを避け、校舎の中に消えていった。





 呆然とリオたちを見送った取り巻きの少女が、ぽつりと呟く。


「私たち、今いくつ不敬を働いたのかしら」


 厳罰を免れない範囲の不敬を働いた自覚が、彼女らには在った。

 正当な理由なく道を塞ぎ、罵り、怒鳴りつけ、最後は迂回させた。

 小さな家は取り潰しすらあり得る――そんな範囲だ。

 公爵家の中で上位に位置するアレンビスト公爵家も咎めなしでは済まない。

 このウェラウルム王国で最上級の権威を持つつがいの巫女は、”顔も名前も知らなかった”が通用する相手ではなかった。逆にそれ自体が不敬になる。

 これだけの不敬を働いた後ならば、リオの一言でエレナたちの命すら簡単に絶つことが出来る。それだけの発言力を持つのがつがいの巫女だった。

 理解が進むほど、少女たちの顔色が蒼褪めていった。


 別の取り巻きの少女が、不安を誤魔化すようにぽつりと呟く。


「……殿下が”忘れる”と仰ったのだから、きっと大丈夫よ」


 エレナは蒼褪めた顔を強張らせて、取り巻きの少女たちに告げる。


わたくしは名前を憶えられてしまったかも……気分が優れません。今日はもう早退致します」


 取り巻きの少女たちに支えられたエレナは、頼りない足取りでふらふらと校舎の中に消えていった。





****


 教室に戻ったリオの周囲は笑いに包まれていた。

 球遊び参加者の三割は級友たちだ。


「やっぱりエレナ嬢たちはリオの顔を知らなかったんだな」

「しょうがないわよ、リオは三月の途中で編入してきて、その後も半分は学院を休んでいたもの。中等部で同じ学級だった人でも、ほとんど面識がないはずよ」

「あの見世物は何度見ても面白いな。なんでああいう奴らは、みんな同じような反応になるんだろうな」

「リオもリオで、素であの対応だからたちが悪いよな」


 リオも小首を傾げて口を開く。


「学院内は王族を除いて原則として平等と教わったのに、なぜ身分をひけらかす人が後を絶たないのかな……不思議ね」


 レオナルドが笑みを浮かべて応える。


「身分を笠に着る貴族子女がそれだけ多いんだよ。リオみたいに、平民を含めた皆と対等の立場にしてくれと上から要求する奴はまず居ない。家格に矜持を持つ奴も少なくないしな」


 リオが憂鬱そうに溜息をついて応える。


「私は王宮で充分息苦しい思いをしてるから、学校でぐらいは平民の時と同じように対等で居られると喜んだのだけれど……あんな息苦しいものを好むだなんて、貴族って不思議な生き物なのね」


 レオナルドが大笑いしながらそれに応える。


「ははは! リオは元平民だから、そう思うのも仕方ないな――だが貴族社会は階級社会だ。階級を基準として社会が回るようになっている。その貴族の子供が親と同じ価値観を持つのは避けられん。そういう教育を受けるからな。リオは平民の価値観を持ったまま、その貴族社会の最上級の権威に収まっちまった。お前も大変そうだよな」


 リオが小首を傾げて呟く。


「私は別に学院で身分を隠してる訳じゃないのに、どうしてみんな私が第三王子妃だと気付かないのかしら?」


「高等部は中等部の繰り上がりが大半で、学級内で自己紹介をする機会もなかったしな。リオと球避け遊びで親しくなった人間以外には、学院内でもろくに顔が知られてない。リオはまだ社交界にも顔を出していないから、貴族社会で顔が売れてる訳でもない。”リオ・マーベリックが第三王子妃になった”という噂は有名だが、元平民だったリオの顔を知る人間が極端に少ないんだ。エレナ嬢のような目に遭った人間も、お前からの報復が怖くて口をつぐみ距離を取ろうとする。だから大半の人間にとって、お前は未だ謎の人物扱いなのさ」


 別の女子生徒が言葉を添える。


「リオは身分を隠してはいないけど、ひけらかしても居ないもの。その上、対等な立場を周囲に要求するから、社交界で見た事もないリオを見て平民と思ってしまうのも無理はないのよ」


 別の男子生徒が言葉を付け加える。


「その対等の対応だって、つがいの巫女直々の要求だから応じざるを得ないだけなんだぜ? 俺たちだって最初は、内心で戦々恐々としながら命懸けで接してたんだ――ま、すぐに怖がる相手じゃないってのも理解できるようになったけどな。教師たちは未だ、恐る恐る対等に扱っているはずだ」



 リオは学校側にも”他の生徒と対等の立場として扱って欲しい”と要求していた。王族だからと例外扱いにするのを嫌った形だ。

 学校側は不本意だったが、王立学院である。王族の発言に抗う術はない。つがいの巫女の要求を跳ね除ける事も不敬だ。一度は考え直すように申し出てはみたが、リオは首を縦には降らなかった。学校側から上奏を受けた国王も、リオの意志を尊重するよう通達した。元平民であるリオが王宮で窮屈な思いをしている事を慮り、息抜きの場を許可したのだ。


 結論として、教師たちはリオに対して敬語も敬称も禁止された。王家の名に敬称を付けないのは心理的に憚られ、必然的に”リオさん”とファーストネームだけで呼ぶ人間ばかりになり、尚更リオが王族であることを分かりにくくさせていた。

 もっとも、これが問題になるのは身分を笠に振舞う生徒たちだけだ。最初から学院が掲げる建前通り、他の生徒たちと対等で在ろうとする生徒にとっては問題にならなかった。せいぜい、名乗りを受けた時に衝撃を受ける程度だが、その場でリオが対等な立場を要求し、即座に順応するので些末な事だった。



 リオが小首を傾げて疑問を口にする。


「応じざるを得ないってことは、みんな本当は私の事を王族として扱った方が心が休まるのかしら?」


 レオナルドが肩をすくめて、苦笑する。


「ま、正直に言ってしまえば、貴族子女の一人としてはその方が有難い。学院の外で”うっかり”をやらかすのが怖いからな。だが今更、対等な友人となったリオを学院内で王族として扱いきれる気もしないし、今の状態が心地良いのも確かだ。球避け遊びもやりづらくなるしな――つがいの巫女に球をぶつけるなんて、本来ならそれだけで首が飛びかねないんだ」


 リオがにこりと微笑んで告げる。


「じゃあみんなには悪いけど、引き続き対等の立場を要求するわ。学院は私の数少ない息抜きができる場所なの。その憩いの場がなくなるなんて御免よ」


 レオナルドが微笑みを浮かべて応える。


「リオならそう言うと思ってたよ。あとはミルス殿下の嫉妬の矛先がこっちに向かない様にだけ気を付けておいてくれ。時々、殿下の視線が俺に刺さって怖いんだ」


「男子の中でも、レオナルドは特に私と親しいものね――分かったわ、王宮に帰った時に、改めて言い含めておくわね」


 傍の女生徒が微笑んで心情を吐露する。


「私も、身分を気にしないで居られるリオの傍が居心地いいわ。そういう人間も居る事、忘れないで居てね」


 学院内に貴族の階級社会を持ち込む人間を疎む貴族子女も少なからず居る。そんな貴族子女たちもリオの傍は、やはり憩いの場と感じていた。

 学院の外では嫌でも向き合わねばならない世界だ。建前がある学院内でぐらい、息を抜きたいと思っているのだ。


 リオが女生徒に微笑んで応える。


「分かったわ。私はこの憩いの場を必ず守って見せるから、安心してね!」


 レオナルドがリオに尋ねる。


「それで、いつになったらリオは社交界に出てこられるんだ? 顔が売れれば、エレナ嬢のような鬱陶しい連中も少しは減ると思うんだが」


 リオは難しい顔をして悩み始めた。


「まだまだ、私には覚えなきゃいけない作法が多すぎるわ。作法の教師から合格を貰うまでは、大規模なものは無理みたい。初日の夜会で好き勝手に大暴れしたのが心証に響いたのかもね。親しい人たちだけの小さなお茶会が今の限界じゃないかしら……ん? レオナルド、今エレナさんを鬱陶しいって言った? もしかして公爵家令嬢を振ってしまうの? 格上の家からの折角の縁談なのでしょう?」


「ははは! ああいう身分を笠に着る女を嫁に貰いたいとは、俺にも思えないからな。結婚後も元公爵家を鼻にかけて、何をするか分かったもんじゃない。別にエレナ嬢以外にも釣書は届いてる。相手に困ることはない。望めるなら、リオみたいに裏表のない、気持ちのいい女が好みだが、こればっかりは難しそうだ」


 リオが微笑んで応える。


「レオナルドに良い出会いがあるといいわね」





****


 学院からの帰路、馬車の車内。

 そろそろ夕暮れが近づく時間帯だ。


 ミルスとリオは、互いに今日起こった何気ない事を話し合い、笑いあっていた。



「――ああそうだ、レオナルドから言われたんだけど、ミルスの嫉妬の視線が怖いって言ってたわよ? 可哀想だから、控えてあげて?」


 リオの言葉に、ミルスが仏頂面になって応える。


「そうは言うが、学級が別の俺が爪弾きにされるのが気に食わん。昼食もさっさと食べ終わって、その後は直ぐ球避け遊びに興じてるじゃないか」


 昼食の時にはミルスも合流するのだが、球避け遊び仲間たちは時間が惜しいとばかりに昼食を食べ急ぎ、校庭に飛び出していってしまうのだ。


「爪弾きなんてしてないわよ。ミルスも球遊びに参加すればいいだけじゃない。楽しいわよ?」


 ミルスが苦笑を浮かべて応える。


「俺はお前の様に、最初から周囲に対等を強いてきた訳ではないからな。学院内でも王族として扱われてきている。今から言葉で対等と告げても、どうしても俺に対する遠慮は出るだろう。そんな状態で球遊びに興じてもつまらんし、お前の邪魔になるだけだ」


「そこまで私の事を思ってくれるのに、嫉妬の視線は我慢できないんだ?」


「そりゃそうだろう? レオナルドの奴、お前の肩に馴れ馴れしく手を乗せるんだぞ? それを静かに見て居られるほど、大人にはなりきれねぇよ」


 不貞腐れるミルスを、リオはどこか嬉しそうに見つめていた。


 リオが上目遣いにミルスを見て尋ねる。


「……私が浮気しそうで心配?」


「お前がそんな事をする女だと思ったことはないさ。だが俺の妻に馴れ馴れしい男を好意的に見ろと言われても、頷けるわけがない」


 リオは微笑みながら、眉をひそめて唸った。


「う~ん、レオナルドが馴れ馴れしいのは、別に私に対してだけじゃないんだけどなぁ。彼はああいう性格なのよ。ミルスは自制心が弱いから、自分を抑えるのに苦労するのね」


 確かにレオナルドが肩に触れるのはリオだけではない。親しい友人相手なら、男女構わず無意識につい手が伸びてしまうという悪癖持ちなだけだ。そこに親しみの情以外の意味はない。周囲はそれを理解しているので、敢えて嫌がる事もしない。

 彼の周囲に居る異性の該当者が少なく、特に親しいリオとレオナルドが目立つだけだ。

 それはミルスも理解してはいるが、嫉妬を抑えるのは難しいと感じていた。


 ミルスが、ふと胸に浮かんだ疑問が気になり、口にする。


「……リオは、俺が他の女と馴れ馴れしくしてたらどう思うんだ? 想像してみてくれ」


 リオがきょとんとした後、赤い瞳が瞬き、すぐに笑顔に変わる。


「前にも私は言ったわ。私は貴方の妻で、貴方は私の夫。そこに一抹の不安すら感じていない。この言葉だけでは不足なのかしら?」


 リオの力強い言葉に、ミルスは苦笑を浮かべて応える。


「俺の妻は頼もしいな。だが嫉妬をしてもらえないというのも少し寂しく感じる……いや、これは俺の我儘だな。忘れてくれ」


 リオが再び瞳を瞬かせた後、突如として剣呑な笑みに豹変した。

 その豹変ぶりに、ミルスは思わず息を呑んだ。

 危うい笑みを浮かべたリオが、静かにミルスに問う。


「――逆に聞くわ。私が嫉妬に駆られたとして、どういう行動に出ると思う? もしかして、ミルスはそちらがお好みだったのかしら? 嫉妬に燃えるだなんて私らしくないと思うけど、貴方が言葉では足りず態度で示してほしいと望むなら、そういう対応を取っても構わないわよ?」


 ミルスはその言葉にしばらく絶句した。


 リオは”借りは必ず返す”と有言実行し、その為なら命を削る事すら厭わない女だ。

 そんな苛烈な女が燃やす嫉妬の炎は、さぞよく燃え盛る事だろう。

 この手負いの肉食獣のような獰猛な笑み――こちらがおそらく、理性で覆い隠していたリオの本心だ。しかもこの笑みすら、その炎の片鱗でしかないと感じていた。


 自分の身体に他の女が触れた瞬間、疾風迅雷の如くリオが駆け付け、相手の女を様々な意味で再起不能にしかねない。そう思わせる壮絶な笑みだった。たちが悪いことに、それを可能にする権力と武力を、今のリオは兼ね備えている。

 ミルスはその状況を思い描き、背筋に走る怖気おぞけこらえきれず身を震わせた。


 夫に架空の女が馴れ馴れしく触れるという、曖昧な想像だけでこれほどの嫉妬の炎を燃やし、その炎を”自分らしくない”と強固な意志で自制して平然と笑える女――それがリオなのだと、ミルスは改めて理解していた。

 仮にリオの自制心が嫉妬心に負けた場合、どんな惨状が待ち受けているかなど、ミルスは想像したくもなかった。

 可愛い嫉妬を望みたかったが、どうやらリオの嫉妬は火力が強過ぎて、それは望めそうにないと理解した。

 嫉妬していない訳ではない――それが解っただけで充分だと、ミルスは納得したのだ。


「……今のままでいい。お前が自制心の強い女で良かったと、創竜神に感謝しよう」


 リオが一転して無垢な微笑みでミルスを見つめた。


「わかったわ。それじゃあ今まで通り、わたしらしく対応するわね」


 ミルスは、垣間見せた内に秘める炎を欠片も見せないリオの笑みを見て、”金輪際、いたずらに嫉妬を煽る真似はすまい”と固く心に誓った。





 リオに裏表がないなど、とんでもない話だ。

 陰湿とは無縁だが、これほど二面性が極端な女は珍しいだろう。一見無害な小動物だが、一皮むけば規格外の猛獣が潜んでいる女だ。

 その事を知らずにいるレオナルドは幸せ者なのかもしれない。





****


 ――休日、王宮の武錬場。


 武台の中央で、ヤンクとミルス、そしてリオが対峙していた。


 困惑するミルスがヤンクに尋ねる。


「特別講師って、ヤンク兄上なのか?! 俺たちが拳を交えたら成竜の儀が成立しちまうだろう?」


 傍らで見守っているエルミナが解説する。


「要は、決着がつかなければいいんですよ。大怪我を負わせないように戦えばいいだけです。ちょっとした腕試しですね」


 ヤンクが不敵な笑みでミルスたちに語りかける。


「少しは絆が深まったのだろう? 胸を貸してやるから、思いっきりかかってこい」


 ミルスとリオが顔を合わせ、頷きあった。

 二人が身構え、リオの身体が白く輝き始める。

 同時に足が床を蹴り、ヤンクに向かって駆け出していった。





 息を切らしたミルスとリオは、武台の上で仲良く大の字になっていた。

 二人の怪我は倒れ込む前に、リオが治癒を済ませている。

 一方ヤンクの方は、息も切らさず立っていた。傍でアレミアが治癒を行っている最中だ。


 三人の動きを観察していたエルミナが、所感を述べる。


「やはり、ミルスが竜将の証の力を引き出せていませんね。ミルスは二人分の証の力を持ちます。本来なら、もっと善戦できているはずです――ヤンク兄上、貴方はどう思いましたか?」


 ヤンクが腕組みをして顎に手を添えながら口を開く。


「そうだな、連携攻撃は見事なものだ。リオの動きも良いから、中々に手を焼く。だが本来なら補佐に徹するつがいであるリオが、ミルスと同じように攻撃に加わっている。加護も自分の能力の底上げにしか使っていない。これでは、つがいの脅威を感じることはない。アレミアと共に在る私が相手であれば、あっという間に決着がつくだろう――とはいえ、まだまだ伸びしろを感じる。今の戦闘様式でも、伸び次第では面白い勝負はできるかもしれん」


 息を整えたミルスが上体を起こし、ヤンクに尋ねる。


「つまり、つがい本来の様式に直すか、このまま二人で攻める様式で力を伸ばすか選べ、ということか?」


 ヤンクが頷いた。


「まぁそういうことだな。どちらが自分たちに合っているか、よく考えてみるといい」


 ミルスがエルミナに振り向いて尋ねる。


「エルミナ兄上は、どちらが良いと思うんだ?」


 エルミナは両腕を組んで天を仰ぎ唸った。


「うーん、リオさんに補佐をしろ、というのは性格的に難しいでしょう。殴られたら自分の拳で殴り返さねば気が済まない人です。ですが、竜将の証の力を使いこなしたミルスに、リオさんの加護の強さを加えたなら、その力はヤンク兄上とアレミアのつがいと充分渡り合って行けるはず。つがい本来の様式の方がやはり、勝ち目は多いでしょうね」


 リオは強い自制心を持つ女だが、それは自制心というより”己が己で在る事”を最優先にする我の強さが現れたものだ。

 己らしくない部分は強く抑え込む事ができるが、を抑えてミルスの補佐に徹する――そのような事には発揮されないだろう。


 リオにも充分その自覚はある。寝転がりながら大きく溜息をついた。


「――はぁ。難しい課題ね。ファラさんのように動くなんて、とてもできる気がしないわ」


 エルミナが微笑みながらそれに応える。


「試しに、しばらくは私とファラが動きの指南をしましょう。気持ちが付いてこなくても、身体に動きを覚えさせることは決して無駄にはならないはずです」


 ミルスも天井を見上げながら思案しつつ口を開く。


「俺なんて、竜将の証の力を使いこなせと言われても、どうやったらいいのかサッパリだ。けど実際、エルミナ兄上を倒す前と比べて、自分の力が上がった実感がないからな」


 エルミナが眉をひそめて困ったようにそれに応える。


「今使いこなせているのは、もともと持っていたミルス自身の竜将の証、その分だけでしょう。その力も、ミルスは感覚だけで使いこなしている。貴方もリオさんも考えて動くタイプではありません。なにか命の危険に晒されるような切っ掛けでもないと、目覚めるのは難しいかもしれませんね」


「命の危険って……ヤンク兄上にそこまで本気で来られたら成竜の儀で負けちまう。昔の様に”負けて上等!”と挑めればいいんだが、それじゃあヤンク兄上もエルミナ兄上も納得しないんだろう?」


 ヤンクが大笑いしながらそれに応える。


「ははは! どうせやるなら、本当に全力を出し切れるようになったお前と本気の勝負をしたいからな! それでこそ胸を張って竜将を名乗れるというものだ! ミルス、お前だってそうだろう? 全力を出し切らないまま、まぐれで私に勝利してもお前は竜将である事に納得できまい」


「そりゃ確かにそうなんだが……命の危険、ねぇ……」


 ファラが楽しそうに提案する。


「本気のリオさんと戦ってみる、というのは命の危険を感じられるかもしれませんよ? まだ二人は手合わせをしたことがないのでしょう?」


 リオがきょとんとした顔でファラに尋ねる。


「私とミルスが手合わせ? それで何か掴める事があるんですか? ファラさんはエルミナさんと手合わせしたことがあるんですか?」


「私はエルミナ様とも、よく手合わせしていますよ。男女の格差と組打術の技量差を合わせると、丁度互角程度の実力です。伴侶の実力を把握するのにも、手合わせは無駄にはなりませんから。試しに今から二人で手合わせしてみたらどうですか?」


 ミルスとリオが顔を合わせ、見つめあった。


「やってみるか? 確かにお前と手合わせしたことはない」


「女だからって遠慮する事がないなら、意味があると思うけど……ミルスは私の顔を殴れるの?」


「顔か……いくらすぐに王宮魔導士に治癒して貰えると言っても、躊躇わずに殴るのは難しいな。だがそこは男女の体格差を埋めるハンデとして考えれば、それほど大きな問題でもなさそうだが」


「じゃあやってみようか! せっかくの助言だし」


 リオが身軽に起き上がり、そのまま立ち上がった。

 ミルスも「やれやれ」と言いながらのそりと立ち上がる。





 武台の中央でミルスとリオが向かい合い、互いに構えている。

 その様子をエルミナとファラ、ヤンクとアレミアが武台の外で観戦していた。


 リオが身体を眩く輝かせ、瞳を金色に染めながら告げる。


「できる限り手加減なし、間違って顔を殴っても怒ったりはしないから安心してね」


「わかった、そのつもりでやってみよう」


 次の瞬間、リオが床を蹴って間合いを詰め、ミルスの腹を目掛けて拳を振り抜く。

 それをミルスは受け流し、腕を絡めとって床に投げつける。

 リオは空中で身を翻し体勢を整え、ミルスの頭部に蹴りを放つ。その蹴りを、ミルスは両手を離して離脱する事で避け切った。

 着地した二人が、再び地上で構えを取る。


 ミルスがリオに問いかける。


「――なぁリオ、それで手加減してないのか?」


「してるつもりは一切ないよ? 何か不満?」


「ヤンク兄上とやり合ってる時も思ったが、エルミナ兄上相手に苦戦してた時のリオの動きと比べると精彩を欠くどころじゃないな。今のリオには怖さを感じない」


 外野からエルミナが二人に語りかける。


「リオさんの力は感情に大きく依存します。前回私がやったように、苦境に追い込まないと潜在能力を発揮できないのかもしれません。そこはミルスと似ている点ですね。或いはミルスがリオさんに”貸しを作って”やれば、その途端にリオさんは恐ろしい相手に化ける可能性はありますよ。そこまで追い込めばよいのではないですか?」


 ミルスは顔を引きつらせてエルミナに応える。


「……兄上はそんな恐ろしいことをしろと、本気で言ってるのか? 借りを作ったリオの爆発力は確かにとんでもない。その借りを返すまで、絶対に止まらないからな。だがどうやったらリオが”借りを作った”と感じるのか、それがわからん」


 ファラが何かを思いついたかのように両手をぽんと胸の前で打ち合わせ、大きな声でリオに語りかける。


「そういえば先週末、夜会があったのよ。リオさんはまだ夜会に出席が許されていないから知らなかったでしょうけれど、その時ミルスは五人の淑女とダンスを踊ったの。もちろんラストダンスもね。相手の子はミルスに好意を寄せていた侯爵令嬢だったから、踊っている間はそれはもうべったりとくっついて恍惚としていたわ。ミルスが婚姻した今も、まだ想いを捨てきれていないみたいね。その子はとても綺麗な子だったから、ミルスもまんざらでもなさそうにしてたのよ?」


 リオが瞳を瞬かせ、きょとんとした顔でミルスに問いかける。


「……ラストダンスを踊ったの?」


 ラストダンスの意味――伴侶や恋人、意中の人を相手に踊るものだと、リオは既に教えられていた。

 つまり相手の令嬢は本気だったという事だ。


 ミルスは一気に顔から血の気を引かせて、しどろもどろで応える。


「あー……その、相手の子がだな、どうしてもと泣いてせがむし、お前も居なかったし……ファラやアレミアは兄上たちの相手をしなきゃならんから、逃げ場がなかったんだ」


「……その子、綺麗な子だった? ミルスの好みの子だった?」


「いやその、客観的に見れば……まぁ、美人だろうな」


 ファラが外野から言葉を添える。


「リオさんとはタイプが違うけど、以前からミルスが弱いタイプの可憐な子だったわよ? 男心をくすぐる、つい守ってあげたくなるようなタイプね。未だに想いを捨てられないだなんていじらしい所も、多分ミルスの好みよ?」


「ファラ! 火に油を注がないでくれ! ――リオ、そんなことは決してないぞ? 俺は仕方なく、渋々踊ったんだ。分かるだろう? 俺には、お前だけだ」


 ミルスが慌てて必死にファラの言葉を否定した。

 リオはきょとんとした顔で、小首を傾げる。


「でも、べったりとはされてたんだ?」


「そういう踊りだったんだ、無理に距離を取るなんて、相手を酷く侮辱する事になる。いくらなんでもそれはできない」


「……まんざらでもなかったのは、本当?」


「待て。冷静になれ。おまえらしく、冷静に朗らかにな? まんざらでもないように見えるのは、嫌な顔をしていても相手を侮辱する事になるからだ。礼儀として最低限の態度を取っただけだ。講義を受けているお前なら、その必要性も理解できるだろ?」


 リオはきょとんとした顔で少し思案してから、微笑んで頷いた。


「――もちろん分かってるわ! 大丈夫よ? 貴方も第三王子ですもの。逃げられない時もあるわよね。その場に居られなかった私が悪いのよ。あなたは何も悪くないわ」


 その無垢な笑顔を見て、ミルスは覚悟を決めた。

 リオの心理を読めてしまったのだ。


 ”ミルスは悪くない、悪いのはミルスにダンスを強要した令嬢だ”と結論付けたのだと、正確に把握した。

 ラストダンスを踊った少女を見つけた瞬間、”伴侶にラストダンスを強要した女”として、リオはつがいの巫女の全力を尽くしてその場で断罪するだろう。

 まず拳で捻じ伏せ、その後始末に権力を惜しみなく注ぐ。その状況がありありと想像できたのだ。巫女の力を全力で出したリオの拳に、令嬢の命が耐えるのは不可能だ。リオに見つかった時が令嬢の命運が尽きたときと言える。そのカウントダウンが今、始まってしまったのだ。


「……リオ、相手の子に何かをしようと思ったなら、それは絶対にやめてくれ。その分は俺が今、全て受け止める。王家としても、彼女に危害を加えられると困るんだ」


 リオが小首を傾げて尋ねる。


「……ミルスが受け止めるの? 本当に? 全てを?」


 ミルスが頷いた。


「ああ、俺を彼女だと思って、吐き出せるだけ吐き出してくれ。それで借りを返したと思ってくれ。約束してくれるなら、俺はどうなろうと構わん」


 リオの表情から笑顔が消え、真顔になってミルスに尋ねる。


「そこまで彼女が大事なんだ?」


「勘違いするなよ? 国家運営に支障をきたしかねないから庇っているだけで、他意はない。俺が好意を持っているのは、お前だけだ。お前は俺の妻で、お前の夫は俺だ」


「ふーん……」


「理解してもらえたか?」


 リオは真顔のまま応える。


「――さぁ、手合わせを再開しましょう? しゃべっている時間がもったいないわよ?」


 ミルスは頬に流れる冷たい汗を感じながら、必死に逃げ出したい衝動に耐えていた。

 リオからは殺気も怒気も闘気も感じられない。だというのに、感じる圧だけが増大していく。


 ミルスが固唾を飲んだ瞬間、リオの姿が視界から消えた。


「――?!」


 ミルスは勘で咄嗟に上体を逸らし、リオの放った拳を間一髪避けた。拳は顎先をかすめ、天高く打ち上げられている。

 リオの瞳は、見たことがないほど眩い金色に輝いていた。

 その表情からは感情が消え、真顔のまま冷静にミルスを見据えている。


 ミルスは慌てて後ろに退き体勢を立て直すが、気が付くと眼前にリオの拳が迫っていた。

 寸前で拳をかわしつつ、カウンターでリオの腹に拳を突き入れ、そのまま弾き飛ばした。


 後ろに吹き飛ばされたリオが空中で体勢を立て直し着地する。その顔は伏せられていた。

 リオの圧力はいよいよ強大になり、ミルスは、まるでヤンクを前にしているかのような気分にさせられていた。

 顔を上げたリオの表情が露になり、周囲が息をのむのがミルスにも分かった。

 ミルスが馬車の中で見た、手負いの肉食獣のような獰猛な笑み――それすら霞みそうな、剣呑な笑みだった。

 夫の身体に他の女が馴れ馴れしく触れていたという”事実”。自分が参加を許されず、礼儀知らずと爪弾きにされていた時にそれが行われ、自分だけが知らずにいたという疎外感。それらが合わさった事により、リオの嫉妬の炎はこれ以上なく燃え上がっているようだった――既に、表情を取り繕う事すらできないほどに。


「全て受け止めてくれるんじゃなかったの?」


「……これは手合わせだ。一方的に殴られるに甘んじるのは、手合わせとは言わない」


「……それもそうね。そこは納得してあげる」


 再びミルスの眼前に拳が迫っていた。

 間合いを詰める瞬間すら感じさせないほどの俊敏な動きに、それでもミルスは必死に対応し両腕で防いでいた。筋肉が悲鳴を上げ、骨がきしむ感覚――まさにヤンクの拳を受け止めた時と同じだ。


 弾き飛ばされたミルスに追いすがるようにリオが拳を繰り出してくるのを、ミルスは必死に捌いていった。

 恐ろしいほど俊敏とはいえ、動き自体は子供の喧嘩水準の荒っぽさだ。隙を見つけ、再び弾き飛ばすように腹に掌打を加える――だがリオはその一撃をその場で耐え、カウンターでミルスの顔面に拳を入れた。


 その余りにも重たい一撃に、ミルスの意識が一瞬途切れた。気が付くと、倒れたミルスの上体に馬乗りになったリオが上から拳を何度も突き入れてきていた。


「――!!」


 数発をまともに顔面に食らいつつ、苦し紛れにリオの顎に向かって拳を打ち上げ、頭を弾き飛ばした。

 乱打が止まると同時に馬乗りから素早く抜け出したミルスは、リオの顎を蹴り抜き、身体を大きく弾き飛ばす。


 吹き飛ばされたリオがゆっくりと起き上がる――既に気配は、魔物のそれと変わらない。


「……顔面を殴るのは難しいと言っていなかった? 殴るだけじゃなく、蹴りも入れたわね?」


「……今のは顔面じゃない、顎だ」


「あら、言い訳かしら? 男らしくないわよ? それに、殴れるなら何の問題もないわ。貴方も遠慮しなくていいのよ?」


 リオの空気に飲まれていた周囲、その中でファラが気を取り直したように微笑みを浮かべ、更なる言葉をリオに告げる。


「ラストダンスの最中にミルスったら、その子から頬に口づけされてたのよ? 真っ赤になって照れちゃって可愛かったわ!」


 ミルスは次の瞬間、再び意識を失っていた――殴られた事を知覚できない速度で拳を振り抜かれていた。

 気が付くと、ミルスはリオに再び馬乗りにされ、顔面を乱打されている最中の様だった。

 リオは猛獣の笑みを浮かべつつ、涙を零して殴り続けている。

 既に痛みは麻痺し、朦朧とした意識の中で死を覚悟した。

 その瞬間、己の中にある何か大きな力が膨れ上がってくるのを感じていた。




 リオの拳が、堅く重たいものを殴りつけた音がした。


「――?!」


 その手応えと音に、リオの動きが止まる。

 リオの拳は確かにミルスの顔面を捕えているのだが、ミルスはそれまでと違い、顔面でリオの拳を”受け止めて”いた。

 その感触にリオは覚えがあった。ヤンクの身体を殴った時と同じ――いやそれ以上の堅牢で重たい感触だ。まるで竜の身体でも殴ったかの様だった。

 大柄で立派な体躯を持つヤンクならともかく、ミルスは十五歳として標準的な体躯だ。こんな重たさを持っている訳がない。


 リオは乱打を再開するが、全ての拳をミルスは顔面で平然と受け止め、それ以上損傷を受けている様子はなかった。

 乱打の間隙を突いてミルスの拳がリオの顔面を捕らえる。

 空中高く吹き飛ばされたリオは一瞬意識を飛ばし、そのまま床に叩きつけられた。


 ゆっくりと立ち上がったリオは口から流れる血を拳で拭い、魔物の気配を濃くしていく。


「――やるじゃない。完全に極まったあの状態から返されるとは思わなかったわ」


 リオが吹き飛ばされている間に体勢を立て直していたミルスが、冷静に応える。


「俺も、返せるとは思わなかった。どうやら少し、竜将の証の使い方が分かってきたみたいだ」


「そう、なら安心して殴れると言うものね――頬を染めたのは本当?」


「……女慣れしていないんだ。唇を落とされれば照れるぐらいはする」


 わずかな静寂の直後、武台の中央でミルスとリオが激突していた。

 リオの拳はミルスの顔面を捕えてるが、ミルスは再び平然とそれを受け止め、カウンターの掌打をリオの腹に埋めていた。

 胃液を口から零すリオのこめかみを、ミルスは容赦なく横から殴りつけた。

 大きく弾き飛ばされたリオは武台から飛び出し、外野で大の字になっていた。

 起き上がろうと藻掻くが、身体がもう言う事を聞かないようだった。

 既に瞳の色から金色は去りつつある。


 ミルスが冷静にリオに告げる。


「もう限界だろう。そこまでにしておけ」


 その一言でリオの瞳に金色が戻り、起き上がって構えを取った。


「……全部受け止めてくれるんじゃなかったの?」


「まだ吐き出しきれてないのか? いいぞ、気が済むまでかかってこい」


 再びリオが間合いを詰め、拳を乱打していく。

 ミルスは全ての攻撃を身体で受け止めて見せ、隙を見つけるとリオを殴り飛ばし弾き飛ばした。

 それを幾度か繰り返し、二人は間合いを取った状態で動きを止めた。


 リオが小さく溜息をつく。


「――ふぅ。とんでもない硬さね。竜将の力って凄いのね」


「納得できたか?」


 涙は止まったが、猛獣の笑みを浮かべたままのリオが応える。


「……いいえ? あと一撃は痛いのを入れてあげないと気が済みそうにないわ」


「今の俺たちの力の差で、それは無理だろう」


 余裕のある静かな笑みで、ミルスが告げた。

 リオの笑みが魔物の如き笑みに変わる――人が浮かべられる笑みではない。正気が残っているのかすら疑わしい、そんな笑みだった。

 その笑みに、ミルスは背に怖気おぞけが走ったかのように震えた。


「――上等。私を舐めた事、後悔させてあげる」


 リオの瞳が更なる金色に輝き、右拳が白い輝きに包まれた。

 次の瞬間、ミルスの顔面にリオの右拳がめり込み、ミルスは意識を失った。





 武台の外まで大きく吹き飛んだミルスを見据えたリオが、満足げに魔物の笑みを浮かべた。


「――ようやくすっきりしたわ」


 その一言を最後に、リオも武台の中央で倒れ込み、意識を手放した。





 一部始終を見ていた周囲は、しばらく空気に飲まれたままだった。


 ヤンクがようやく言葉を振り絞る。


「竜将の力をあそこまで引き出したミルスを昏倒させるか。あれを食らったら、私でもひとたまりもないな――アレミア、あれを防げたか?」


 ヤンクも己の背に流れる冷たい汗を感じていた。自分を超える脅威――それを父親以外で初めて目の当たりにしたのだ。


 アレミアは首を横に振る。


「あんな速度には対応できませんし、仮に間に合っても私の防御障壁すら容易く打ち抜くでしょう」


 エルミナは満足そうに頷いていた。


「ミルスとリオ、共に潜在能力を限界以上に引き出していましたね――ファラ、よくあそこまで煽れましたね。私は恐ろしくて、声を出すことすらできなかったというのに」


 ファラは冷たい汗を流しながらも、微笑んで応える。


「リオさんが嫉妬深いのは、前から分かっていましたから。それにこうでもしないと、二人が死力を尽くし合うことなんてなかったでしょう?」


 ヤンクが我に返り、声を上げる。


「そんなことより、至急王宮魔導士を呼んで来い! 重症までは負ってないだろうが、二人とも頭に打撃を受けすぎている」


 傍に控えていた使用人たちも我に返り、武錬場が慌ただしくなり、ミルスとリオが搬送されていった。





****


 リオが目を覚ますと、そこは私室のベッドだった。

 顔を確認してみるが、どこにも痛みは残っていない。

 ベッド脇に目をやると、やはりファラが微笑んで自分を見つめていた。


「目が覚めたわね。今回はそこまで大きな怪我は負ってなかったから、全て治癒して貰えたわ」


 リオは天井を見上げ、ぽつりと呟いた。


「……自分がこんなに嫉妬深いだなんて、思ってもみなかったわ。自分で抑え込めないほど怒りに飲まれたのは、生まれて初めてよ」


「あら、そんなに自覚がなかったの? 貴方、ミルスが侍女にかしずかれていることにすら嫉妬しているのよ?」


 リオがきょとんとした顔で瞳を瞬かせた。


「そうなの?」


 ファラが微笑みながら応える。


「ミルスが侍女から何かを手渡される時、その手元を凝視しているでしょう? 相手の侍女の顔も必ず見ているわ。着替えをする時も、随行する侍女の顔全てを確認してる――実はね、侍女たちから”視線が怖い”と相談されることがあるの。その都度、貴方は理性的な人だから大丈夫だと言い含めているけれどね。その自覚がないのなら、すべて無意識でやってしまっていたのね」


 リオは大きく溜息をついてミルスのベッドを見る――そこにはやはり、まだ目を覚まさないミルスの姿があった。


「ミルスの怪我は?」


「そちらも大丈夫よ。竜将の力は伊達じゃないわね。並の人間なら今頃、肉塊になっていてもおかしくないんじゃないかしら?」


 笑い声をあげながら冗談でもない事を告げるファラに、リオは白い目を向けた。


「ファラさん、よくもあれだけ好き勝手に私を煽ったわね。私がミルスを相手にするだけじゃ我慢できなくて、相手の子に手を出そうとしたらどうするつもりだったの? その子が肉塊にされてたってことよ? 危害を加えられたら困る子なのでしょう?」


「そこは責任を取って、ヤンク様やエルミナ様、アレミアと四人がかりで止めたわ。必要なら陛下たちの力を借りてでもね。この六人で抑え込めないという事はないわよ」


 リオが再び大きな溜息をついた。


「――はぁ。創竜神様がエルミナ王子の伴侶にファラさんを選んだ意味が何となく分かったわ。似たもの夫婦なのね。笑顔の下で何を考えているか、分かったものじゃないわ」


 ファラが嬉しそうに笑みを浮かべる。


「ふふ、ありがと。でも夫婦って、自然と似てくるものなのよ? リオさんとミルスだって似たもの夫婦だし、これから時間を重ねる程、似てくるはずよ」


「――褒めてないわよ? 性悪王子と似てると言われて喜ぶなんて、ファラさんは変わってるわね」


「愛する夫と似ていると言われれば、悪い気はしないわ――それより、これでようやくヤンク様に対して勝ち目が見えたわ。最後の一撃、ヤンク様自身が”自分でも耐えられない”と口にしていたの。あれを自在に操れるようになったら、貴方たちに分があると言ってもいいわ。今のミルスならヤンク様相手に力負けをする事も無いでしょうし、あとは貴方がどれだけ加護の力を発揮できるかにかかってるわね」


「その前に私は寿命が尽きそうよ? 今日だけでどれだけ命を縮めたのかしら」


 ファラがきょとんとした顔で尋ねる。


「あら、貴方そこもまだ教わってなかったの? つがいの傍に居れば、加護を発揮する事で失った生命力は回復するのよ? ゆっくりとだけどね。だから本当は、夜も一緒の部屋で寝ていた方がいいの。怪我をした貴方たちが共に寝かされているのは、貴方の力を回復する意味もあるのよ」


「……それは無理よ。ミルスは同じ部屋で寝ていたら我慢できないって言ってる。私はまだ、ミルスに身体を許す勇気が持てないもの」


「今日くらいは大丈夫よ。今夜はゆっくり寝ておきなさいな」


 リオは俯きながら頷いた後、思案して呟く。


「……最後の一撃を自在にと言われても、あんな自分でも制御できない激情をどうしろっていうのかしら。自力であれを出せる気がしないわ」




 ファラが天井を見上げながら思案し、呟く。


「んー、成竜の儀直前に、アレミアがミルスの唇を奪うだけでいいんじゃない?」


 発言の直後、ファラは怖気おぞけを感じ、慌てて天井からリオへ目を戻した。

 そこには昼間見せた、魔物の如き笑みを浮かべるリオが居た。

 普段の姿から猛獣の笑みを一足飛びで飛び越して魔物に豹変していた。

 魔物同然の威圧感がファラを押し包み、全身が総毛立ち、冷たい汗が流れて行く。


 ファラが静かに謝罪を告げる。


「……ごめんなさい、冗談よ。それをやったらヤンク様じゃなく、アレミアが狙われて肉塊にされるわね。私が悪かったわ――だから、落ち着いてもらえる?」


 しばらくリオはファラと見つめあった後、ふっと魔物の笑みを消した。

 そこに居るのは少し疲れているが、普段通りの朗らかなリオの姿だ。


「――もう、ファラさんったら! 口にして良い冗談と悪い冗談があるわよ?」


 いつもの笑顔で朗らかに告げたリオの顔を、ファラはまじまじと観察していた。

 こうして笑っていれば小動物のような愛らしさを持つ十五歳の少女だというのに、一皮むけば規格外の猛獣――を通り越した恐ろしい魔物が潜んでいる。

 今浮かべている笑みの下でも、おそらく先程の嫉妬の残滓が燃えているはずだ。だがそれを微塵も感じさせることはない。

 ”笑顔の下で何を考えているのか分からないのはお互い様よ”とファラは痛感していた。


 この分では、ミルスが側室を作る事も許さないだろう。成竜の儀を行えるのは王家直系の男子だけだ。ミルスが勝ち上がった場合、これはこれで、頭が痛い問題だった。

成竜の儀の都合上、竜将である国王は側室を持つことが珍しくない。

 リオにはなんとかして二人、できれば三人以上の男子を産んでもらわなければならない事になる。

 一人目が生まれ後ならば、リオも側室に納得が出来るかもしれない。もしもミルスが勝ち上がったならば、様子を見ながら交渉してみるしかないのだろう。





****


 翌週末の休日、王宮傍の闘技場が解放され、成竜の儀最終戦が御前試合として開かれることになった。

 ヤンクとエルミナ、そしてミルスが「今ならば対等以上の戦いが出来る」と納得したからだ。


 武台の上では軽鎧を着こんだヤンクと、巫女の正装を着込んだアレミアが並んでいる。

 対峙するのは、同様に軽鎧を着こんだミルスと、巫女装束に初めて身を包んだリオだ。


 ヤンクがミルスに告げる。


「ようやく私の念願が叶う。お前と本気の勝負をするこの時を、ずっと待ち侘びていたのだ――がっかりさせるなよ?」


 ミルスがヤンクに応える。


「今の俺なら、兄上にそう簡単に負けることはないさ。勝てるかどうかは、つがい次第だ。そして俺はリオを信じている――つまり、俺たちが勝つ!」


 アレミアがリオに微笑んで告げる。


「本質的には、私とリオさんの技量勝負ですね。義姉あねとして、巫女の先輩として、簡単に負ける訳にはいかないわ。三年間の重み、味わわせてあげる」


 リオも不敵に笑って応える。


「共に過ごした期間が短くても、私とミルスは死闘を演じられる仲よ? 私を舐めるとどうなるか、アレミアさんにも思い知らせないといけないのかしら?」



 国王が闘技場の王族観覧席から声高こわだかに告げる。


「ではこれより、成竜の儀、最終戦を始める! 互いに後悔の無いよう、全力を尽くすが良い!」



 四人が身構え、アレミアとリオの瞳が金色に染まる。


 ミルスがヤンクを見据えたまま、リオに告げる。


「お前はお前の好きに動け。補佐は俺がしてやる」


 リオはアレミアを見据えたまま、ミルスに応える。


「ミルスこそ、好きに動いていいのよ? 竜将を補佐するのがつがいの務め。私は私なりの補佐をするだけよ」


「それじゃあお互い――」

「好きに動くとしましょうか!」





 その闘いは後に、ウェラウルム王国の歴史に残る名勝負として語られることになった。

 勝者は次代の王として確定し、国民全てがそれを祝福した。

 後に王が譲位した後、その次代の王は名君としても語られることになる。

 その名君は正室のみを作り、生涯側室を作ることはなかったという。


 どちらに軍配が上がったのか、それを語る野暮は此処では控える事としよう。











長兄が残っていたので、物語に片を付けた感じですかね。

勝者がどちらなのかは、読者の想像にお任せします。


気が向いたら3部作を連載形式に直して詳細に綴ってみても良いかもしれないですね。

その場合、多分10万~20万文字の間くらいには収まると思いますが、話の行く末も含めて暴走特急次第なので予測は難しいかも。


評価や「いいね」、感想やレビューなどお待ちしております。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ