『うら若き日々の記憶』
ほんとにバカなことである。
私が心からそう思うようになったのはつい最近のことだ。
私は、私立中学で教鞭をとっている。生徒からの評判も自己評価曰く良く、教える喜びに満ち満ちている。
そんな私は、同僚のA先生に恋をすることになる。
先生は、私より二、三歳が上のようであった。
白く透き通った肌に、黒色のおさげを靡かせ時々見せる世間知らずな一面は、まさに深窓の令嬢という言葉がふさわしい。
私の視界には、日々を追うごとに姿を無意識に焼き付けているのだ。
先生は私の方を見て、少し微笑む。それが毎朝続くのである。
何か前世で悪いことでもしたのだろうか、責め苦である。
かくゆう私も立派な日本男児である。彼女に気があるのか、ないのか、はっきりせねばと思案しているとちょうど、来週一年生の校外学習があるではないか。
場所は丹波篠山に行くらしかった。
学年主任と副主任は、そのことについて職員室で話している。
もともと、篠山には祖母がいる関係で、詳しい私。
祖母の送ってきてくれる丹波黒の濃厚な豆の味が、脳内で再生される。
その甘みを噛み締めながら、A先生と二人で食べる姿を想像する。ああなんて、幸せなのだろう。なんとしてでもこの好機を逃したくない。
心の中では、如何にして話題を出すかの長考が始まる。
職員室にて。深窓の令嬢は、丹波黒を知っていますか。突如、投げかけた質問にキョトンとする聖母。
いや、知らなくていいのです。私が教えて差し上げましょう。そこから地元で有名な黒豆の話をする。
令嬢は微笑を浮かべながら、話を聞いてくれる。その姿には、聖母マリアのような慈しみを感じる。
私はバカだ。結局、丹羽黒について知識をひけらかしただけで、何も聞くことができなかった。
その日の夜、思い立った私は下宿先から見える海岸に向った。
太平洋はどこまでも広がっている。闇の中に打ち寄せる波音だけが、世界に私が存在せしめていることを感じさせる。
波よ、私の心を洗い流しておくれ。そう願わざるを得ない。
令嬢も波音を深窓から聞いているのだろうか。
月光が海面にうつりこむ。
近くには、田舎者のヤンキーがコンビニで買ってきたであろうしょぼい花火を打ち上げている。
私の気持ちも、令嬢から見るとあのヤンキーの花火の掠れた音にしか聞こえないのか。
波音はいつまでも心を揺さぶったまま響いている。
(終)