2
ノックの音がしたかと思うと、甘い香りとともにシルヴィオが入ってきた。
焼き立てのアップルパイがリリーディアの目の前のテーブルに置かれる。
そして、彼は一緒に持ってきたティーセットで、紅茶を淹れ始めた。
流れるような美しい所作に、リリーディアは思わず見惚れてしまう。
「どうぞ」
「あ、ありがとうございます」
「俺は姫の従者です。敬語はいりませんよ」
「……で、でも。何も、覚えていない、ので」
「分かりました。それでは、俺に慣れるまでは敬語でもかまいません」
ナイフとフォークで器用にアップルパイを切り分けたかと思うと、シルヴィオはリリーディアの口の前にフォークを差し出した。
ご丁寧に、ふうふうと粗熱を冷まして。
「さぁ、お食べください」
「えっ!? あの、自分で食べられます」
「駄目ですよ。姫に食べさせるのも俺の仕事ですから」
シルヴィオは、当然のことのように言う。
リリーディアが戸惑っているうちに、美しい青年従者がアップルパイを手に迫ってくる。
「はい、あ~ん」
その勢いに負け、リリーディアはおずおずと口を開いた。
シナモンの風味が効いた甘い林檎と、サクサクのパイ生地が口の中で程よく混ざり合う。
甘くて、美味しい。
なるほど、これはたしかに好物かもしれない。
リリーディアは思わず笑みをこぼしていた。
その様子を、幸せそうにシルヴィオが見つめている。
シルヴィオの視線に気づくと、羞恥に頬が熱を持つ。
「あの、そんなに見ないでください」
「どうしてですか?」
「恥ずかしいからです……」
「すみません。姫が可愛いので、つい」
「……っ!?」
「はい、もう一口どうぞ」
とんでもない一言をさらりと言って、シルヴィオは何食わぬ顔でアップルパイを差し出す。
「……以前の私も、本当にこうして食べていたのですか?」
そうだとしたら、とんでもなく強心臓の持ち主だ。
今のリリーディアは、シルヴィオの金の双眸に見つめられるだけで落ち着かないというのに。
しかし。
「いいえ。今の姫は記憶喪失なので、食べさせてあげようかと」
ただの行き過ぎたお節介だったようだ。
「た、食べ方は覚えているので大丈夫です!」
「そうですか。残念です」
本気で残念そうに肩を落とすシルヴィオに罪悪感を覚えるが、一口食べるごとにドキドキしていては心臓がもたない。
リリーディアはナイフとフォークを手に、自分でアップルパイを食べ始める。
シルヴィオから注がれる視線には気づかないふりをして。
「美味しかったです。あの、ごめんなさい。食べきれなくて……」
どうやらリリーディアは小食のようで、半分以上残してしまった。
「いいんですよ。一口でも食べてくれれば」
シルヴィオは気を悪くした様子もなく、にこやかに答える。
カップに残った紅茶を飲み干して、リリーディアはシルヴィオをまっすぐ見つめた。
「ここはどこなのですか? 私に何があったのか、教えてください」
リリーディアにとって、目の前のシルヴィオだけが記憶を探る手掛かりなのだ。
少しでも情報があれば、何かの拍子に思い出すかもしれない。
自分のことすら何も分からないままなんて嫌だった。
「姫は元々体が強くありません。クラリネス王国の王都には魔素が多く、魔素に耐性のない姫は療養するためにこの森へ来たのです」
「魔素……?」
「あぁ、魔素のことも忘れているのでしたね。魔素とは、魔術を使うために必要な魔力の元になるものです」
魔素とは、この世に存在するすべてのものの中に存在する。
空気中であったり、物質の中だったり、生き物の中であったり。
人間の体にも少なからず魔素は存在しているが、魔素が生命力となる生き物が魔物と呼ばれる。
人間が酸素を吸って呼吸をしているように、魔物は魔素で生きているのだ。
そして、魔術師は魔素を使って様々な魔法を駆使する。
シルヴィオの説明をリリーディアは空っぽの頭に詰め込んでいく。
「姫が記憶喪失になったのも、王都で魔素の影響を強く受けてしまったからでしょう」
王女でありながら、リリーディアは魔素に耐性がなかったようだ。
少し身体がやつれているのも、魔素の影響なのだろうか。
(記憶を喪ったり、体調にこんなに影響があるなんて……)
目に見えない魔素に不安を抱いていると、シルヴィオが優しく微笑んだ。
「安心してください。この屋敷には魔素を寄せ付けない結界を張っていますから、これ以上影響はないはずです」
シルヴィオの言葉に、リリーディアはホッとする。
「いいですか、姫。ここには療養にきています」
「はい」
「ですから、これだけは守ってください」
――無理に記憶を思い出そうとしないこと。
――この屋敷から一人で出ないこと。
シルヴィオは心配そうな顔でリリーディアに言い含める。
「いいですね?」
「……はい」
「よかった」
リリーディアが頷くと、シルヴィオはホッと息を吐く。
優しい微笑みを向けられて、リリーディアの心臓はまた落ち着かなくなる。
(従者相手にドキドキしてしまうなんて……)
これも、記憶がないせいだ。
以前の自分は、シルヴィオとどのように過ごしてきたのだろう。
無理に思い出そうとするな、と言われても気になってしまう。
自分のことよりも、シルヴィオのことが。
彼のことを知りたい。
心の奥底から沸き上がった感情に、リリーディアはどきりとする。
この感情は、喪った記憶とつながっているような気がしたから。




