リンゲルの影
思い返してみると、一人で列車に乗ったのはこれが最初かもしれない──リンゲル行の車内に、大きな旅行鞄と共に乗り込んだ俺は、リースから受け取ったリンゲルの地図をぼんやりと眺めていた。
リンゲルはエントリア南部の国境沿いの地であり、そこそこの人口を抱える典型的な地方都市である。二時間ほど体を揺られ、駅のホームに到着する──と、妙な光景が俺の視界に映った。
駅の出口に向かう通路に大勢の作業員が立っていて、何やら飾り付けの作業に勤しんでいる。彼らの手の中にあるのは、緋色の旗であった。それはかつて見た、ヴァレンスタイン家の塀の上にずらりと並べられた旗の色と全く同じである。
不思議に思いながら駅を抜けると、黒っぽい服を着たオスローが立っている。彼女は直ぐに俺の姿に気が付いて手を振ってきた。
「お久しぶりです」
彼女は変装のつもりなのか、何やら黒っぽい服に身を包んでいるが、それがかえって周囲から浮いているようにも見えた。
「来て早々申し訳ありませんが、今回の任務の説明をしなければなりません。……思ったよりも事態は急に進んでいます。早速ですが、今夜行動に出ます」
……いずれにせよのんびりした旅にはなるまいと諦めていた俺だったが、それにしても早い展開である。困惑する俺を他所に、彼女は滔々と話し続ける。
「……これから街に行って、知り合いの店で作戦を練ることにします。構いませんね?」
「ええ、はい……」
反抗するだけの理由もなかった。俺は人混みの方向に向けて歩き出した彼女を追って歩き出した。
カラフルな建物が多いリンゲルの街並みを見ていると、駅で目撃したのと同様に、幾人かの作業員が店の前に緋色の旗を掲げようと動き回っているのが見える。
「さっきから気になっているのですが、あれは何をしてるんです?」
ついつい気になってオスローに尋ねてみる。彼女は風に泳ぐ緋色の旗をぼんやりと眺めながら、
「あれは……エントリアの名家、ヴァレンスタイン家の象徴ともいうべき緋色の旗ですね。ヴァレンスタイン家の有力者が家を訪れるときには、配下の人間が気を利かせてああいった飾り付けをするんですよ。不思議な風習ですよね」
「有力者というと、エウロという人ですか? 確か近々リンゲルに拠点防衛のために派遣されてくるとか……」
「ああ、その話も既に聞いているんですね……」
オスローは一瞬店を仰いで、はあ、と息を吐いた。
「なんとも面倒な話です。色々な問題が、このリンゲルに集結しようとしている……」
「……やはり、あなたの任務というのも、今度のリーベルンの再侵攻と関係が?」
リーベルンが再び軍勢を整えて、リンゲルの地を襲撃する。その事前情報を聞きつけて、オスローがこの地に前もって派遣された──大方そんなことだろうと、俺は勝手に納得していた。
しかし、オスローの反応は芳しくなかった。薄っすらと苦笑いを浮かべながら、後方を歩いている俺の方を見る。
「全てリーベルンのせいだとすれば、話は単純だったのですが……」
さらに十分ほど歩いてから、オスローは人気のない狭い路地に急に入っていった。ジメジメした路地裏をしばらく歩き、やがて洒落たランプのついた扉の前へとたどり着く。オスローは小さくノックをしてから部屋の中に入っていき、俺もその後に続いた。
部屋の中は小さなバーであり、五、六の円形テーブルとバーカウンターだけの質素な造りである。カウンターには暗い表情の男が立って、手に持ったグラスをぼんやりとした表情で磨いていた。
「とりあえずここに座って。……マスター、氷水二つ!」
オスローのよく通る声に反応して、カウンターの男がのそのそと動き出して奥の部屋へと消えていった。
「……あの男の人は?」
「私の知り合いです。信頼できる人だから大丈夫ですよ。……さて、早速ですが、任務の話を始めましょうか。時間もそれほど残っていません」
オスローは木製の椅子に腰かけて、目を覚ますように自分の頬をぴしゃりと叩いた。
「ええと、どこから話しましょうか。……前にも少しだけ話しましたが、私は今エントリア内部の"反逆者"の調査をやっています。アメリア様に反逆しようという秘密結社がこの街のどこかに潜んでいます」
「通信で聞いた話では、その結社は"呪い"の力に手を出しているとか」
「ええ。それだけでも大変に厄介なのですが……どうにもリーベルンの連中とも繋がりがあるらしいのです」
「……どういうことです?」
「つまりですね、アメリア様に対抗するために、あろうことか戦争中のリーベルンと取引をして、戦力を整えようとしているということです。狙いはリーベルンの保有する"呪い"の力でしょう。そして、その取引が行われるのが今夜なのですね」
エントリアの反逆者とリーベルンの人間が手を組もうとしている。そしてオスローの目的は、彼らの接触する瞬間を抑え、反逆者たちの所在を探ること……複雑な戦いの構図に、俺はなんだか頭の中がくらくらとしてきた。
「接触場所はリンゲル南西の広場です。……当然、戦闘も予想されます。気合を入れていきますよ」
オスローは勇ましい声で、渋い顔の俺に向けてそう言った。




