ジャムトーストが死ぬまで
ジャムトーストが死んだ。
残骸は無となり、テーブルの片隅で有る。
ぼくが殺した。
証拠に、歯型が残っているはずだ。一口かじり付いたところで迎えがきて、ぼくはそのまま出掛けてしまった。その日は、最後のライブで、それなのにぼくは呑気に寝坊して呑気にジャムを塗っていた。日常と変わらない時間を過ごしたかっただけなんだ。ぼくは最後も、ぼくでいたかったから。
その時見た光景をぼくは忘れない。ラストナンバー直前、照明が消え、真っ暗になった。これから生きる世界が急に訪れたのかと錯覚した。そういえばこんな演出だったっけ、って考えていたら、ふたつの光線が流れ星みたいに降りて、ぼくを包み、会場のライトが点いた。
曲が始まる。ぼくは最後に明るい曲を選んだ。それなのに。みんな泣いていた。振り向いてメンバーの方を見ると、メンバーも泣いていた。ぼくは歌うのをやめた。悲しくないよ、と笑った。「悲しくなんか、ないんだよ。楽しい思い出、いっぱいあるもん。それに、いつかきっとぼくは、ここに戻ってくるんだからね」そう言って再び客席を見ると、ひとりだけ笑顔の子がいた。いつもライブに来てくれる子だ。黒尽くめのファッション、黒髪、目を黒いアイシャドーでぐるっと囲んで……そんな子はたくさんいる。ぼくのミラーと呼ばれる子たちだ。
でも、その子はわかるんだ。なぜなら、マリアと同じ片えくぼがあるから。
曲が再開して、またぼくは終わりに向けて歌う。ミラーたちは、泣きじゃくりながら、それぞれ人差し指を掲げている。たったひとり、笑顔で。ぼくは、方えくぼに触れたいと思った。その子の手を掴み、指先をかじった。食べ損ねのトーストを想う。苺ジャムの味はしなかった。代わりにペパーミント・ガムの香りがした。
誰もいない家に帰ると、次の日からの予定はもう何もなかった。ぼくは電車に乗った。何年ぶりか覚えていないほどぶりだ。だから降りた駅に特別思い入れもない。振り向いて駅舎を確認したとしても、なんの感情もわかないと思う。ぼくのブーツは、黒いトーフみたいな石畳を踏む。ボルドー色のマーチンのつま先が少し傷ついていた。いつのまについたんだろってぼくは悲しくなる。
悲しんでいるあいだに信号が点滅した。足元で白い花が揺れている。悲しみのマーチンによく似合う。花屋を眺める。オバーがよく来ていた八科生花店だ。ぼくもオバーに連れられて来たことがある。オバーは、なにかの花を探してた。オバーと花屋のおばさんは、研究所がどうのこうのお山の花がどうのこうの言っていた。おばさんと話し込むといつも長くて、ぼくはいつも来たがらなかった。よく白い花を買っていたっけ。
ぼくは、
「シロイハナ……」
とつぶやいた。店員が「白い花をお探しですか」と声をかけてきた。顔を見ると、ここの息子だった。ぼくが「小さいのがいい」と言うと、店内を見回した。あまり愛想もなく、かといって無愛想でもなく、ちょうどいい退屈感で、「こちらはどうですか?」と案内した。
「シロク……ナイ」
花は咲いてなかった。
「待雪草といいます。白くて小さな花が咲きますよ」
「マツユキソー」
ください。
「贈り物ですか?」と聞かれたのでぼくは首を振った。
「あ、あげるけど、袋にいれてくれればいい」
ってぼくの理想形を告げた。
マツユキソーを待っていると、花屋のおばさんが入ってきて、「いらっしゃいませ」とにこにこしながら言った。「ねえ、パンジー元気がないから見てあげてね」と息子に声をかけていた。ぼくは驚いていた。おばさんは、白い杖をついていたからだ。思い出した。息子はそっけない返事をしたけれど、ぼくは知っている。お母さんが交通事故に巻き込まれて、目が見えなくなって、写真家を諦めて家を継ぐような優しい子なのよって。オバーが言ってた。
店を出て再び歩くと、マーチンとマチユキソーが交互に視界に映った。途中、おいしそうな匂いがして、お腹がグーって鳴った。空からも飛行機がグーって鳴いた。見上げると、飛行機はとてもおいしそうな飛行機雲を作ってた。
商店街に入ってすぐ、ぼくは立ち止まった。「吾区町商店街」、通称「ア区」。桜が名所のせいで、桜の形をモチーフにしたものが多い。その桜は墨色がかって珍しいらしく、おかげで、駅からここまでのくすぶった暗色に浸るたび、ぼくの神経は撫でられていく。
ウォールナんとか色の壁と、黒枠の窓。小さいころ、この店の前で遊んだ。窓は高くて、飛び跳ねても中を見ることは出来なかった。今、中を覗いて見えるのは、看板と酒の瓶だけだ。真白く塗られた格子戸が開いて、中からロックミュージックが溢れてきた。
「おかえり、祈流。言ってくれれば迎えに行ったのに」
“伯父さん”と言うと、怒るけれど、伯父なんだからしかたない。
「最後にア区を見たかったの」
オバーの仏壇に花を置いてただいまって言った。花っていっても、まだ花は咲いてない。どんな花が咲くのか、ぼくは知らない。伯父さんの奥さんが顔を出した。「奥さん」って呼ぶと、名前で呼んでよって言われるけれど、奥さんなんだからしかたない。
「楽しみね。とても可愛い花が咲くのよ」
「ジャムトーストよりも?」
「そうだね、ジャムトーストぐらいかな」
奥さんは言った。じゃあ、きっと可愛いね、そう告げた。
「ダイチは?」
奥さんは、人差し指を上に向けた。ぼくは屋根裏部屋に上がった。オジーの趣味の部屋だ。大きい望遠鏡が置いてある。大きな収納ボックスにはレコードが並べられていて、静かなミュージックが部屋全体を包んでいる。ぼくはよくこの部屋に来ては、夜を眺めた。ほとんどをこの部屋の中で過ごしたと思う。ダイチは、望遠鏡を磨いてた。
「今日はよく見えるよ」
「くじらは見えるかな」
ダイチはロマンチックなロマンスグレーのオジーだ。いろいろな神話をこの部屋で聞かせてくれた。自分の子供たちに変な名前を付けたり、ぼくたち双子の名前をつけたのもダイチだ。ダイチはロマンスグレーなロマンチッカーなのだ。
夜には変な名前のママンと普通の名前のパパンもやってきて、みんなでごはんを食べた。ママンは家に帰ってきたらと言ったけど、断った。ぼくがぼくでなくなっていく姿を誰にも見せたくはなかった。きっとぼくは弱る。
伯父さんが車で送ってくれた。街が後ろに動いてぼくが進んだ。空はずっとそこにあって、ぼくはさっき見たくじら座を描いた。目が見えなくなっても、こんなふうに暗闇の中に星を描けると思うと嬉しくなった。ぼくは夜の中を進んだ。ぼくはぼくが流れ星みたいだな。と思った。ラジオからぼくの曲が流れてきた。伯父さんが歌った。ぼくも歌った。帰り際、「夢を叶えてくれてありがとうな」って言われた。伯父さんは小さいころからぼくに歌を教えて、プロになれよって言っていた。でもね、伯父さんを見ていると、楽しそうにギターを弾いて、時々ライブをして、仲間がいて家族がいて、それは幸せなことなんじゃないのかな。なんて。ぼくも意外とロマンチッカーなのかもしれない。
暗い部屋に帰る。
ジャムトーストはまだ、生きている。ただ少し、機嫌を損ねただけだ。
次の日は一日中寝ていた。なんの予定もないなんて何年ぶりだろう。未来なんかなくてもいい。闇の中で起きた。電灯を点ける。もう日付が変わっていた。腹が減ってコンビニに買いに行く。そんな繰り返し。テーブルの上はゴミが溜まっていくし、ジャムトーストは、かろうじて、生きていた。
三日も経つと、暇になった。時間ってこんなに長いんだ。ぼくは少し、未来が怖くなる。ジャムトーストは、腐りかけている。でもまだ生きている。
コンビニの帰り道、偶然知り合いに会った。一番会いたくないやつだ。ぼくはこいつが嫌いだった。生意気だし、ぼくのバンドより有名で人気があって、「ほんと嫌い」。そう言うと、きまってそいつは鼻で笑うみたいにぼくをあしらう。小さいころ、一緒に遊んでいたことがある。その時から、もうすでに生意気が出来上がっていた。そしていつも自分の弟を守って、とても強かった。心が透きとーるように綺麗で強かったんだ。そいつがお兄ちゃんなら、ぼくの弟のことも守ることが出来たのかもしれない。ぼくの弟がいなくなって、泣いてばかりいたぼくに、そいつは言った。楽しかったこといっぱいあっただろ。形は残る。お前はこれからもずっとお兄ちゃんなんだぞって。その言葉は、ぼくの心の奥を照らした。
「そろそろひとりになってビビってるころかなって思ってた」
「まあね」ぼくは答えた。そいつの口ピアスを見ながら、「そろそろ外さなくちゃな」とつぶやく。もう必要のないものだ。「でもね、ぼくが怖いのは未来でもひとりになることでもないんだよ。ピアスの穴が塞がること」
「安心しろ」そいつは言った。「どんな世界にも光はある。それに、祈流は祈流だ」
「うん」
ぼくは頷いて言った。
「最悪だよ。最後に見たのがレイだなんて」
かろうじて見えるレイの後ろ姿は、かろうじてかっこよかった。
ピアスを一個一個、時間を掛けて外した。口元と耳を覆うようなピアスはぼくのトレードマークだった。ぼくはもう“KiL”ではなくなる。
ピアスの穴が塞ぐころ、ぼくの視界は完全に閉じた。ジャムトーストは、もうどこにも見えない。
ジャムトーストは死んだのだ。
ぼくは闇の世界の片隅で、有る。
空にはくじらが泳いでた。