8話 『勇気』
「ティアラァッ!」
脳裏に蘇る、あの時の記憶。
まるで、パールのように美しき白い肌に穴が開き、そこから衣が赤に侵食されていく。
さらに、生の色が消えていく、エメラルドグリーンの瞳。彼女は倒れ、その地面に生々しい血の湖を広げていく。
「わかりませんか? どんなに嘆いても、喚いても、運命が変わる事は決して無い。貴方の妹さんは、このようになる運命だったのですよ」
凛とするような声は、静かに耳に響いた。
俺の正常心は氷結し、憎しみと怒りが俺の心を黒く染め上げた。
忘れることはない。
忘れてはならない。
忘れることができない。
「許さない……殺してやる……!」
目の前の白い少女に、憎しみを込めて長剣を向ける。
今の俺にはもはや、彼女の首と、その先に起こる未来しか見えていない。
切られ、掲げられ、咀嚼される。
あの女の未来は、それが決定事項だ。それ以外の未来は、絶対に許さない。
絶対に、殺してやる……。
「貴方に、そのようなことができますか? 答えは否です。私を殺すことなど、運命が許しません」
床を蹴った。
木材がめくり上がるほどの、誰しもが、消えたと判断するであろう速さ。
棒切れのような華奢な首に、鋼の刃が迫る。
殺したと確信したのは、飛びかかる遥か前。
突き刺さるに決まってる。
殺すに決まってる。
俺のために、絶命しろ。それがお前がすべき報い、そして、使命だ。
「お兄、ちゃん」
背後から、声が聞こえた。
か細くて、掠れていて、今にも死にそうな、妹の精一杯の声が。
弾かれたように振り返り、俺は、動きを止めた。止めて、しまった。
「や、めて……」
……止めるべき、だったのだろうか。
「が! ……ァッ……」
「言ったでしょう? 否だと」
脳は考えているのに、身体が静止している。
その原因を突き止めることができたのは、反射的に背後を振り返ろうとしたからだ。
俺の背中に伸びる、黒い剣が見える。
それは三分の一ほど欠けている。その部分は、それとしての役目を果たしているらしかった。
痛みは全く感じない。感じないけれど。
やがて、俺は夥しい量の命の分子を、口から吐き出した。
刃は失っていた部分が戻っていき、俺から徐々に遠ざかっていく。
「ぎっ、ざまぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
これほどしゃがれた声が自分が発したものだと思うと、身体の震えが止まらない。
それは恐怖なのか。それとも憎しみなのか。
膝から床に崩れ落ち、したがって胴体も同じように地面に着いた。
変わり果てた妹の姿が、必然的に目に入った。ほぼ反射と言える感情の変化で、必死に立ち上がろうとした。
俺は動ける。
この剣で、あの女を殺せる。
殺せるっていうのに!
なんで身体が動かないッ!
力を入れるが、比例して血の排出量も大きくなる。まるで、光と影のように……。
「…………シネ、よぉ」
「醜い、ゴミクズですね。運命に抗うことなど、到底できるわけがないのに」
視界が溶けていく。
歪んでやがて消えていく。
なのに、ティアラの可愛げな顔だけははっきりと見えた。
「ティアラ……」
あぁ、あぁ、ティアラ。
この手を、伸ばした手を、掴んでくれ。
俺はお前のために。
こいつを倒そうとしたのに。
俺はそれが、できなかった……。
「お兄、ちゃん」
ティアラにも、まだ辛うじて意識があった。
俺は手を伸ばした。ひたすら、薄れ行く意識の中、それに注力した。
「この世界を……とめ……」
「……あ」
ティアラの伸ばした腕が、漆黒の剣に切断された。妹の頭が床に落ちる音に、事切れる音に虚ろな気分に見舞われた……。
俺は、ティアラを、守ることが、できなかった。
◆
俺とシェイドの戦いは、歴戦の中でこれまでにないほどに苛烈を極めた。
一進一退の攻防。火花飛び散る打ち合い。
銃を乱れ撃ちして、一瞬で逃げ場をなくす俺だが、シェイドはその狭い隙間を縫って俺に突きを繰り出していた。
紙一重でレイピアを避けつつ、確実にシェイドに弾を当てる。
シェイドの身体には、段々と疲労が蓄積し、段々と動きが鈍ってきていた。
それは俺も同様だったが、俺の方が年齢差もあってか一枚上手のようだ。
「調子に……乗ってぇ!」
シェイドが歯を食いしばって剣を振るう。
初めて見た表情だ。シェイドが苦戦する様子は、今の今まで見たことがない。
「……俺は悲しいぞ、シェイド・ルシファー。お前はいつも高いところから俺を見下し、俺に膝をつかせてきた。何度やっても、俺はお前に勝つことはなかった」
引き金を絞る。
もうボロボロになったシェイドのワンピースに、さらに肌ごと切り口を作る。
「……なのに、なんなんだこのザマは。もしかして、俺を殺すのを躊躇っているのか?」
「ッ!」
「俺はお前の奴隷だ。飼い犬以下の存在だ! そんな俺には、慈愛もクソもない筈だろう! さっさと本気を出せよ主君! これではいつも相手をしている兵士かクズ同然だ!」
これで最後の魔力弾だ。
俺はシェイドの額に照準を合わせ、トリガーを……。
「……それは、貴方も同じでしょう?」
「……何だと」
シェイドに銃口を向けたまま、その言葉に撃ち抜かれたかのように硬直してしまった。
「私は分かっているわ。貴方は私を殺せない」
突如として、自らのうなじに冷たい感触が走った。
いつの間にか、目の前にいた筈のシェイドが消え失せていた。
……つまり、やられた。この冷たさは、レイピアの剣尖の冷たさだ。
「……私達は、お互い私達を殺す事を躊躇している。やろうと思えばやれるのに、そのやろうっていう気がなかなか起こらない。戦いの中、本当は、貴方は私の頭を撃ち抜ける機会が何回かあった筈よ」
「そんな、そんな筈はない。俺はずっとお前の額を!」
狙っていた。
弾も魔力が空になるまで放った。
一発も頭に当たらない筈が無い。
「でも、貴方は、私の胴ばかり、しかも擦り傷ばかり作った。もう、全身ヒリヒリして気持ち悪いわ。いっその事、殺してもらいたいとこね」
「…………ッ!」
またしても、またしても膝をつくことになってしまうとは思わなかった。今回の戦いは、絶対に勝てると思っていた。敗北のことは、微塵も考えていなかった。
涙が、流れ落ちる。
「何故俺は、主君に勝てない! あんなに、あんなに鍛錬を積んだ筈なのに」
拳を思い切り、地面に叩きつけた。痛みは最早、感じない。悔しさが脳内を埋め尽くしていたのだ。血の滲むような特訓を、してきたつもりだった。
全ては、ティアラを助けるために。ティアラを助けるためだけに。やってきたんだ。
「鍛錬じゃない。情よ。貴方は私に情があるの。だから私を殺せない」
「情……?」
俺は沢山の生あるものを殺してきた。
そいつらは全て、誰に向ける情もなく俺を殺そうと飛びかかってきた。
俺もそのはずだった。敵にかける情なんてない。戦とは、そういうものだと自分に言い聞かせて、人を殺し続けた。
もしかしたら、愉しささえ感じていたかもしれない。
今回だってそのはずだった。なんの迷いもなく、敵を絶命させるつもりだった。
情なんて、持っているわけがなかった。
「人を殺す為には、殆どの場合は情を捨て去らなければならない。その情を、貴方は捨て切れなかった。情さえ捨てていれば、貴方は私を殺せたはずよ」
そのはずだったのに。
「俺はティアラが愛しい。だからティアラのためなら、情を捨て去って生命を屠ることなんて、容易いことだった。俺は敵を屠る……ティアラの仇を取る為に」
「本当にそう思っているのだとしたら、貴方は誰彼構わず敵を殺さない、その筈よ。貴方がやっていることは、妹さんがいなくなった居場所を、血で埋めているだけ。ティアラの仇を取ろう、なんて、微塵にも思っていない」
「……そんな」
不意に、首が仄かな感触で包みこまれた。隣にはシェイドの顔があった。目をつむり、何かを祈っているような顔だった。
俺はその顔をじっと見つめた。
「……かわいい、子犬ね。残酷な子犬ね。凶暴であるのに、いつも寂しそうに泣いている。飼い主がいなくなったことが、容認できなくて、雨が滴る天気の中、行く宛てもなく、ご主人様を探し続けていた。そして貴方は私に拾われた。心の拠り所を見つけた筈だったのに、まだ密かに想っている。ティアラに会いたい、と。……そうでしょう。ロイド」
「…………ッ!」
耳元で響く、一言一言、包み込まれるような声音。助けの、手のようだった。深い谷底に堕ちてしまった俺を、すくい上げてくれるような手だった。
「俺は……一体…….なんてことを……」
涙はさらに俺の頬を伝った。
「何てことを、してしまったんだ……」
前髪をちぎれんばかりに引っ張って、歯を軋ませる。
「あなたは謝らなければならない。妹さんを求めるあまり、妹さんの嫌いなこと、『意味のない戦』をしてしまっていた……。今、あなたの妹さんは、どこで、どんな顔をしているかしら? 今のあなたを見たら、きっと幻滅するでしょうね。『私の兄は、こんな人じゃない』とね」
「……ティアラ」
「D1。あなたの使命は、人を殺すことじゃない。人を守ることのはずよ」
俺は、「ティアラを助けるために奴隷になる」と言い、主君のもとについた。
だが、それは違った。ティアラを助ける、守る、そんな言葉、嘘だったんだ。ティアラは、既に失っていた。
ティアラを殺した神聖軍を、根絶やしにしてやりたいから、奴隷になった、それも違う。
俺に復習する勇気なんて、ない。
ティアラがいないことが、怖かったのだ。
ただ、ティアラが欲しかった。
ティアラを求めていた。
「……すまない」
しゃがれた呻き声を、どれだけ上げていただろうか。シェイドの体温が身体を包み込む感触は、まるでティアラの笑顔のように、あたたかかった。
ティアラがそこに、いるような気がした。