その5
真実、おそろしいほど拍子抜けする真実
思考は常に感情を先取りする。逆もまた然り。
確かに人間は数世紀前よりもあらゆる痛苦に対して敏感で脆弱になっている。
ある集団の中で高い能力を持つとされる実力者が、必ずしも高い人格を有しているわけではないという事実は、人間の悲劇のうちでも最たるものの一つかもしれない。
世間で「本音」と呼ばれているものは、しばしば単に理想やそれまで社会の中で支配的だった建前への反動といった表向きに対しての裏面や影であることが多い。その裏面や影を、ただちに自らの本分であるとか、人間の唯一の本性などと見なすのは、あまりに早計であり危険である。物事には必ず表裏、陰陽、善悪などの両面があり、例えば、暗くシビアな面だけが人間の真の本質と見なすのは、まるで地上には夜しか存在しないと思いこむようなものなのである。物事の認識が善に偏るのも悪に偏るのも極めてアンフェアである。
奴隷の反逆。
「私はあなたに気に入られようと必死でした。でも、最近やっと悟りました。多分あなたは私が何をしても何かしら不満を抱くのでしょう。そして、私が完全にあなたの望み通りになればなったで、まさにそのことがあなたを苛立たせるのでしょう。そういうことで、これからは好き勝手にやらせて頂きます」
奴隷はそう言って反旗を翻した。
新たな可能性の扉が開かれると、同時に新たな悪への可能性の扉も開かれる。
現代の都会では、女の獣性は妖しくも色鮮やかに映えるが、男の獣性は暗く不気味にくすむ。男の獣性が生き生きと映えるのは、ただ過酷な自然環境においてなのかもしれない。もしかしたら、多くの男たちにとって、洗練された文明社会の中で生きることは、監獄に片足を突っ込んでいるようなものなのかもしれない。
今日、確かに家父長制の一つの在り方に限界が見えるのかもしれない。それが家父長制そのものの終焉を示すものなのか、家父長制の新たな形態への移行期にあることを示すものなのかは定かではないが、そのことで古くなりつつある家父長制の形態が、人類の歴史の中で絶対的な誤りや悪だったと断定するのは浅慮である。ある時点まで、それは共同体を維持するにはもっとも合理的で有効な在り方だったと考えられる。しかし、人間社会というものは常に変化し続ける。ある家父長制の一つの形態の終焉は、いずれはどのようなものも古くなっていくというただその事実の一端を示しているのである。
今日における中年男性の価値の凋落は、あるパターナリズムの一形式が陳腐化していく症候の一つと考えられ、中年男性のネガティブイメージは、大方その象徴的イメージとも言える。現在のところは、社会の変動が急速であればあるほど、中年男性は多かれ少なかれ、必然的にそのイメージを体現させられる宿命を背負わされる傾向にあるのかもしれない。
おそらく、男女の在り方に絶対的正解などない。文明の進歩具合に応じてその時その時で比較的望ましいであろう形がぼんやり見えるのみである。
近年よく耳にする社会学者たちの大衆の知性や感情の劣化という認識、あるいは表現は、必ずしも適切なものではない。確かに「劣化」と見られるような様相はしばしば観察されるのかもしれないが、それは「退行」、「陳腐化」、「原始的表出」などと言い変えた方がより正確と言えるだろう。大衆の知性や感情そのものに質的な劣化が起きているというよりも、むしろ、それらが置かれる空間が変化したのである。また、それは、それらを捉える一般的な視座が変化したとも言える。ここでの変化とはより洗練されたものになったと言えるかもしれない。現代の幾つかの社会問題は、人々がより愚かになったからというより、ある意味でより賢くなったために起きているといっても過言ではない。社会のシステムに変動が起き、人々の意識や感覚が全体としてより洗練され、空間が変位すれば、そのことで相対的に時代遅れとなった思考様式、行動様式、感情表出様式が、より野蛮で幼稚なものとして認識されるようになるのである。
今日、自らの権力性、加害性、暴力性を全く省みないのは、一つの思考や感情の野蛮とも言える。
男の演じる女らしさと女の演じる男らしさというは大抵幾らか古臭い。
神の復活。十九世紀も終わりに近くなった頃、ニーチェは「神の死」を宣告した。もしニーチェが本気で神は死んだと思っていたのなら、それは大きな誤謬に思える。必ずしも神は死んだというわけではない。もっとも、そもそも神が存在するのかどうかという問題は残るが、ひとまずは、ニーチェの言った「神の死」は、人々が「神性」に通じるためのヌミノース体験に至るための手続きが近代化によって形骸化、陳腐化したことを示す比喩として捉えるべきなのである。
地獄とは、心理主義的に定義すると、神経症的な心象風景である。
ある歴史観。
「ああ、思い返すと本当に歯ぎしりしたくなることばかりです。様々な困難をもっと賢く乗り切れたと思うし、様々なことをもう少し効率的に学ぶことも出来たはずなのです。ただ、やはりそれは過去のことだからそう言えるのであって、全てが不透明で不確実だったその時その時は精一杯の判断、行為、選択だったのでしょう。その時その時、一体僕にあれ以上の何が出来たのでしょうか。後悔することは数限りないですが、あれ以上のことは出来なかったという気もします。おそらく、それが己という者の限界だったのでしょう」