その3
ナポリを見ぬまま生きろ
誰も信じられないというのは実に寂しい。しかし、誰かを信じ過ぎるということは実に危うい。
愛の気まぐれ。彼女は愛が無いと彼を責める。だが、彼がいざ愛に生きようと覚悟した途端に、彼女は愛なんて不毛と彼を突き放すのだ。
時々、男女間に中立的で公平な絶対的第三者という存在があれば良いのにと思う。
男女平等とは、結局のところ、双方のエゴイズムが均等に調整されバランスが保たれている状態なのかもしれない。もっとも、そのことを正確に測る術などないが。
五歳くらいの少女からおじさんと言われたら、もうおじさんなのだと思う。
人間の思考様式や行動様式の陳腐化と古典化。時代による社会構造や社会環境の変化、人々の価値観や意識の変化により、同じ考え方や言動でも、年月を経ると意味合いや印象が異なってしまうということは多々あり、かつては大人の振る舞いとして機能したような言動も、今現在では子どもじみていたりグロテスクだったりすることがしばしば起きる。このことを、鉄道で類推してみる。電車の性能や車内設備というのは、技術革新やサービスに対するニーズの変化などにより、数十年も経てば、年月による物理的劣化だけでなく、性能や設備そのもののデザイン性が、今現在の実態に追いつかなくなってきたり古めかしくなってきたりするという事態が起る。所謂陳腐化であるが、人間の思考様式や行動様式も同様であるのだろう。社会構造や社会環境、さらには人間の価値観や意識が時代と共に変化していく限り、それらも次第に生きた有効性が失われ、形骸化し、陳腐化していくのだろうと考えられる。ただ、鉄道の場合などは、陳腐化した性能や設備も、さらに時間が経過するに従い、ある種歴史的でレトロな色合いを帯びてくる場合がある。そこまでくれば、それはすでに歴史の一部として古典化されつつあると言えるのかもしれない。人間の思考様式や行動様式もまた同様であると考えられる。過去の優れた哲学、思想、宗教などは、人間の普遍的な思考様式の歴史的記念碑として古典化し、教養的な学問にもなる。行動様式の場合、古典化されたものの中には、歴史小説や時代劇などの芸術表現やエンターテイメントの演出の中で、フィクションとして楽しむことが出来るようになるのかもしれない。ただ、それを今現在の社会の中で実際にやろうとすれば、全くの狂気沙汰になる可能性があるものもある。例えば切腹などがそうだろう。また、社会構造の変化や人間の価値観や意識の変化によって、ある思考様式や行動様式が陳腐化してくると、人間の悩みや葛藤も陳腐化していくものがあるようだ。例えば、自我に目覚め、過剰な自意識によって感じる生き辛さや奇矯の振る舞いといった、昭和初期の頃までは立派に文学のテーマとなりえたような事柄も、今現在の日本では「中二病」などという思春期に有りがちな自己愛的心性の滑稽さを表す極めて矮小化されたイメージで扱われたりする。もっとも、時代の変化に左右されない普遍的なものも多々あるだろうし、時代による人間や社会の変化が必ずしも進歩とは限らないことは言うまでもない。
一つの芸術的表現の普遍的価値が浮かび上がってくるのは、ある程度の年月が必要なのかもしれない。
今現在では正しいとされる最新の言説も、百年後には覆されているか、あるいは、何らかの修正が施されていると考えてまず間違いない。
ロマンチシズムの不滅。おそらく、この世の全てを説明できる究極の統一原理など存在しないのだろう。少なくとも今の段階では、そのようなものがあると考えるのはあくまで仮定でしかない。もし、そのようなものが実際にあるとしても、決して人類の手には届かないものなのかもしれない。しかし、それはそんなに悪いことではないように思える。何故なら、人類にとって謎や可能性はいつまでも尽きず、常に未来に向かってさらなる普遍性と意味を求め、模索し、創造することが出来るからである。個人的にはこれをロマンチシズムの不滅と呼ぶ。一方で、さらなる普遍性や意味への模索をやめ、一つの考え、価値観に固執し、そこにとどまること、もしくは、それを教義化することを、思考の停止、さらには、ロマンチシズムの放棄と見なす。ただ、それが決して絶対悪なわけでもないと思う。
集団心理は個人のそれよりも大抵野蛮であるに違いない。
ある愛の不能者の愛する者への態度。自分と深く関わることで幻滅されるより、関わらなかったことを後悔される方がましだと思ってそのように仕向ける。
彼は怒りや憎しみを誰にも向けられない。誰かに向けようとすることがあっても、最終的に全て彼自身に向かう。
彼はとにかく新しい状況が苦手である。
彼はとにかく何も選べない。彼は、対象が人であれ物であれ、選ばれなかったものが可哀そうで仕方なくなるのだという。
彼は幾年もの間、助けを求める声を上げることもなく、恐ろしい虚無と沈黙の中に身を横たえ、ひたすらじっとしていた。何という我慢強さ。
社会の成熟と若者の意欲喪失。人間がより理性的で倫理的になっていくと、規範意識が欲やエゴイズムを過度に抑え付けるという事態も起きるのかもしれない。おそらく、大抵の文化圏において、規範意識の拠り所となる従来の多くの倫理的価値観というのは、社会秩序を保つためや、あるいは、人間が求不得苦などの様々な苦痛から救済されるための、人間の持つ欲やエゴイズムをいかに抑えたり捨てたりするかという意味合いが強かったように思われる。よって人間の倫理観念は、どちらかといえば欲やエゴイズムというものに否定的であり、それは常に理性へと結びついていたと考えられる。それ故、より理性的な人間は、自身の欲やエゴイズムを抑えたり否定的になったりする傾向が強まると考えられる。社会の成熟とは、より多くの人々が、より理性的で倫理的になることだとすれば、社会が成熟するにつれ、若者から野性的な意欲や魅力が削がれていく傾向が現れるのは、極めて必然的な成り行きに思われる。そして、これも人間の本能の一つであるということも出来るのかもしれない。
ヒト差別。ヒトという動物は、思考という機能が、他の心理機能を圧迫するまでに異常に発達した奇形である。
自主性を強制するという矛盾に気づかずに押し付ける奴らに用心。
社会には、物理的・社会的なセーフティネットだけでなく、ある種の思想的・宗教的なセーフティネットも必要なのかもしれない。もしかしたら、それは社会の中に矛盾する複数の価値観や世界観を同格に並存させることなのかもしれない。
人々がどんなことに対して滑稽さを覚えて笑うかで、その社会の文化的水準がある程度測れるのかもしれない。
厄介な本末転倒な人々。ただ何かを批判したり攻撃したりといった欲望を満たしたいが為に、その材料を躍起になって探し求める人々。
それ程深くない苦悩はやたら大声を上げたがるらしい。
いつの時代にも、その時代の性格ゆえに憂き目に遭う人はいる。平和な時代でさえ、何らかの生贄を必要とするらしい。
知恵というものは、ただ知り得ることは簡単かもしれない。しかし、それを十分に消化し身に付けるにはある程度の年月と経験が必要なのだろう。