その2
熟れる前に腐ってしまった果実の嘆き
ロシアのイヴァン雷帝は、自分に跪かないという理由で象を殺せと命じたという。僕は、道行く人が自分を知らないというだけで傷つき、そして時には怒りさえも覚えるのだが、そんな傷つき易さは、もしかしたら、独裁者的狂気とやらに通じているのかもしれない。
我が悲願。図太くなりたい。
一年に一日くらいは有頂天でいさせてくれ。
作家が実在の人物をモデルに何かを書く場合、その人物をいくら好意的に扱って描くにせよ、それはその人物に対しての一種の冒涜と考えた方が良いのかもしれない。
疲れた時は休めば良い。たったこれだけの知恵を体得するのに四十年近くかかってしまうとは。
現代の思春期少年に見られるある宿命的愚かしさと不幸。余りにもアンバランスで早急な精神と思考の飛翔をしがちなこと。少年の持つある特質は、少なくとも現代の日本社会においては、不幸にもマイナスの作用を通してしか発揮されないことがある。
少なくとも僕は、お酒とニーチェは二十歳を過ぎてからにすべきだったと思う。
かつて、ザ・フーというロックグループは、十代は不毛であると歌った。しかし、個人的実感では二十代以降もなかなか不毛である。というより、もうね、年取るごとに不毛さのリアルな重みが増してくるのよ。まったくもってぞっとする話だね。
ウェルテルの心情や振る舞いを、そのまま現代に生きる青年のものとして思い描くと、何だかちょっといけすかない奴になるよね。
科学と啓蒙思想は、人類にとって「禁断の果実」第二弾なのかもしれない。
現代の日本人が怪談話や怪奇現象の話題に興じるのは、近代以降に日本人から失われたヌミノースを取り戻そうとする精神的作用の一種なのかもしれない。
中学時代、何故か僕のことを乞食と呼ぶ奴がいた。今になって思うと、彼は僕の未来の姿を見ていたのかもしれないと時々思う。
人生の引き際。どうやら僕の人生は失敗らしいが、あと一年だけ様子を見てみよう。そう言いながら早十余年か。もうそろそろ……。
自殺は罪だという。しかし、大抵の場合、自殺した者を咎めたりするのは余りに残酷に思える。人は時に、ある種の精神の底なし沼に嵌るという不運に見舞われることがある。そうした場合、何らかの幸運に恵まれるか、余程の天分に恵まれない限り、その底なし沼から自力で這い上がることはほとんど不可能に思える。他からの何らかの救いの手が必要なのである。そして、その救いの手とは、当人にとって何らかの実存に触れる契機となる何かである。だが、それが具体的に何であるのかはケースバイケースで、見極めるのは難しいのだろう。彼らはほとんどの場合、不運にもそうした救いの手が差し伸べられなかった者たちなのだ。
ある生活不能者の自己不信と懐疑癖。例えば、車の運転中に道案内する同乗者にそこを左に曲がってくれと言われた際、彼にとっての左は本当に同乗者にとっても左なのかという疑問がふと脳裏をよぎるのである。そうした一瞬の迷いのうちに、彼は左に曲がる機会を逸し、同乗者を大いに苛立たせることになるのである。もっとも、こんな具合であるから、そもそも彼は自動車の免許自体なかなか習得出来ないのかもしれない。ああ、彼の生活や人生には、何とこうした些細な迷いと失敗の事例に満ち溢れていることか。
ジェネレーションテロリスト。俺は脆弱性という爆弾を胸に抱えて生きてるんだぜ。
歴史。後になれば何とでも言える。でも、先のことが分からないその時その時は、それがぎりぎりの判断であり選択だったのだ。だからといって、過ちや罪が許されるという訳ではないが。
個人的実感から言うと、神仏といった物理的実体を持たないものにすがるのは、精神衛生上合理的なのかもしれない。物理的実体を持つものというのは、勿論人間も含め、余りに不完全で限りあるものだし、寿命があって何時かは消えゆくものである。全面の信頼をもってすがるには余りに頼りなく儚い代物なのである。一方で、物理的実体を持たないものは、それを思う限り消えることは無いのである。
人間が物理的・生物的存在である以上、人間の愛はエゴイズムに束縛される。
エゴの戦いは、常により野蛮で卑劣な方が勝利する。
どんなにささやかな真理でも、使い方次第では猛毒にも凶器にもなる。
その時々民衆の間で猛威を振るっているのは、大抵既に古くなりつつある言説や道徳である。
その社会で一旦死んだ思想や道徳を、そのまま蘇らそうとすれば、亡霊として蘇らすことになり、おそらくろくな結果は出ない。
論理的思考もまた本能の一種といえる
言挙げの難しさ。事挙げは物事に対する態度、意識、行動を方向付ける舵のようなものかもしれない。不用意な悪意ある事挙げは確かに災いを実際に招くし、逆もまた然り。
言挙げが適切であったかどうかは、僕の場合、次の日の朝起きた時の気分で分かる。不適切だったなら死にたくなる程後味の悪い気分に苛まれる。そして、大抵はそんな気分に苛まれる。おそらく、事挙げには、どんなに用心しても、常に幾らかの不純な動機や意図が含まれてしまうのであろう。