イントロ
パシャッ パシャッ
ジリジリジリジリと大声で合唱するアブラセミの鳴き声がまるでゲリラ豪雨のようにやかましく降りそそぐ、小さな古墳程度の小山に建てられた(もしかしたら古墳だったのかもしれない)神社の境内を散策しながら、雄太は強い日差しと木陰のコントラストに目を細めながら、無人の簡素な社や、ちょろちょろと冷たさが心地よい水が流れる手水舎、ずんぐりした狛犬、絵馬掛、お百度石といったありふれた神社の風景を、父から借りたニコンのデジタル一眼レフのシャッター音を時折響かせながらメモリーカードに収めていった。
和歌山県と奈良県の県境の和歌山側のとある村落。母の話によると第二次大戦中に雄太の祖母、金城コマは、まだ生まれて間もない頃に沖縄から疎開というものをしてきて、そのまま戦後も沖縄に帰れずにここに住みつき、村の若者と結婚して四人の子供を生み、育て、都会へ送り出した。雄太が生まれる頃に祖父も他界して、しばらくはのんびりと一人暮らしをしていたが、ちょうど昨年の今頃、炎天下での農作業中に脳溢血で倒れ、そのまま帰らぬ人となった。
今までほぼ毎年、盆と正月には雄太の一家は、新横浜から新幹線で新大阪まで出てレンタカーで祖母の家まで向かうか、大阪に住む母の兄弟の家に寄り、車に便乗させてもらうかのどちらかだったが、今回一周忌の法要の折、大学も夏休みに入り、ファミリーレストランのアルバイト以外特に予定のなかった雄太は、テレビでよく放送されている「ローカル線で行く気ままな旅」のような番組に触発されたのだろうか、アルバイト先に少々無理を言ってまとまった休みを貰い、家族とは別に一人ポケットサイズの時刻表を手に初めて青春18きっぷを使って東海道を下り、京都を観光した後一泊し、翌朝ローカル線を乗り継いで五条という所へ向かい、そこから乗り合いタクシーなるものに生まれてはじめて乗り込み昼下がりにようやく祖母の家までたどり着いた。雄太の両親は夕方にはレンタカーで着く予定で、祖母の家の前の空き地には大阪ナンバーの車が三台ほど止まっていて、こじんまりとした平屋の一軒家の窓はすべて開け放たれて、話し声も聞こえてきたのですでに大方の親戚は到着しているものと察したものの、
「おお、雄ちゃん。久しぶりやなぁ。元気か? 大学はちゃんと行ってるんか?」
「あ、はい」
「なんや、一人で先に来たんやってな、どっかまわってきたんかいな」
「あ、京都に……」
「大阪やったらなんぼでも案内したるから今度遊びにおいでーな」
などといった、やたら声のでかい関西弁の叔父との会話を想像するだけで、母は普段標準語なのだがたまに怒ったときに出る、まくし立てるような関西弁の勢いが大変苦手な雄太はなんとなく気後れしてしまい、喉の渇きが若干気になるものの、まだ背中のザックには飲みかけのペットボトルのお茶が残っていたので、気づかれぬようそっと家の前を素通りして両親の到着まで時間つぶしのために辺りを散歩する事にしたのだった。
しかしここは高野山や、村からさらに一時間ほど山奥に向かって車を走らせた先にある十津川のつり橋などの観光資源とは言わないまでも、被写体になるようなものはまるで何もない、小規模な林業と農業で生計を立てる総戸数五十程度のくたびれた村落である。のどかな田園風景や、廃校寸前らしい小学校の木造校舎、そして村の中央の神社をカメラに収めるだけではたちまち手持ち無沙汰になってしまった。
雄太はとりあえず木陰のベンチに腰掛けてザックのサイドポケットからスマートフォンとペットボトルを取り出し、ぬるくなったお茶で喉を潤しつつ、アンテナ表示が頻繁に増減、時々圏外になるスマートフォンを操作して溜まったメールをチェックする。広告メールに混じって、母親から今新大阪に着いた、というメールが三時間ほど前に発信されていた。レンタカーが渋滞に巻き込まれなければあと一時間ほどで着くだろうか。
(さーて、どうしようか……昼寝をしようにもここいらは標高は高いからそこそこ涼しいけれどもやぶ蚊は多いし……)
などと考えつつデジタルカメラの画像を確認していると、背後から「にゃーん」と猫の鳴き声がした。振り返ると灰色のトラネコが石灯籠の傍らから雄太をじっと見つめていた。
「おまえ……えーとたしかミコだっけ?」
雄太はこの猫に見覚えがあった。誰かに飼われているでもなく村の家々を気の向くままに転々と寝起きしているという話で、雄太がずいぶんと小さな頃から、母の家の庭先にあらわれて煮干しやアジの干物なんかを祖母から貰ったり、祖母がテレビを見ているとその膝にちょこんとすわってまどろんでいたりしていたようなおぼろげな記憶がぽつぽつと雄太の心に浮かんできた。
いつだったか祖母に「この猫はいつごろからいるの?」と尋ねたことがあるが、「さあいつだったか、雄ちゃんが生まれたころだったかねぇ……」とあいまいな返事しかもらえなかった。そういえば昨年の葬儀の時もちらちらと姿を見かけたような気もする。仮に二十歳としてもかなりの長生ききなはずだが、今雄太の前に一年ぶりに姿を現した猫は、確かに記憶の中の猫と同一のはずなのだが、年齢をまるで感じさせないきびきびした動きと鼻っ端の強そうな顔をしていた。子供でも産んだのかとも考えたが、多くても一年に二度ほどしか見かける機会のない猫なのでなんとも判断がつきかねた。
(まあ時間つぶしの被写体にはちょうどいいか)とトラネコにレンズを向けると、さっとフレームから逃れるよう身を躱し、10メートルほど離れた所で立ち止まってまた雄太をじっと見つめた。雄太が少し近づいて再びカメラを構えると、今度は境内の入り口のほうへ駆け出し、また立ち止まった。
「なんだよ、こっち来いって言ってるのか?」
「にゃー」と鳴いた猫はささっと境内を出て、鳥居の傍らで「早く来い」といわんばかりに「にゃー」とひと鳴きしてからちょこんと座って毛づくろいを始めた。雄太はあわててベンチに戻り、荷物をまとめて猫の後を追いかけた。
猫は暑さのせいで早歩きかせいぜい小走りでしか動けない雄太がぎりぎり追いかけられるぐらいの速度でどんどん民家の少ないほうへ駆けて行った。猫は時々雄太が後ろをついてくるのをじれったそうに待ちつつ、アスファルトの道を外れ、まだ緑色の稲穂の稲穂の揺れる田んぼのあぜ道を通りぬけ、猫や雄太が一歩足を進める毎に足元をカエルやバッタなどが驚いて逃げてゆく空き地を通り、その向こうに見える薄暗い雑木林へ入っていった。
(確か林を抜けるとおばあちゃんの畑があるんだったかな?)
林の中には人ひとり分位の幅の踏み固められた道が、こちらに来る人はあまりいないのか雑草に侵食されながらどうにかついている。祖母の耕していた畑へは、雄太が小さな頃何度かついていったことがあり、祖母のほかにも近くに畑を作って農作業をする者が何名かいたように記憶しているのだが、祖母が亡くなった時、陽もとっぷり暮れた頃に祖母の家の前で猫が騒ぐのに隣人が気づき、祖母がまだ家に帰っていないのを不審に思った隣人が畑へ様子を見に行った所で倒れていた祖母を発見したと聞いていたし、もしかしたら誰もこの道を通る事は無くなってしまったのだろうかと思いあたり、なぜ猫はこちらの方へ雄太を連れて来ようとしているのか少し薄気味悪くなってきた。
林は薄暗く、ひんやりとした風がどちらからともなく吹いてきた。30メートルほど進むと、少し視界がひらけて、木の種類は雄太にはわからなかったが、かなり樹齢を重ねたように見える、しめ縄が巻かれた直径3メートルほどの広葉樹の大木が堂々と上空へ青々とした枝葉を伸ばしているのが見えてきた。その側には雄太がしゃがんだ位の大きさの、こじんまりとしたお堂が建てられていた。
雄太は「土地神様が祀られているからお祈りするんよ」と祖母が言いながら前を通るたびに手を合わせ、時にはお花を飾ったりお菓子やとれたての野菜をお供えしてたりしていたのを思い出した。
雄太は近づいてお堂の前にしゃがみこんだ。お堂の周りは雑草が伸び放題で、お堂も掃除された気配がなく軒下には蜘蛛の巣が遠慮なく張られ、湯飲みや供物台は泥をかぶり、燭台も手前に倒れて無造作に雑草の中に転がっていた。格子戸は閉まっていたが、内側は暗くてよく見えなかった。雄太は木の枝を拾って蜘蛛の巣を払い、お堂の前を片付け、少し申し訳ないと思いながら飲みかけのお茶を、ペットボトルから汚れた湯飲みに注ぎ、手を合わせて目を閉じた。
(おばあちゃんが亡くなってから誰も手入れする人がいなかったんだな……過疎化が進む田舎ならどこにでもあることなんだろうか。都会だってお地蔵様を掃除したりしてるのって老人しかやってるの見た事ないよな……あ、そういえば猫は……)
雄太は雑木林の中に入り、大木のふもとにやってきた辺りから猫の姿を見ていない事に気づいた。不安になった雄太は立ち上がって周囲を見回していると、突然大木から冷気をはらんだ突風が吹き付けてきて、雄太はおもわず立ちすくんだ。風が止むと雄太の周囲は、さっきまでうんざりするほど鳴いていたセミの声もまったく聞こえなくなり、足元にはもやが立ちこめてきて、急に周囲は分厚い雨雲が日光を遮ったかのように真っ暗になった。
(なんだこれ……ホラー映画かよ……)
鳥肌が立ち、冷や汗が脇を伝う。急に息苦しくなり、心臓が激しく脈打つ音が耳の奥に響く。雄太は雰囲気にすっかり呑まれて、大木に背を向け人里の方へ駆け出そうかとしたとき、
「きれいにしてくれたのか、礼をいう」と、背後からいきなり声をかけられた。
「わっ!」
雄太は跳びあがるほどビックリして後ろを振り返ると、大木の傍らに、古代神話に出てくるような白の装束に身を包み、翠の勾玉の首飾りをいくつも纏い、前髪を綺麗に切りそろえた長い黒髪の利発そうな少女が立っていた。
「驚いたかや、金城雄太」
少女は茶目っ気たっぷりにペロッと舌を出した。
「……はぁ?」
「ああ、陽子は結婚して苗字が変わってたのお、正しくは鈴木雄太か」
「どうして母さんや俺の名前を、てゆーか君は誰だっけ?」
雄太は誰か親戚の子供がいたずらでもしているのかと思い、中学生ぐらいの、コスプレ趣味の女の子が親戚にいたかどうか思い出そうとしたが、該当する子はまったく思いつかなかった。色白で細面に太くもなく細くもない少し垂れ下がった眉、パッチリした二重瞼の愛らしい目元、青とも碧ともつかぬ、見つめていると引き込まれそうになる大きな瞳、すっきりした鼻筋とちょっと上向き気味の鼻先、厚めの唇、こんな美少女が親戚にいたのなら忘れるはずもない。
「わらわの名はヤマトムタケヒメノミコト。コマはミコと呼んでおったゆえ、おぬしもミコと呼んでよいぞ」
少女は自慢げに胸を張った。
「いや……俺のばあちゃんがミコって呼んでたって……さっきの猫の名前じゃん」
「猫の姿は隠密行動をとるのに便利だからの。ま、今のこの、人の子の姿もかりそめじゃがの」
と言いながらくるりと裾をひらめかせながら一回転してみせた。
「あー……子供の遊びに付き合ってるヒマはないから。ところでさ、こっちに猫来なかった? 灰色の猫なんだけど」
「来てるぞよ」といって少女は自分を指差している。
「じ……冗談はよし子さん」
「おぬしは平成生まれじゃないのかえ? そんな古いギャグよー知っておったのお」
雄太はため息を小さくついて少女の冗談に付き合うことにした。
「ばあちゃんが使ってたからさ。何で君は古いって知ってるの?」
「コマの家でずうーーっとケーブルテレビを見てたからのお」
「ふーん。で、君は化け猫かなにか?」
「無礼者、わらわは神ぞ。ここいら一帯を護る土地神じゃ。下等な妖怪と一緒にするでない」
「……」
「近頃の若者は誰でも簡単に神扱いじゃから疑っとるのかも知れんが、わらわは正真正銘の本物ぞ」
「じゃあ証拠は?」
「ふむ、後々の事もあるから今のうちに見せといたほうがよいか。それっ」と言って掌を合わせて目を閉じると、少女の姿が忽然と掻き消え、灰色の猫に入れ替わってしまった。
「わっ!」
「ここはわらわの結界故、変身変化はお手の物なのじゃ」
猫はお堂の前を優雅に歩きながら、人間の言葉を喋っている。雄太は信じられない思いで必死になにか手品の種があるに違いないと周辺に目を凝らしてみたが何も発見できなかった。
「信じてくれたか?」
「うーむ……とりあえず反論できる根拠はないです」
雄太の返答を聞いて満足そうに一つうなずくと、猫はしばし目を閉じ、あらたまった声で話し始めた。
「雄太よ、おぬしここを見てどう思った?」
「ああ、ずいぶん荒れてるな、と」雄太は、猫が日本語を喋っているのをまるでアニメのようだと違和感を感じながらも神妙に答えた。
「そう、ここはわらわの……いわゆる御神体を祀っておるのじゃが、コマが亡くなってからはだれも祈りを奉げる者がおらぬようになって次第に荒れ果ててしもうたのじゃ。しかも!」
「……しかも?」
「嘆かわしい事じゃが、ここらに瓦礫の処分場を作ろうかと村の者共が相談しておるのを立ち聞きしてもうた」
「瓦礫って、震災の?」
「うむ、おおかた金に目が眩んだのじゃろうが……このままわらわを祀るものが絶え、土地が荒れてしまうと、わらわと土地の縁が切れて、誰も土地を護るものがおらんようになってしまうのじゃ。ほれ、よくゲリラ豪雨で土砂崩れが起きた、というニュースをやっとるじゃろ?」
「そうだね」
「すべてがそうだとは言わぬが、あれはその土地土地を護る神がいなくなったり、信心する者が少なくなって土地神の力が弱くなったりしてしまったからなのじゃ」
「……じゃあこの村も……」
「そうなる可能性がかなり高くなる……そこで!」
猫の姿が掻き消え、入れ替わるように少女が現れた。今度は先程までの古代の装束ではなく、セーラー服をカラフルにアレンジしたようなアイドルがよく着ているような衣装になっていた。
「そなたの力を借りたいのじゃ、雄太よ」