第十一項
大きく息をして呼吸を整える。どれほどの時間戦っていただろうか、ミコットの体も限界に近い。それでも何とか休むことができる状態を作り出すことができていた。
襲い来る蟲達を全て退けたという訳ではない。話は単純である。ミコットとセフィリア、両名を囲むようにして強めの魔術障壁を展開した、それだけである。
「何でもっと早く気付かなかったんでしょう…」
大きなため息とともにミコットが項垂れる。
最初の内は馬鹿正直に飛びかかってくる蟲共を叩き落としていたが、とても途絶える様子はない。終りの見えない作業というのはそれだけで精神を疲弊させていく。考える余裕がなくなるのも頷けるというものだ。しかし、ミコット目的はあくまでもセフィリアの安全を確保すること、何も相手を全滅させる必要性はない。
そのことに気づいたのがほんの一時間前、時刻は既に深夜0時 (イエソドでは30時)を過ぎていた。
「タヴさん、ちゃんと薬買えてるといいんですけど…」
そう一人呟くが返事を返してくれる相手などいない。傍らにいるセフィリアは今も床に伏せたままだ。加えて怪蟲の卵付き。その元凶たる蟲は今も障壁の前に大量に鎮座している。最悪の状態といってもいいだろう。
魔術障壁により安全を確保できたとはいえ、常時障壁を展開していれば魔力は消費する。体力の少ないミコットにとっては動き続けるよりもほんの僅かに楽な程度である。考える余裕が出来はしたが、それとて現状を打破するに至らなければ無駄でしかない。頭には最低の結末しか浮かばない。
それでもまだ時間はある。敵が指定した時間まではおよそ半日、15時間程度の間に何とか打開策を見つけ出さなければならない。
そう考えていたとき、それは起きた。
「…えっ」
思わず間抜けな声をあげてしまうミコット。目に分かるような変化はない。しかし、彼女には感じることができた。
「…結界が…破られた!」
ミコットの表情はより険しくなっていく。
期限を指定されたとて、何もその間敵が動かないという訳ではない。その間命の保証がされているという訳ではないのだ。
変化は直ぐに現れた。目の前に群がっていた蟲、それらが一箇所に集まって行く。形作られるのは一つの人型。細身の男性を思わせるそれは、まるで人のように口を開いた。
「初めまして、峻厳の座に付きし少女」
「っ!」
低い声が辺に響く。蟲を操っている術者のものであろう。結界が破られたことにより、より高度な干渉ができるようになったのだとミコットは直ぐ様理解する。だが、その言葉の意味するところまでは理解できなかった。
(…峻厳?)
人型の声は余裕といやらしさが入り交じった独特のものであった。己の術に絶対の自信を持ち、自らを他者より上だと自覚しているような自尊心の塊。仮の人型であるというのに見ただけで感じとった嫌悪感。ミコットは直感で目の前の人物がろくでもないモノであると断定した。
「そう睨まないで下さい。せっかくの出会いが台無しではないではないですか」
どこまでも余裕ぶった口振りがミコットの不安を掻き立てる。
「…約束の時間はまだ先だと思っていましたが」
やっと搾り出した言葉は抗議の言葉。しかし、ミコット自信もその約束が絶対的なものであるとは微塵も思ってはいない。
「こちらとしても朝まで待ちたかったのですが、結界が破れてしまったので予定変更です。この度の接触はそのお詫びのようなもの」
(破れて…しまった?)
解いた、ではなく破れてしまった。ミコットは直ぐ様目の前の術者、著しくはその一味によって結界が破られたと考えたが、そうではないらしい。相手にとってもアクシデントであったようだ。
「時間もありませんので簡潔に申しましょう。……もう直我々の駒がここを包囲します。召喚物を渡していただければ御二人の命は保障しましょう」
「…渡さなければ?」
「残念ですが、とても言葉には出せない惨状になるでしょう。できれば穏便に済ませたいのです。こちらの善意を受け取っていただけるとありがたい」
「人質をとっておいて善意も何もありません!」
ミコットは人型を睨みつけ、吐き捨てるように言い放った。その威圧感はとても少女が発するようなものではない。相手の言い分が相当に頭にきたようだ。
「穏便に済ませたいから人質にとったのですよ。何も召喚物は貴方たちを始末してからでも探せるのですよ」
「っく!」
もっともな意見にミコットは反論できなかった。蟲使いの目的は召喚物の回収。セフィリアを殺したところで、完全にこの世界に定着した召喚物が消滅するようなことはない。探すために余計な労力と時間を使うことになるだろうがそれ以外のマイナス要因はない。
生かされているという現状、彼女に選択肢などなかったのだ。
「少し、二人にしてもらえませんか」
「…よろしい。私の子供たちは一旦引かせましょう。良いお返事を期待しております」
そう言うと人型はその形を崩し、構成要素たる蟲達が散り散りに去っていく。
蟲使いはあまりにも簡単に了承し、引いた。その簡単さがむしろ気持ち悪くすら感じられる。
ミコットは辺りから完全に蟲が消えたことを確認すると障壁を解いてへたれ込んだ。
体全体から流れ出る汗、監視がなくなり安堵した訳ではない。恐怖からくるものだ。大量の蟲を遠隔操作している時点でかなりの使い手であることは予想していた。しかし、考えてみればただ遠隔操作していたわけではない。そこには結界という壁が存在していたのだ。
結界の中に干渉しようとすれば、当たり前のことではあるが力のロスが発生する。だというのにあれだけ大量の蟲を使役せしめていた実力は相当なものである。少なくとも万全の状態の自分と同等かそれ以上、ミコットはそう結論づけた。
更に、それだけの実力を持ちながら、安全かつ的確にミコットの力を削り目的を果たそうとする堅実さである。敵に油断はないと見て間違いはない。
「……ここは大人しく投降するのが正解…けど」
ミコットは主人の顔を見つめながら考える。
ミコットの一番に考えるべきことは自らの主人であるセフィリアの命を守ることだ。蟲使いの言葉に偽りがなければ、召喚物さえ渡せば命は助かるだろう。だが、肝心の召喚物が手元にはない。呼び出された人物であるタヴはここには居ないのだ。渡せるはずもない。渡せば命は助けるというのは、裏を返せば渡せないのなら殺すということと同義。
ならば戦うか。相手はこの洋館を取り囲める程度の人数がいる。しかもその中の一人は確実に自分と同等の存在。万全の状態であれば勝機が無いわけではない。だが疲労し切った今の状態ではあまりに無謀。逃げるという選択肢も人質が取られた時点で消えている。
要求はきけず、戦う力もなく、逃げるチャンスも失った、まさに手詰まり。
「それでも、今私が引くわけにはいかない」
今の状態を誰よりも理解していながらミコットは引くことができなかった。理解できているからこそ引けなかったのかもしれない。
自らの命を削った主のために、
その主のために奔走する男のために、
彼女にはその身の全てを賭して戦うしか道は残されていなかった。
◆◇◆
時刻は結界が破れるよりも少し前。
洋館から南東一キロの位置にある結界の境界面でバーンズとゴードンは神妙な面持ちで話し合っていた。無論、議題は目の前の王家の結界だ。
魔術という技術が確立され、多くの人間が扱えるようになったとはいえ個々人での差というものは存在する。その効果はあくまでも個人の適正によって上下してしまう。人の持つ魔力というモノを土台としているのだから当たり前と言えば当たり前である。
つまりは遺伝という形でその適正がある程度決定されてしまうということである。もっとも、一般人レベルに於いて、それ程気にするような差ではない。ほんの少し効果に差が出たり、発動に数秒の差が生まれる程度の話だ。それも努力や訓練によってどうにかなるレベルでしかない。だからこそ、この世界では魔術というものが技術として成り立っている。
だが、どの世界においても例外というものは存在する。その一つが王族だ。
王を王たらしめる力、それが王家の血筋には存在する。絶対的な力を持つ血筋、などという都合のいいものではない。その適正は圧倒的に偏っているのだ。そのため普通の術式では扱いきれない魔力の方向性というものが存在してしまっている。だからこそ、その術式は一般のものとは大きく異なる上、普通の人間に扱うことはできない。
つまり王家の結界が存在するということは、少なくともその結界の中に王族縁の人間が一人はいるということにほかならない。
ゴードンがそれを判別出来たのは彼が王族の一人と個人的に懇意な間柄にあったからにすぎない。身分的にも差があるため周りの人間はいい顔をしていなかったが、思わぬところでその関係が役に立つことになった。もっとも、気づかない方がよかったのかもしれないが。
「…あと、どの位かかります?」
バーンズはそう尋ねると軽く夜空を仰ぎ見る。辺には木々が生い茂っており満天の星空を伺うことはできないが葉の隙間から覗かせる月明かりは十分に見て取れた。
「…予定より多少早く終わるかもしれません。しかし……いえ、何でもありません。それで副隊長殿どうしたいんですか?」
ゴードンは答えと共に何かを話そうとするが止めた。自分が口出しするべきことではないと理解している。
「どうすればいいと思う?」
「自分はあくまでも上官の判断に従うだけですよ」
「そう…」
そうして生まれる静寂と沈黙、そんな中でもゴードンは手を休めずに結界の穴を広げている。穴のサイズは既に小さい子供一人分程度には広がった。無理をすれば今でも侵入が可能かもしれない。
「中にいるのは本物、なのかな」
「本物かどうかはわかりませんが、少なくとも王家の血は流れているはずです」
「そう…」
バーンズたちは第四王女の偽物を確保するためにやってきた。これは上層部からの直接の指示であるし、書面でも正式な通達が来ている。潜伏の確認も取れた。中にいるのは二名、一人は第四王女の偽物、もう一人は手引きをした従者だ。
このまま二人を拘束すればそれで終わり。転属直後の任務を無事にこなし、周りからの対応も多少は改善するだろう。つい先程までバーンズはそう考えていた。
しかし、中にいるのは十中八九本物だ。ゴードンは明言を避けているが間違いはない。こうなると事の発端自体が怪しくなってくる。
「僕はこの任務にはおかしな所があると感じた。いや、ついさっきそれに気づいた。ゴードンさんはどう感じました?」
「…その質問は上官として、ですか?」
「いえ、戦場の後輩として尋ねています」
ここから先は騎士団の関係ではなく話をしたいというバーンズなりの配慮である。そうしなければゴードンは自らの考えを述べはしないだろう。
「そうか、じゃあ敬語は外させてもらう。で、副隊長はどこがおかしいと感じたんだ?」
「敬語をとっても副隊長ですか。潜伏先が見つからなかった所、ですかね」
「ほう」
ゴードンはバーンズの目の付け所に、ほんの少し関心した。
「何故、おかしいと思った?」
「最初は気に留めていなかったけど、他の部隊が探索に行った場所は場所自体が見つからないなんてことはなかった。まあ、さっき連絡して調べたんですけど」
「なるほど、悪くない、で?」
意外にもしっかりと考えていた上官に対して、ゴードンはほんの少し評価を改めることにした。そして、言葉の先を促す。
「えっと、潜伏先である洋館の場所を示す資料はしっかりしていたし、見つからないのはおかしい。更に逃亡者の捜索だっていうのにえらく具体的に場所が指定された。まるでここにいるのがわかっていたみたいだ………違うかな?」
「おそらくはその見解は正しい。そこに洋館が見つからなかった意味と二人の協力者が現れたことを考えれば大方の察しがつく」
バーンズの意見を補足するようにゴードンはヒントを与える。ヒントといっても、それもまた予想の一つでしかなく確証はない。しかし、その言葉を受けて考え込んだバーンズは一つの答えを導き出した。
「……そうか!洋館が見つからなかったから隠れていると断定したんだ!だからあのタイミングで二人が現れた!」
その答えを聞き、ゴードンの口元がくっと上がる。期待していた答えを導き出したようだ。そしてバーンズは続ける。
「指定された場所を調べて居るか居ないかを確認することは大して重要じゃない。その場所に行けるかどうかが重要だったんだ。その場所が見つからないこと、それ自体がそこに隠れている証明になる」
見つからないことが、そこに居る証明足りえる。他のどこにも居ないのであれば、居るのは探せない場所にほかならない。
「つまり、上は王家の結界があると知っていた…」
「と言うよりは、捜索に指定された場所が王家縁の隠れ家だったと考えるべきだろう。つまり…」
「追われているのは第四王女本人…」
バーンズはそう断定した。だがここで断定してしまうのは危うくもある。若さゆえの先走りは身を滅ぼしかねない。ゴードンはそう思いながらも、否定はせず、けれども肯定もせず話を続けた。
「偽物騒ぎの真偽はこの際置いておくとして、裏があるのは間違いない。応援に駆けつけた二人も偶然居合わせたのではなく、最初からこのために待機していたんだろう。蟲を使役するなんていう珍しい魔術を使える人間はそうはいない。結界の中を迅速に探索できる人員が用意されていた」
思い返すのは蟲を纏った細身の男、あれほどの力を持った男が偶然居合わせて協力するなどということはまずありえない。
「そう考えると、もう一人は結界をどうにかするための人員?」
「自分たちがこの穴を見つけられたのは本当に偶然、あの二人にとっては予期せぬ事態なのかもしれないな。本来なら、自分たちが何の成果もあげられずにが去ったあとに中を調べればいいだけだった」
偶然にも見つけてしまった結界の綻び。何故できたのかすら解らない穴ではあるが、バーンズたちにとっては唯一の手掛かりであった。手掛かりが有る以上は撤退する訳にはいかない。そしてそれが現在の事態を生んでいる。
「この穴は僕たちにとっての分岐点だったのかもしれない…」
そう言うとバーンズは俯くようにして考え始めた。その顔は頼りない上官などではない、少なくとも部下のことを考えられる大人の顔だ。
そんなバーンズをみてゴードンは口調を戻し問いかけた。
「もう一度問いましょう。副隊長殿はどうしたいんですか?」
それは騎士団の部下としての質問。
「僕は…」
そう言いかけたとき、何かが弾けた。
「えっ?」
パリンという音と共に崩れ落ちる景色。同時に僅かな声が漏れる。唯立ち尽くすことしかできないバーンズ。一方でゴードンは何が起こったのかを直ぐ様理解することが出来た。
「結界が破れたっ!」
寄りにもよってこのタイミング、ゴードンは苦虫を噛み潰したように表情を歪める。バーンズもその言葉によって直ぐ様理解した。もう、考えている暇などないということを…
◆◇◆
薄紫のローブを纏った細身の男、その男は隠れるように木々の間に佇んでいた。病的なまでに白く長い腕を伸ばと何処からともなく現れる幾百の蟲。
彼は蟲使い、そう呼ばれている男だ。
「…結界が破れましたか」
蟲使いは一人呟く、彼は自身が使役する蟲を通して大方の状況は理解していた。幾重にも張り巡らせた蟲のネットワークが森の中での出来事を逐一報せてくれる。
魁蟲は生き物の魔力を糧としているためその流れには非常に敏感だ。その複眼には魔力の変化がさながらサーモグラフィーの様に映し出される。使役した幾千、幾万もの魁蟲からその情報が集められ、彼の元で統合される。彼の目には森の全てが見えていると言っても過言ではない。
しかしそれも万能ではない。広い範囲をカバーするにはそれなりに多くの魔力を消費する。そのためかなりの機能を制限した監視網をひいていた。例えば音の収集などは制限してある。現状では盗聴などの必要はないと判断したからだ。もっとも、やろうとしたところで結界内の音を拾うのは無理であろう。そう思わせる程に王家の結界は堅固なものであった。
だから今の彼には魔力の流れしか監視できていない。それだけで十分であると考えていた。彼の経験からしてもそれだけで充分に対応できるはずであった。しかし現実は違った。彼には何故結界が破れたのか解らなかったのだ。
本来、これは有り得ないことだ。結界の状態から自然に崩壊することはないと確認出来ていた。この崩壊は誰かが関与していることは間違いない。しかし、その誰かがこの森の中には居ないのだ。
何の魔力的な痕跡も残さずに王家クラスの結界を解呪できる人間などは居るはずがない。痕跡を隠せるだけの実力を持つ者が来たとも考えられるが、完全に隠すことはできないだろう。絶対に蟲の監視網に引っ掛かるはずである。
肝心の蟲たちはと云えば何の変化もない情報を送り続けている。否、変化はあったか。何の前触れも無く結界が崩れていくという情報は詳細に届いている。
「まったく、今日は予定通りに進まない日ですね」
これほど上手くいかないことは、蟲使いにとって珍しかった。
王家の結界は秘匿性が高い。探索にあてた騎士達などには到底発見できない代物だ。それが何を間違えたのかあっさりと発見されてしまう。発見されただけならまだ良かっただろう。問題はその騎士の中に結界を突破しうる実力者がいたことだ。その実力者さえ居なければそうそうに邪魔な騎士達を排除出来ていただろう。
蟲使いは王家の結界の存在を知っていた。当然ながらそれを突破する術も用意してある。そのための二人組だ。相棒として指名された術者は蟲使いの目から見ても十分に優秀だ。しかし、その力が特殊過ぎた。少なくともその力を関係ない他者に見せるにはリスクが高すぎる。せっかく用意された手札が使えない状況だ。
更にその相棒は蟲使いとは正反対の性格であり、全くと言っていいほど馬が合わなかった。結界さえなければ一人で事を済ませたかったというのが蟲使いの本音である。
当の相棒はと言えば、自身が必要ないと分かるやいなや、遊んでくると言って何処かに消えてしまった。今何処にいるのかはわからないが、蟲の監視網に引っかかっていないことから森の中には居ないだろう。少なくとも当初の予定時刻までは戻っては来ないと考えられる。こういった任務に対する責任感の無さも蟲使いが相棒を嫌う理由のひとつだ。
そこに追い打ちをかけるように起きた結界の崩壊。蟲で監視していたため、騎士団員が破った訳ではないと確認できている。こればかりは本当に謎だ。
全くと言っていいほど予定通りに事が進まない。
しかし、そんな状況であっても蟲使いは慌てなかった。それは経験のなせる技なのか、単にそういう性格なのかは解らない。だが、どちらにしてもこの男には強者としての余裕が滲み出ていた。
「取り敢えず、先手はうちましょう」
そう言うとの伸ばした腕から蟲が散り散りに去っていく。
結界がなくなったこと、それ自体は悪いことではない。そのおかげで出来ることが増えたのだ。
そうして蟲使いは一人の少女へと蟲を隔てて歩み寄る。
彼にとって蟲とは自分自身だ。これは思い通りに操れるという意味ではない、文字通りその個体一つひとつが彼なのだ。便宜的に使役という形を取っているが実は正しくはない。いうなればこれは人格の分離、蟲の意思や本能など関係なくその個体に対して自分自身を投影している。そして何よりも彼の支配する蟲には全て彼の血肉が宿っているのだ。
魁蟲は人を苗床として繁殖する。人に限らず生命であれば苗床足りえるが、総じて人を用いた方が強い個体が誕生する傾向にある。それは人の持つ魔力の質に大きく影響されるためだ。
その性質を利用した。蟲使いは自分自身を苗床として魁蟲を育てたのだ。彼自身の魔力と血肉を与え、その類い稀なる才能を蟲へと引き継がせることに成功した。そして彼の魔力と細胞を取り込んだ魁蟲は個体としての境を消失する程に彼自身と強く結びついた。
魁蟲は一度の繁殖で数千の個体が誕生すると言われている。しかし、蟲使いが最初に得た新たな自分はたったの12疋であった。数を制限したのは、自分自身が苗床として食べ尽くされてしまわぬための配慮であったが、結果としてそれは強力な個体を選定することへとつながった。
そして、その12疋は新たな苗床で数千の自分を生む。その繰り返しが今の蟲使いだ。
苗床には名のある術者を大量に用いた。そうすることで蟲使いは自分に足りない性質を蟲へと引き継がせる。もう何代目になるかすら解らない蟲にはあらゆる魔力の性質が宿っている。もはや蟲使い自身にもどれほどの数の自分がいるのかわかっていない。自分自身の細胞の数を正確に知っている人間が居ないのと同じだ。群にして個の魔術師それが彼だ。
群れたる蟲は郡を個として己を作る。
そうして蟲使いは一人の少女の前に現れた。それは蟲であると同時に彼自身、急造の五感全てが正常に働き自分がまるで瞬間移動したかのような錯覚に陥る。
目の前には真紅の少女、今も燃え盛っている少女の激情は張られた障壁を隔てていてもひしひしと伝わってくる。向けられた敵意は蟲使いでも気圧されるほどに荒々しい。
一目見て彼は心躍らせた。直に見ることでその素晴らしさを認識できた。この器は最高の苗床になる。
(さすがは席に座る資格を持つ者ということか)
蟲使いは考える。これから起こることを、誰がどのように動くかを、そして自分がどのように動くかを。
――初めまして、峻厳の座に付きし少女…
そのまま蟲使いは自らの思惑を胸に言葉を紡いだ。
会話を終え、仮りそめの自身が崩れゆく。離れていた体が一つになる感覚のは何度やってもなれるものではない。蟲使いはそう思いながらゆっくりと目を開いた。そして僅かな気配、そこには幼さの残る騎士が一人、ちょうど草木をかき分け歩み寄ってくる所であった。
その騎士は蟲使いの前まで来ると何か決意を秘めた表情で口を開く。
「ロプトさん、結界の解呪が終わったので予定を早めて確保に向かいます」
言葉を聞き、蟲使い、ロプトはほくそ笑む。
(私が進言するまでもなく攻めを選びましたか…)
予定通り事が進まなくとも、予定を修正するのは容易い。それだけの実力があると自負している。
ロプトは目的を達成できると疑わない。だが、同時に過信もしない。
騎士の背へと影が伸びる。挫折を知らぬ天才は己の使命を果たすために次なる一手を仕込むことにした。