プロローグ
とある廃ビルの一室、男は血だまりの中にいた。
その血は彼自身のものであり、今もなおその面積を広げ続けている。徐々に冷たくなっていく体を自覚しながら、男は死を実感する。己の死が揺るぎないものであると理解している。
既に体は死に体だ。体のあちらこちらに穴が空き、左腕は動かすことも叶わない。視界もぼやけてきていたが、それ以前に右目が潰されてしまい視野が半減している。
そんな中、男は意外にも冷静であった。
それはある意味で死を受け入れた者の諦めであったのかもしれない。しかし、悪い気分ではなかった。その最後は男にとってそれ程悪いものではなかったのだ。
「…約束は……守れそうにないな」
男は力なさげに呟く。
ただ呟くだけでも今の男にとっては苦行でしかない。それでも敢えて言葉に出したのはその言葉を受け取る相手がいたからだ。
「もう、終わりにしましょう」
返ってきたのは女の声。力強く凛とした印象を与える声だ。確りとした発音のそれは、意識が朦朧としてきた男であっても容易に聞き取ることができた。
部屋には僅かな月明かりが差し込むのみで、女の顔を伺うことはできない。けれども男には女の表情が何となく想像できた。
「そんな悲しそうな顔するなよ……らしくない」
「――っ、まだ減らず口叩けるなんて、大したものね」
女の声は僅かに動揺している風だった。本当にそんな表情をしていたのかもしれないが、真偽の程は解らない。
ガシャという金属音が辺に響く。男にとっては聞き慣れた音だ。女は手を男に向けるように差し出す。そこには一丁の拳銃が握られていた。ちょうど窓から差し込む月明かりに照らし出され、左手に握られた拳銃は鈍い光を放つ。
「さようなら」
そう言うと女は男に向け引き金を引いた。
男はそっと目を瞑る。僅かな静寂と共に感じられる死という名の緊張感。既に受け入れたこととはいえ恐怖を感じない訳ではない。体は震えているし、今にも涙がこぼれてしまいそうになる。
これで男は死ぬずだった。しかし、部屋に響はずであった銃声は聞こえてこない。
代わりに別の音がした。それは何かが落ちる音。
「…何よ、…これ」
続けて女の声。困惑に震えた声に先程までの力強さは感じられない。何らかの異常事態が発生したのか、男は確かめようと重い瞼を開く。
「いやっ!、止まってよ!…話と違う!何なのよ!」
叫びにも似た女の声。女は自らの左腕を押え付けるように暴れていた。理解が追いつかない。ただでさえ血が足りない状態なのだ。考える余裕などない。
男の意識は途切れかけていた。もはや自分が何をしたいのかも解らない。そんな中、ふと気付く。己の右手に冷たく硬い感触があることに。
感覚のみで理解できた。慣れ親しんだ感触に考えるまでもなく腕が動く。
鳴り響く銃声、その瞬間、一つの命がこの世界から消えた。