序章
締切は守っている。
クライアントの要望にも応えている。
修正も、再修正も、さらにその先も。
ただ一つ守られていなかったものがある。
——労働時間だった。
月の残業時間は、いつから数えるのをやめたのか分からない。
タイムカードは形だけ。
実態は、終わらない作業と終わらせるための自己調整だった。
「これ、今日中でお願いします」
「やっぱりこっちの案で」
「もう少しだけ整えられますか?」
“もう少し”が積み重なって、日付を越える。
それでも、ページは整う。整えてしまう。
45歳。DTPデザイナー。
誰かの情報を、誰かに伝わる形に整える仕事。
その日も、最後の書き出しを終えたのは深夜だった。
椅子から立ち上がった瞬間、視界が揺れる。
疲労は限界を越えていた。だが、不思議と焦りはなかった。
やることは終わっている。
納品もできている。
それで十分だと思った。
帰り道、信号待ちで立ち止まる。
赤信号の向こう側に、ぼんやりと街灯がにじんで見えた。
次の瞬間、強い光。
衝撃。
音は、なかった。
——
目を開けると、知らない天井だった。
木組みの梁。
油のランプ。
静かな空気。
身体は重く、頭は妙に冴えている。
ここがどこかは分からない。
だが、もう一つのことはすぐに理解した。
あの生活には、戻らない。
部屋の隅に置かれた一冊の本が目に入る。
古びた革表紙。
分厚い紙束。
手に取り、開く。
そこに描かれていたのは、円と線、そして未知の文字列。
一見して魔法陣のような図。
だが、違和感がある。
中心のズレ。
線の太さのばらつき。
文字間の不統一。
設計として、甘い。
「……整ってないな」
思わず口に出た瞬間、図形が淡く発光した。
空気がわずかに震える。
その反応は偶然ではないと、直感で理解する。
これは“魔法”ではなく、
“設計された現象”だ。
45歳、DTPデザイナー。
過労の果てに、異世界へ。
そして今、
文字と図形で世界が動く場所に立っている。
——今度は、整える対象が違うだけだ。




