溺愛の菊浜
七条の駅から鴨川を渡って北に入ったところに私の家がある。
それと、数分北に歩けば幽霊の路地もある。
私はかぎかっこを二つぐらいつけた生粋の京都人だ。物心ついた時には今の七条の家に家族で暮らしているし、高校もそこから電車で通っている。
かぎかっこと言ったのは両親がいずれも京都の人間ではなかったからだ。両親は京都に出てきた大学生で、そこで恋愛をし、京都近辺でどちらも仕事が見つかったので、そのまま居つくことになったのだという。京都に詳しい人は菊浜と呼ぶ場所だ。
だから私の故郷は紛れもなく洛中なのだが、かといって、何代も京都に住み続けている人間からすれば、胡散臭い新参者でもある。近年できたインバウンド客狙いのどこの誰の資本かもわからないような店のような。そんな自分がどんな大人になるのか見当もつかない。
ただ、少なくとも師匠であり友達でもある存在はいた。
路地の幽霊だ。
昼でも暗いその路地に入ると、こすずさんは必ずいる。ずっと昔に閉業したたばこの看板の少し手前に。
「あっ、来た来た。なんや、うちより辛気臭い顔しとるな」
こすずさんは二十歳ぐらいの見た目で、着物を着ている。丸いぼんぼりみたいな形をした白やだいだいの菊とまんじゅしゃげが咲き乱れている柄だ。
と言っても江戸時代の人とかではなくて、明治以降のいつかだろう。考証は得意ではない。みつあみのような髪も時代がかっている気はしているが、ずっと見てきたからもうなんとも思わない。
「こんにちは。今は高校が退屈で。退屈期ってとこかな」
「なんでや。高校の頃なんて箸が落ちても、友達同士で笑える頃やんか」
「そういう時期もあったけど、今は退屈期ってこと」
彼女は室外機に座っている。路地のあたりなら少しは動き回れるのだが、大半は室外機に陣取っている。そのせいか野良猫も室外機には上がらない。
「人間関係の悩みか? それとも恋?」
「そういうんじゃないかな、たぶん。もっとばくぜんとした不安ってこと。自分が自分じゃないような気がする時ってあるでしょう?」
「なんや、こじらせたようなこと言うてるわ。心配せんでも、これから何年生きてもずっと忙しゅう感じるわ。いっちょまえなこと言わんでええんよ」
こすずさんが半畳を入れる。半畳という言葉もこすずさんから学んだ。
あと、このあたりの町の歴史も。両親はそこまで町の歴史に詳しくはない。
「にしてもなあ、あんなちんまい満千夏がこんなに大きくなるだけで変な感じやわ。歴史は変わるなあ。ここはろくに変わることないけど」
「たしかに古いよね。友達とか呼んだら喜ばれる時あるよ。ほら、枚方とか寝屋川とかから通ってる子もいるから」
「花街やったところに呼んで喜ぶんもどうなんや。いや、満千夏にとったらただの地元やな。住めば都や」
「ここは京都なので、住まなくても都」
「おもしろいこと言うなあ」
こすずさんはからからと笑う。
路地は薄暗いが、そのくせ妙な清潔感があり、ゴミが落ちていることもめったにない。ここの住人は意地と矜持で住んでいる。細くて水量の少ない高瀬川沿いになるときれいなマンションが立ち並ぶが、ここはその開発の波を住人が食い止めている。意地と矜持で。
南側のマンションに住んでいる私が言うのもおかしいが、私はこの北側の空気のほうが好きだ。しかもエアポケットのようになっていて、そんなに観光客も立ち寄らない。有名な寺社が全部鴨川を渡った先に固まっているのもある。
室外機の後ろの町家の壁から少し浅黒い手が伸びる。
何年たっても、手だけしか私に見せない怪異。
「ああ、『ゆるし手』のほうだ」
「なんなんや、未練がましいな」
こすずさんがぱしんと手の甲を叩いた。
反省したように手は壁の中へと消えた。
こすずさんのしぐさがやけに子供っぽく見えた。
あんなにお姉さんだと思ってたのにな。
「なんや、寂しそうな顔して」
こすずさんが目をぱちぱちとやって、私を覗き込む。
「ううん、なんていうのかな、私って変わってきてるなって」
「当たり前すぎてようわからんわ。ええことやん」
それは彼女の本心だろうけど、私にはとても強いいけずに聞こえた。
「それで、幽霊のところになんてけえへんようになるぐらいがちょうどええよ。その前の通りから手でも振ってくれたらそれが一番幸せや。幽霊なんて見えへんほうがええし、声も聞こえんならそれにこしたことはないんやから」
やっぱり、こすずさんはいけずだ。
◇◆◇◆◇
幼い頃から、こすずさんは見えた。
菊浜の路地は覚えてしまえばどうってことはないが、高瀬川が曲がっている影響なのか、道が少しわかりにくいところがあり、慣れていないうちは迷いやすい。直線の道が斜めに伸びていて、碁盤目状の街区という京都のルールすら守っていなかった。
高瀬川にはカモもサギも当たり前のように暮らしていて、電子機器に慣れる前の子供がはしゃぐには最高の場所だった。階段でわずか五段で川まで下りられるのだ。
川に靴を突っ込んで足跡を地面に残しながら、私はその路地に入り込んだ。
こすずさんが薄暗いところから手を振っていた。
薄暗くてもよくわかる派手な着物を着ていた。
「おいで。生きてる人には私はやさしいよ。誰も呪ったことも恨んだこともない」
彼女の言葉にウソはなかった。
「ただ、先にこれだけ言っとくわな。このへんから手がにょろうり、にょろうり出てくることがある。それは放っておいたらええわ。ちょっと触れたぐらいでどうってことはないけど、相手にせんかったらええ。人に悪さできるほどの力はないんや。しつこかったら、うちがつねったるから」
私はまだ童心だったからか、平気でそれを受け入れた。
「それから許してとか助けてとかいった声もするかもしれんけど、気にせんでええよ。あんたが助ける義理なんてないんやから。満千夏は満千夏として生きたらええ。余計なことはせんこと」
たしかに手が見えることはあった。浅黒い手と白い手。壁から手が突き出てくるのだ。
どちらも二本ずつあるから、二人分の手なのだろう。
それはやけに哀れなものだった。
ずっと、けいれんしているような動きをするのだ。とくに白い手のほう。
引きずり込んでやろうというような悪意のようなものは感じなかったし、怖いとも思わなかった。高瀬川に出るサギと同じようなものだった。
「っもう! 今日はしつこいなあ。ええかげんにし」
たまに、こすずさんがその手をつねる。
手は反省したようにしゅんとする。
「白い『たすけ手』はしつこいね。『ゆるし手』はもっとあっさりしてるのに」
こすずさんが「たすけ手」「ゆるし手」と呼んでいたので、私もその呼び方を踏襲した。
「白い手のほうが悪気がないと信じてるからな。そんなわけあらへんのになあ。だから成仏できへんのやわ」
「『ゆるし手』のほうは許してって気持ち、一応は見えるかな」
「まあ、五十歩百歩やで。執着っていうのはなかなか消せへんからなあ。うちも同じやけどね」
子供みたいにこすずさんは室外機に座りながら足をぶらぶらさせた。
彼女は私から見れば大人のはずだが、大人のような態度をろくにとらなかった。だから、私も安心して彼女のところに遊びに行けた。
小学生の私は丸いチョコレート菓子をかじっている。
「お菓子いる?」
「お地蔵さんやないんやから、そないなお供えはいらへんよ。にしても、てっきりもっと町も変わると思うとったのに、こんなに変わらずに残るなんてな。変わるんは満千夏だけやな。もう十歳か」
「もう十一」
何歳になっても私はここにいる気がした。それはこすずさんのほうが変わらないからだ。
「こすずさんは人にやさしいのに、成仏しないんだね」
「人にやさしゅうても、今でもやるべきことはあるからなあ。これも執着や。でも、嫌な気持ちやない。この執着のおかげでここにおれるんやし。満千夏にも会えたしな」
こすずさんが笑う時、私は得をした気分になる。
それが玄人の、お金のかかる笑みだからだと知るようになったのは高校に入った時ぐらいからだった。私や友達が学校で笑ってる時の情報量が1ギガだとすると、こすずさんの笑みには15ギガぐらいの情報量がある。すべての感情だけでなく、そこに歴史も文化も全部入っていて、そのくせ欲望ともつながっている。
その頃の、まだ小学生の私はこすずさんみたいになりたいと、ただ、そう思っていた。
それは人間を超えたものだから。
「長くおったら、こないな偶然もあるんやな。でも、満千夏にとって幸せなことかはわからんけどな」
「幸せだと思うけど。幽霊の友達がいるなんて特別じゃん」
「中学に上がったら、もう来んでもええよ。そのうち、うちの背を追い抜いてまうやろし。自分より小さい幽霊なんて威厳もないやろ」
「まあ、こすずさんを子供だなと思うようになったら、ちょっと嫌かも」
「幻滅されるんもしゃあないな。むしろ、幻みたいな姿でずっとおる自分が不思議やわ」
ふっと、室外機のほうから黒い手が伸びてきた。ああ、「ゆるし手」のほうだ。
逃げろ。
そんな言葉が耳に入った気がした。
「ん? どうしたん?」
「なんか、逃げろって『ゆるし手』に言われた気がする」
声を出して、こすずさんは笑った。
「そりゃ、うち、霊やもん。逃げたほうがええっていうのは一理あるわな。ほんまはな、こんなとこ、二度と入ってこんほうがええんやで」
「でも、こすずさんは誰も人を呪ったりしてないでしょ」
「そうやね」
足をばたばたさせながら、彼女は言った。
「人を呪わないのに幽霊を続けてるってなんで?」
こすずさんはふぅと長い息を吐いた。
「満千夏はうちのこと、あまり調べるようなことしたらあかんよ。霊が居座ってる理由なんてろくなことないんやからな。それだけは約束してな」
「うん、約束する」
私は元気に断言した。その頃には、その町がややいかがわしい歴史を背負っていることもなんとなく知っていた。一方で、その部分を歴史や伝統の枠に完璧に押し込めてしまって、行儀のいい顔をしていることも。少しばかり唐破風の木造建築が過去の名残を見せているぐらいだった。
年をとると、自分がずるくなる発想もなかった。
◇◆◇◆◇
「あっ」
よりにもよって、図書館に入ったところで私は過去の注意を思い出した。
過去を調べるなとこすずさんは言っていた。霊が存在する理由なんて、いいものなわけがない。
ただ、しないという選択をするだけでいい。あまりにも、あまりにも簡単な方法だ。
でも、私はもっと利己的だった。
こすずさんのことを知りたい。
昨日、彼女のところに行って、私は感じた。
自分の背が彼女を追い抜いていると。
こすずさんはたいてい座っているから正確なところはわからない。でも、昔の日本人らしい彼女より私の背が高くなるのは間違いがなかった。
自分がこすずさんから離れていくのは嫌だった。
私は図書館に入って、マイクロフィルムの閲覧許可をとった。
そんなに簡単に見つからないと思っていた。年代のあたりをつけられているわけでもないし、そもそもどの新聞にも載ってないかもしれない。
なのに、私の直感はそんなところで怖いほどに冴えていた。
なぜか昭和五年の新聞から私は調べ出していた。鴨川とか五条とか七条とかいった単語が見つかればいいなと思いながら、行動を始めた。
そっけない記事を私は見つけた。
見つけてしまった。見つけてやった。
どちらの気持ちもウソではなかった。
二日続いた長雨がやんだ日、私は高校を終えて、七条の地下駅から地上に出た。
大半の人間が東に向かうのを逆らうように西に進んで鴨川を渡る。そこから右に曲がるとさらに人の数は激減する。自宅マンションを通り過ぎて、私はまたあの路地に向かった。
こすずさんが手を振っている。
「早歩きで来たやろ。湿気が多いから、今日は汗ばむわ」
「こすずさん、高校で、地元の昔のことを調べるっていう授業があってね」
「けったいな授業やな。時代の変化いうんは激しいんやね」
「それでね、ふっと思ったんだよね。これ、こすずさんのことも探せるんじゃないかって」
こすずさんの顔から笑みが消えた。
いや、笑みの質が変わっただけだ。諦観のような苦笑い。
「昭和五年、伊佐倉千鶴って女性が『事故死』したって記事が見つかった。鴨川に転落して死んでいるのが発見されたって。死因はおそらく溺死。この人は近くの花街でこすずという名前で働いてたって」
こすずさんが天をあおいだ。
路地の屋根に切り取られた空は八割がた曇っている。
「ここで詮索打ち切るなら何も言わへんわ。真相知ってわかった気になるくらいやったら知らんほうがええ。いつやったかなあ、ほら、満千夏も友達が考察勢とかいうのになってげんなりしてるって言うてたやん。今の満千夏のやってることはそれやで。水かけて化粧落として醜いタヌキや言うて何になるの」
「うん、わかった気になって楽しむのはよくないと思うよ。そんなのどこまでいってもわかった気になるだけだし。でも知りたいっていう気持ちは本当だから」
「知ったからってなんにもならへんよ。あんたが呪われてるなら調べもせんとあかんやろけど、そんなこともないやろ。うちは生きてる人間にはお地蔵さんぐらい丁寧やで」
私はこすずさんの前に立って視界をふさいだ。
「やっぱり、私、大きくなりすぎてるな」
「何のこと? 背丈のこと?」
それから、しゃがみこんでこすずさんの手に自分の手を重ねた。
すり抜けはする。でも、だからこそ、比喩ではなく完全に重なることができる。
「私は、こすずさんのことが知りたいから。どこで生まれて、どんなふうに生きて、どんなふうに殺されたのかも。本当に何もかも」
「事故死って新聞では書いてるんやろ。全然信じてへんな」
「事故死なら、幽霊になって残らない。誰かに殺されたんでしょ? 花街で働いてたんだったら、恨みだって買う」
「せやったら、恨みを晴らしてくれるん?」
「逆。恨みを晴らせないようにする」
私は顔をこすずさんの頬の横に寄せた。
少しだけ、頬が重なったと思う。
ひんやりとした。少しだけ顔を離した。
「恨みが晴らせないなら、こすずさんはずっとここにいる。そのほうが私にとっては都合がいい」
「ひどい子やね。満千夏はそんな身勝手な子に育ってもたんや」
こすずさんのあきれた声が私の耳の中にそっと入る。私の体が異質なものと認めて、ぞわわっと体温を下げる。
「あなたは私にとってのふるさとなんです。この路地にはいつもこすずさんがいる。どうか変わらないでください」
この路地を知った時から、私がこすずさんを見なかったことはない。
でも、それは明日も一年後も十年後も続いているかはわからない。
彼女が消えるかもしれないし、私がある日突然彼女を目にできなくなるかもしれない。
そう考えたら、急に怖くなった。
京都は私が幼い頃から見ても急速に変わっている。変わろうとした結果のところもあるだろうけれど、街も人もまったく変わらないまま存在することはできない。
その前にこすずさんを保有しなければと思った。
「少なくとも、うちが消えることはないから安心しい。ゆびきりしてもええよ」
指はすり抜ける。交わりはしても、ふれあいはしない。
ふれあわないものが交わってもそれは空しいものだ。
「こすずさんとはゆびきりができないから。絶対に消えない理由があるの? 呪い殺す前に呪う奴が死んじゃったとか」
「惜しいけど、ちょっと違うなあ」
室外機の横にこすずさんは手を伸ばす。
浅黒い手のほうが私の前に出てきた。「ゆるし手」だ。
「これ、何の手やと思う?」
「こすずさん以外の悪霊なんじゃないの?」
「もっと頭使わんと。うちとこの手は似て非なるものやで。うちがつらそうに、しんどそうにしてることなんてないやろ。ずっと楽しそうやろ?」
たしかに霊が苦しみのためにこの世に留まっているものとするなら、こすずさんは定義から外れる。
私は野良猫のヌシのように気ままな彼女にあこがれたのだ。
こすずさんは浅黒い手をぽんと壁のほうへ放り投げた。
それからもう少し白い手のほうを引きずり出してくる。「たすけ手」のほうだ。
この路地に棲息しているこすずさん以外の怪異。
「うちはなあ、生前からこんな性格でなあ、一言も二言も多いんよ。いけず言うこともあるし、ぴしゃりと引き戸を閉めるようにきついこと言うてまう時もある。そんでまあ――」
「ああ、もういい。聞かなくてもわかるから」
この手は、こすずさんを川のほうへ突き落とした男たちの手だ。
だから、助けてとか許してとかこすずさんに伝えようとしているのだ。
「あんまり、せっかちなんはようないなあ。短気は損気って言うやろ」
「別にこすずさんが話したくないことを言わせたいわけじゃないから。手元に置いておきたいだけだから」
こすずさんの黒髪に手を載せる。境界が交わる時にドライアイスのような冷たさがあって、すぐに私の手になじむ。
これは恋愛感情ではなくて、きっと強固な所有欲なのだ。
あなたの人生が知れればそれでいい。相手を知ることはより相手を支配することにつながるから。
「ほんになあ」
こすずさんはしばらく思案気に路地の中に取り残されたようなもの、古い自転車とか、ネギかなんかのプランターとか、たばこの看板とか、水の入った防水バケツとかを見やっていた。
それから決心したように私を見た。
「満千夏、うちに何があったか、知りたい? でも、知って引き返せんようになっても、責任とられへんよ。それでもええ?」
私はこすずさんの心臓のところにまで顔を埋める。
「こすずさんが話してもいいならどうぞ。でも、こすずさんが客に突き落とされたことぐらいは私でもわかるよ」
「それやと、かすっているだけや。真相はもっともっと複雑やで」
こすずさんの内側はひどく冷たい。それは水の中に突き落とされたような感覚に近い気がした。
「うちのなじみの客には別の恋人がおってな。恋人がおるのに遊びほうけるなんてひどい男や」
あれ?
なんでそこに登場人物として女性が出てくるんだ?
「最初は私のところに直談判みたいにやってきてな。あの人とは付き合わないでくださいって。カラスの濡れ羽色なんて表現、今は使わへんかもしれへんけど、長い青黒い髪をしとったわ。お客さんとして来てるのはあの男や言うえ切り捨てたけどな。羽振りはええ人やったしな。こっちから追いかけたわけでもないからええやろ」
私の心臓の動きが遅くなる。
「店のほうは当然門前払いにするんやけど、近くで待ちぶせされたら、会わなしゃあないやろ。そのうち、仕事やない時まで尾けてくるようになってな。今でいう立派なストーカーやね」
息がうまくできない。酸素がうまく入ってこない。
「いつのまにか、あの子、うちのほうに惚れてたんよ。きっと、本音で話してくれる友達おらんかったんやろね。最後のほうはお姉様とか呼んできたな。女学校で女性の友情の話とか盛り上がってた時代やったらしいからそんな影響もあるんやろか」
「それで、どうしたんです?」
「言うたよ、気色悪いわって。引き戸でも閉めるみたいにぴしゃりと。さりげなくほのめかしても、わからへんやんか」
私にはその女性の憎しみが痛いほどに理解できた。
気色悪いと言われてしまった時、彼女のすべては否定し尽くされてしまったのだ。
「河川敷を男と歩いてた時やったわ。その子に突き落とされた。軽い体やったから、ぽんと飛んでいったなあ。まあ、今は軽いどころか体重も何もないんやけど。魂に重さがあると言うんは何かの間違いやったかな」
私の想像の中で、こすずさんが舞う。
そして、すぐに落下する。
河川敷沿いの水深はごく浅いだろう。溺れるというより、頭を強打して意識が薄れるところに水が入ってくる。
「人間って不思議なもんでなあ。意識もろくにないはずやのに、その二人の声はよう聞こえてくるんよ。その男は通報するでもなく、事故として片付けようとか言うてた。女のほうもうちが好きやって言うてたのに、すぐさま男と口裏合わせようとするんやもん。それはないわな。自分の感情にぐらい責任持たなあかんよ。いや、この場合行動の責任か」
行動に責任がともなうとしたら、今の私はどんなふうに責任をとるのだろう。
もう、こすずさんを裏切ってしまった。
「その二人は店の番頭に金握らせて、出歩いてないという証拠を作ったんやな。うちもお酒も飲んでたし、酔って転落したんやろということになった。その白いほうの手はなあ、その番頭のもんや。自分はウソの供述しただけやから助けてと手ぶりで言ってるんやね」
おかしい。
人数が合わない。
だって「ゆるし手」のほうは明らかに男の手、きっとこすずさんの客だった男だ。
「三人を呪い殺すことはできんことはなかったんよ。悪霊ってそういうもんやろ。でも、どうせなら、もっとハイカラなことをしたいなと思うたんや」
いつのまにか、こすずさんの声はとても無邪気な陽性のものになっている。
「殺すんやなくて、死んだ後に呪いで成仏でけへんようにしてあげよって。霊を呪う霊の誕生やな。そのほうが長く楽しめると思わへん? 後悔だって死んでからのほうがたっぷりさせられるやん」
座っている黒いほこりがついた室外機をこすずさんは撫でた。
「この下には元々三人分の魂がおったんよ。もう一人の手は『つぐなわせ手』って呼んどったなあ。三人の中では一番しおらしくはあったで。手が小さかったからなだけかもしれへんけどね」
こすずさんが恨みのようなものを見せなかったのは憎しみの対象を確保しているからか。だから、生きている人を呪うようなこともなかった。
「うちはお風呂の栓みたいなもんや。お湯のほうが流れていきとうても、それをさせへん。お湯はそのうち水になって腐っていって虫もわくけど、栓はどかへん」
自分の呼吸は浅くなっている。
もう、語りを聞かなくても、私はわかりかけていた。
「せやけど、『つぐなわせ手』にうちも仏心を持ったんやろねえ。彼女の魂は成仏させてあげることにしたんよ。うちが好きやったんは本当やったわけやし。来世では幸せになりやって。手があの世にいくのはきれいやったわ」
その時の情景が私の頭に浮かんでいる。想像とは思えないほどはっきりと。
「だから、手は二人分になった。でも、不思議なもんやねえ。これも運命なんかなあ。あの女の魂を持った子がここに戻ってくるなんてなあ」
――せやで、満千夏、あんたのことやで。
――今の満千夏によう似た黒髪の子やったわ。
――顔はきれいやのに、魂は濁りきってるなあ。
ああ、そうだった、そうだった。
すべて思い出してしまった。
前世から私はこすずさんのことに執着していたのだ。
「しかも、菊浜に住んでるて言うやんか。せっかく自由になったのに、また囚われに来たんか。幽霊のうちも背筋寒なったよ」
偶然なんかじゃなかった。私は魂に操られていた。
「幸い、何も知らんようやったから、それなら罪もないって思うてたよ。だから、うちのことは調べるなって忠告もした。そこさえ踏み込まんかったら、魂が一致しとるだけの別人や。罪もないやろ。せやのに――」
ごめんなさい。
「また約束破ったな。でも、深入りしたんはあんたのほうや。幽霊の中にずぶずぶ顔突っ込んで。多分、前世の魂がこうしたんやろ。また百年でも二百年でも鴨川からの風を浴びたらええわ」
意識が薄れていく。ひどく苦しいはずなのに、それはなんとも温かくもあった。
こすずさんの内臓の中、いや心の中で私は死ぬのだ。
それはとても――――幸福なことじゃないか。
少なくとも、これで私は彼女を失うことはないのだし。
少なくとも、私がこれ以上変わっていってしまうこともないのだし。
私はこすずさんを所有できなくなるが、彼女に所有されてしまうなら、本当に、本当に同じことだ。
完全な所有は自分と対象が完全に一致することだから。
こすずさん、「ゆるし手」とか「たすけ手」とかそんな汚らしい手は逃がしてしまって。私だけをここに置いておいて。
そうして、こすずさんと私だけがずっとここに取り残されていればいいの。すぐ東に出れば鴨川なのに、西の通りに出れば高瀬川の小川にもぶつかるのに、ここからは何も見えない。何もわからない古い路地で、ずっとずっと取り残されていけばいい。
私の頭が汚い室外機にぶつかる。鈍い音。この程度ではあざが少しできるだけだろうが、体はもう動かない。窒息。幽霊の内部は異界だ。そこに酸素はない。
どこまでが私の気持ちだったんだろうか。実は前世に支配されていたんだろうか。でも、どうでもいいことだ。魂が同じなのだから。親の因果で子が苦しむなら赤の他人なのだから抗弁もできるけれど、同一の魂の因果なら自分のやったことと言うしかない。
こすずさんを溺死させた魂は、生まれ変わってこすずさんに溺死させられる。
正しいか正しくはないかではない。そういうものなのだ。
「次の手はなんて呼ぼうかなあ。『かまっ手』とかにしよか」
こすずさんの手が私の髪を撫でた。
私の手が反射のように動いて、こすずさんの肩をつかんだ。こすずさんの肩をつかめた。私は人であることを離れかかっているから。
私は自分の手にこすずさんの形をよく覚え込ませようとする。
かまって、かまって、かまって。
「いつになっても、身勝手やなあ。きかん子や」
こすずさんもあきれている。うん、わかっている。身勝手なのだ。
どうか、私だけをかまって。
「あんたは自分だけしかないんや。うちに興味があるというより、うちを自分のものにしたいだけやろ」
そう、所有欲。愛らしい人形のコレクターと同じ。
「それで生まれ変わっても、またここに来て。うちに恨まれて囚われる方法を見つけたんや。筋金入りや。どこまでも救いようがあらへん。どうせ魂解放したって、またここに来るんやろ。あんたのせいでうちの人生無茶苦茶や。殺されへんかったら、こんなふうに幽霊やってもなかったやろし」
菊浜は狭いうえに閉じている。東はすぐに鴨川が大きな水堀みたいになっている。北から南に歩いてくる人も五条通が壁になって、それを渡ってはこない。ついつい京阪か地下鉄のどちらかの五条の駅を目指してしまう。客商売をずっとやっていたにしては閉じている。
時の流れも閉じている。
いや、もっともっと閉じないといけない。
私とこすずさんだけがここにいればいい。
流転も運動もほしくはない。
こすずさんをつかむ官能的な手に私はなりたい。
かまって。
「人生も魂も無茶苦茶にしたるわ」




