9 少しの打算と友情
劇場を出ると、看板の下にエレノア様たちの姿があった。
「あれ、なんでエレノアたちがここにいるのさ。二人で帰らなかったの?」
「二人で公園を散歩していましたの。そろそろ出ていらっしゃる頃かと思って、戻ってきたところだったんです」
「まあ!お待たせしてしまい、申し訳ありません」
どのくらい待たせてしまったのだろう。
エレノア様の顔には、ほんの少しだけだが、疲れの色が浮かんでいた。
「いいえ、とんでもございませんわ。私が公園を散歩したかったのです」
「ちょうど天気もよかったからね」
私に気を遣わせまいとしてしているのか、アーサー様も言い添えた。
「ええ。本当に心地よいひとときでしたわ。それに、スミレやデイジーがたくさん咲いていて、綺麗でしたの」
「ああ、とても綺麗だった」
花の美しさを思い出し微笑むエレノア様を、アーサー様は眩しそうに見つめている。
(・・・アーサー様が綺麗だと感じたのは、花ではなく、エレノア様のことね)
アーサー様のエレノア様を想う気持ちは、端々に滲み出ている。
視線や声音、その何気ない仕草にまで表れているのだ。
けれど、当のエレノア様はどうだろう。
あの様子では、とても気づいているとは思えない。
せいぜい「兄と仲の良い友人」ーそれくらいの認識なのではないだろうか。
「アリス様、お体の具合はいかがですか?」
「ありがとうございます。少し休んだら、すっかり良くなりました」
「それは何よりです。それでしたら、これから一緒に夕食でもいかがですか?」
(・・・・・・・・・どうしよう)
体調は、もうほとんど戻っている。
それでも、あまり遅くなれば義父が気にするだろう。
母が駆け落ちしたからか、義父は私の帰りが遅いだけで落ち着かなくなる。
きっと、また大切な人を失うのではないかと、心のどこかで怯えているのだ。
愛情深い義父は、あの悲しみから立ち直れていない。
「予約の時間は少し過ぎましたが、今から向かっても大丈夫だと思います」
「えっと・・・」
「アリスちゃんは倒れたばかりだし、今日は戻ろうか」
ルーク様がそう助け舟を出した途端、エレノア様の顔がふっと曇った。
公園の散歩は口実で、私を待っていたに違いない。
少しだけ迷ったが、急いで食べれば大丈夫だろうと判断する。
エレノア様は、いい人だ。
彼女をがっかりさせたくなかった。
「いいえ。もう具合はよくなりましたから、大丈夫です。よかったら、夕食をご一緒させていただけますか?」
「よかった!ザ・ロイヤル・レードルのフィッシュ・パイは本当に美味しいですからね。アリス様と一緒に食べたかったんですよ」
「俺は、ラムの方がいいな」
「確かにラムの煮込みも美味しいですけど、あの店なら、お勧めは断然フィッシュ・パイです!アリス様は、どちらがいいですか?」
真剣に私に聞くエレノア様が可愛くて、思わず笑みがこぼれる。
本当はラムが食べたかったが、この顔を見ればフィッシュ・パイ一択だ。
「じゃあ、私はフィッシュ・パイで。アーサー様は、何を頼まれますか?」
「私も、フィッシュ・パイにしよう」
「やっぱりそうですよね!デザートには、フルーツタルトを食べましょうね!」
エレノア様は美味しいフルーツタルトを想像したのか、顔をほころばせた。
その顔を見ながら、ルーク様は驚いたように声を上げた。
「へえ!エレノアがそんなことを言うなんて、珍しいな」
「珍しいのですか?」
「ああ。エレノアは小食なんだよ。いつも少ししか食べない」
確かにエレノア様は、ほっそりしている。
「公園の中をあちこち歩き回っていたら、お腹が空いたんです」
「確かにずいぶん歩いたから、私もお腹が空いた」
「そうなのか。じゃあ、二人のためにも早く行こう!」
「ああ、そうだな」
そう言うと、ルーク様はわずかに歩調を速めた。
エレノア様の空腹を気遣ってのことだろうか。
それとも、私の帰りが遅くなるのを思ってのことだろうか。
どちらにしろ、きっと皆に優しいだけなのだ。
◇◇◇
「とても美味しいですわ!」
「本当ですね」
美味しいと評判のザ・ロイヤル・レードル。
噂に違わず、これまで訪れたどの店よりも美味しかった。
フィッシュパイも素晴らしかったが、特にシェフお勧めのクラブサラダは絶品だった。
気がつけば、会話よりも食事の方に夢中になっている。
「そういえば、どうして蟹座の人は優しいの?」
「え?」
「ほら、アリスちゃんが前にそう言っていたよね?」
(・・・・・・絶対、このクラブサラダで思い出したわよね)
銀の皿に盛られたクラブサラダの中央には、飾りとしてカニの爪が添えられていた。
白い身と鮮やかな赤が、緑の野菜の中でひときわ目を引いている。
「おそらく、神話から来ているのではないかと思います」
「神話?蟹座の神話って、どんな話なの?」
「英雄ヘラクレスと怪物ヒュドラが戦うんですよ。ヒュドラを助けようとして、カニが勇敢にもヘラクレスの足をはさむんです」
「へぇ、すごいね。そんなにカニは強いの?」
「いいえ。カニですからね、無力です」
「え?」
「ヘラクレスに、一瞬で踏みつぶされてしまうんです」
ルーク様は、不思議そうに眉を顰めた。
「・・・・・・それって、無駄死にじゃないの?」
「お兄様、それを言ってはおしまいですよ。守る者のために、強大な敵に立ち向かったカニを褒めるところです」
「その健気さを称えられて、星座になったそうです。だから、蟹座は家族や大切な人を守る性質があると言われているのですよ」
ルーク様は何とも言えない表情を浮かべている。
合理を重んじるルーク様には、無力だと分かっていながら立ち向かう行為は、きっと理解しがたいのだろう。
それでも私は、勝てないと分かっていても立ち向かったカニを、愚かだとは思えなかった。
「ただ、正確には、女神ヘラがヘラクレスの邪魔をするために、カニを送り込んだのだそうですけどね」
「えっ?じゃあ、カニは、ヒュドラの友人でも何でもないじゃないか」
「そうなのか?私はてっきり、カニとヒュドラは友人だと思っていたよ」
「書いてある本によって、違うんですよ」
子ども向けの本では、カニは友のために戦ったと語られる。
そうでもしなければ、あまりにも理不尽だからだろう。
「じゃあ、別に蟹座は優しいわけじゃないよね」
「そんなことを言われても、私にもわかりませんよ。解釈はいろいろあるんだと思います」
理不尽に踏みつぶされたカニが、後の世では優しさの象徴として語られる。
人はいつだって、都合のいい物語を選び取るのだ。
「それにしても、ヘラは酷いな。カニ一匹でヘラクレスに勝てるわけないだろうに」
「神話あるあるです。戦力としては無力でも、やけに忠実な妨害者として登場するんですよ。忠誠心とか健気さの象徴だったりするみたいです」
ルーク様は、首を傾げている。
「俺、やっぱり神話とか占いには興味ないかな」
「もうっ、お兄様ったら!」
「ええ。ルーク様は、それでいいと思いますよ」
私がそう言った瞬間、ルーク様はわずかにこちらを見た。
いつもと同じ、柔らかな視線。
けれど、ほんの一瞬だけ。
その奥に、何かを探すような色がよぎった気がした。
(・・・・・・何か、気に障ることを言ったかしら?)
私はただ事実を言っただけだ。
ルーク様は、合理的で現実的な人だ。
見えない不確かなものではなく、ただ事実だけを見つめる。
それは決して悪いことではない。
一瞬身構えたが、ルーク様は何事もなかったかのように、静かに料理へと視線を戻した。
口を開き、カニの身をそっと運ぶ。
ゆっくりと唇を閉じると、小さく頷いた。
「このクラブサラダ、本当に美味しいよね」
「そうですね」
私もクラブサラダを口に運ぶ。
けれど、最近あまり食べていなかったせいか、思ったより早く満腹感が込み上げてきた。
まるで、胃が小さくなってしまったかのようだ。
(・・・・・・アーサー様たちは、食欲旺盛ね)
私たち女性陣の皿には、まだ半分近く残っているというのに、ルーク様の皿はほとんど空だ。
アーサー様に至っては、すべての皿がきれいに空になっていた。
儚げなエレノア様と、華奢な私。
聞こえのいい言葉で片付けているけれど、要するに、食べていないだけかもしれない。
やはり食は、元気の源なのだろう。
「・・・・・・やはり、食べないとだめですね」
「え?アリス様、どうなさったのですか?」
「最近、絵を描くことに夢中になって、食事を疎かにしていたと反省しているのです」
絵を描きたい一心で、空腹を紛らわすように口へ運ぶだけの日もあった。
義母の心配する声も、聞こえないふりをして、アトリエに籠っていたのだ。
「食事を疎かにすると、そんなに体に影響があるのですか?」
「ありますよ。きちんと栄養をとらないと、手足が冷えたり、眩暈を覚えたりしますから」
「そうなのですか?」
「引き取られる前は、麦粥や黒パンばかりで、あまり肉や魚を口にしない生活でしたから、しょっちゅう足の裏がだるくなっていましたよ」
それは、きっと栄養不足だったのだろう。
冬になれば保存食が中心となり、状況はさらに酷くなった。
あの頃はそれが当たり前で、疑うことすらなかったけれど。
貴族と平民の食事は、まるで別の世界のようだ。
「エレノア。これでわかっただろう?きちんと食べなさい」
「え?どうしたのですか?」
咎めるようなルーク様の視線を受け、エレノア様が小さくなっている。
「エレノアは、家で本ばかり読んでいるんだ。そのせいか、食事をパンやお菓子で済ませることが多くてね」
「まあ、そうなのですか」
「本が面白いものだから、食事に時間を取られるのが惜しいのですよ」
「だが、アリスちゃんが言った症状は、お前の症状に当てはまる」
優しさを込めてたしなめる兄と、その優しさをわかっていながら、つい反発してしまう妹。
まるで、私と義兄のやり取りのようだ。
きっと、どこの兄妹も同じなのだろう。
「・・・・・・そうですね。きちんと食べます。でも、お腹が空かないんですよ」
「だらだらと菓子をつまんでいるからだ」
「だって、本が面白くてやめられないんですもの」
「・・・私もそうなので、エレノア様の気持ちはわかりますけどね」
自分にも思い当たる節があるだけに、耳が痛い。
そのとき、穏やかだが、どこか重みのある声が響いた。
「空腹を忘れるほど夢中になれるものがあるのは、悪いことじゃない。だけど、体は替えがきかないのだ」
アーサー様が、ゆっくりと私とエレノア様の顔を見た。
叱られているわけではないが、私は思わず視線を落としてしまう。
「無理をすれば、いずれ夢中になるものさえ失う」
(・・・・・・確かに、アーサー様の言う通りだわ)
夢中になるあまり、空腹を誤魔化し、義母の心配を聞こえないふりでやり過ごしていた。
筆を握る手ばかり大切にして、その手を支える体のことを、後回しにしていた。
その結果が、今日だ。
「食べることも、その大事な時間だ」
アーサー様はそう言って、エレノア様の皿を軽く指で示した。
叱るでもなく、笑うでもなく。
ただ、当然のことを当然として伝える。ーーそんな物言いだった。
その言葉に、エレノア様は小さく、しかし確かに頷いた。
「・・・・・・・・・はい」
私も小さく返事をして、フォークを取り直した。
そして、ゆっくりと味わうように噛む。
「アリスちゃん、無理はしなくていいからね。でも、倒れられたら困るから、ちゃんと食べて」
(・・・・・・本当に、そうだわ)
体を労わることも必要だ。
引きこもって絵ばかり描いていてはいけない。ーーふと、そんな気がした。
「・・・・・・・・・エレノア様、一緒に運動をしませんか?」
「運動?」
「散歩とか。今日みたいに少しでも体を動かすと、お腹も空くでしょう?」
「・・・・・・そうですね。散歩はいいかもしれませんね」
「よかったら、エレノア様のご都合がよいときに、ご一緒しましょう」
エレノア様の天真爛漫な明るさは、どこか好ましかった。
気を遣いながら腹を探られるよりも、正直で、ずっとわかりやすい。
もし一緒に散歩することができたなら、もう少し仲良くなれるかもしれない。
その距離が、今よりほんの少しだけ縮まる気がする。
「アリスちゃん、忙しいんじゃないの?」
「いえ、私も運動不足ですし、ご一緒に散歩できたら嬉しいです」
(・・・・・・描くためにも、自分の体を大事にしないとね)
それに、私が友人の家へに出かけるようになれば、義父たちもきっと喜ぶ。
このドレスだって、無駄にせずに済む。
まさに渡りに船だった。
「じゃあ、休みの日には、私も一緒に歩こう」
「あら、アーサー様までよろしいのですか?お仕事がお忙しいのでしょう?」
「いや、そんなことはない。私も運動不足だ」
(・・・・・・そんなこと、あるわけないわ)
あの体つきで、運動不足なはずがない。
日々鍛えているのは明らかだった。
だが、それを口に出すのは、いささか野暮というものだ。
「じゃあ、休みの日は散歩で決まりだな」
「ああ、そうしよう」
「体力づくりにもなるし、気分転換にもなる。全員にとって悪い話じゃない」
「では、次の休みにでも」
「ええ!楽しみですね!」
次の予定を心待ちにしているエレノア様を見て、アーサー様はどこか嬉しそうに微笑んでいた。
(・・・・・・よかったわ)
モデルを引き受けてもらったときは、アーサー様には少し恥ずかしい思いをさせてしまった。
でもその代わりに、私はちょっとだけ、恋のキューピッドになれたのかもしれない。
愛の神、恋の使者として知られるキューピッド。
金の矢を受ければ恋に落ち、鉛の矢を受ければ恋心を失うという。
もちろん、私は矢を射ることなどできない。
けれど、アーサー様の背をそっと押すことはできたようだ。
なんだか、すごくいい気分だった。
お読みいただきありがとうございます。
誤字のご指摘をしていただき、ありがとうございました。
蟹座の題材としては「ヘラクレスとルレネーのヒドラと蟹」(ペルッツィ)のような作品があります。
他のヒドラ退治の絵だと、カニは小さかったり、存在ごと省かれていたりすることも多いようです。
面白いと思っていただけたら、ブクマや評価をしていただけると嬉しいです。
次回はルーク視点になります。




