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恋を描けない伯爵令嬢 ーその絵は嘘をつかない  作者: 夏つばき


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8/12

8 母の面影


(・・・・・・・・・どうしよう、気分が悪い)

舞台の最中だというのに、脂汗が滲んできたのが自分でもわかる。

この舞台の内容は、脚本を読んでいたからもちろん知っていた。


だが、王女メディアを演じる俳優の演技が、あまりにも真に迫っているのだ。


妻と子を捨て、新たな女性に走る夫イアソン。

夫を許さずに、相手の女性とその父親を殺す王女メディア。

そして彼女は、夫を苦しめるために、ついに自分がお腹を痛めて産んだ子どもまで殺すのだ。


でも、王女メディアは国を裏切り、家族を捨て、帰る場所を失ってまで夫イアソンに尽くしたのだ。

王女メディアの狂気には、きちんとした理由がある。

その理由があるからこそ、メディアを責めきれない。


(・・・・なんとなく、メディアは母に似ているわ)

母もまた、地位を捨て、家族を捨て、帰る場所を失ってまで、父との恋を選んだ。

だが、母は本当に幸せだったのだろうか。


知らない土地、慣れない労働、貧しい生活。

貴族として優雅に暮らしていた母は、さぞかし苦労したことだろう。

それでも、父の愛さえあれば、それも耐えられたのかもしれない。


だけど、亡くなる一年前ごろから、父の帰ってこない日が増えた。

仕事だとは言っていたが、それは本当にそうだったのだろうか。

父が帰らない日が続くたび、母の表情は険しくなっていった。


口元は引き結ばれ、眉間にはしわが寄る。

声は以前よりも冷たく、笑顔はめったに見せなくなった。

家の中には、言葉に出来ないような緊張が漂い、息を潜めなければならないような空気があった。

子ども心に、それが何を意味するのかは理解できなくても、何か恐ろしさを感じていた。


『夫を殺して私も死にます』


エレノア様の言葉が、不意に頭をよぎった。

あの瞬間、心のどこかで笑わなければならない自分と、ぞっとする自分が同居していた。


あの日、窓はどこもきちんと閉められたままだった。

寒かったから当たり前だが、母はいつも、部屋が温まり過ぎると窓を開ける人だった。

父は「せっかく温まった空気を逃がすな」と文句を言ったが、母は「気分が悪くなるから必要なことだ」と言い張った。


貴族として様々な教育を受けた母は、物ごとをよく知っていた。


だが、あの日は違った。

窓は一つも開かず、部屋の空気はひどく重く、息が詰まるようだった。

母の習慣からすれば、ありえないこと。

その異常さが、何かの前触れのように胸に刺さった。


母はいつも通りの仕草をしていたが、どこかぎこちなく、目の奥に影が差していた。

手を動かすたびに、微かに震えが混じっていたような気がする。

口元の笑みは形だけで、声には力がなかった。

部屋の空気と同じく、母自身もどこか息苦しそうだった。


(・・・・・・・・・あれは、本当に事故だった?)

心中を図ったとは考えられないだろうか。

頭の中でその可能性が何度も反芻されるたび、胸の奥がざわつき、呼吸が少し苦しくなる。


あのときの母の表情、窓の閉まった部屋、微かに震えていた手。

思い出すだけで、すべてが不自然で、何かを隠しているように思えてならない。

事故と片付けてしまえば楽になるはずなのに、心のどこかで、それだけでは説明がつかない気持ちが渦巻いていた。


(・・・・・・・・・・・いいえ、やっぱり事故よ)

もし私がロビンと一緒に家を抜け出していなければ、私も死んでいたはずだ。

厳しくも、愛情を注いでくれた母。

母が私を巻き添えにしようとすることなど、あり得ない。


あり得ないとは思う。

だが、舞台でメディアの演技を見ていると、胸の奥がざわつく。

何の罪もない子どもたちを巻き添えにしたその残酷さ。

それが現実に存在することを、彼女は私に突きつける。


母なら違うと、頭では理解していても、心のどこかで揺らいでしまう。

どうして私は、母が違うと断言できるのだろうか。


それとも、母は私が家を抜け出したことをわかっていたのかもしれない。

だからこそ、窓を開けなかったのか。

私が外に出なければ、母たちは死ななかったかもしれない。


舞台の光が一瞬揺らぎ、メディアの目が私とぶつかった気がした。

その瞳には、怒りや悲しみ、そして決意が渦巻いている。

あの日の母の影が、まざまざと重なって見えた。


呼吸が止まりそうになり、手のひらはじっとりと湿る。


「ブラボー!」


観客が立ち上がって盛大な拍手を送っていることに気づき、慌てて立ち上がると、くらりと眩暈がした。

思わず座りこむと、ルーク様が慌てた様子で声をかけた。


「アリスちゃん大丈夫?」

「えっ?あ、ああ、すみません。大丈夫です」


「アリス様、顔色が真っ青ですよ」

「本当だ。医務室に行ったほうがいい」

「そうだな。俺がついて行くよ。アーサーは、このままエレノアといてくれ」


ルーク様の声が、頭の奥にぼんやりと響く。


「いいえ。ちょっと立ち眩みがしただけなので、大丈夫です」

「具合が悪い時は、無理したらだめだよ」


「大丈夫です」

「いいから行こう。ここでもし倒れたら、他のお客様にも迷惑になるからね」

「・・・・・・はい」


他の客の邪魔をするわけにもいかないし、倒れて噂話の的になっても困る。

あくせく働く必要のない貴族にとって、噂話は格好の好物に違いないだろう。


劇場の支配人に話を通してもらい、医務室で休ませてもらうことにした。

医師は私の顔を見つめながら、安心させるように微笑んだ。


「軽い貧血ですね。しばらく横になっていれば、大丈夫だと思いますよ」

「ありがとうございます」


「じゃあ、横になっているといい。何か温かい飲み物を持って来るよ」

「ご迷惑をかけてすみません」

「気にしなくていいから」


ルーク様を見送り、ベッドに横になると、安心したのか、一瞬で意識が途切れてしまった。

最後にかすかに聞こえたのは、舞台からまだ残る観客のざわめきと、拍手の余韻。

その音が、まるで遠くの海のさざ波のように、ぼんやりと胸に広がり、やがてすべてが暗闇に沈んだ。




(・・・・・・・・・・・・あれ、ロビン?)

夢でも見ているのだろうか。


子どもの頃の私とロビンが、雪の庭にいた。

凍った地面に白い息が漂い、ロビンは楽しそうな笑みを私に向けている。

屈託なく笑うロビン。ーー私は、その笑顔が好きだった。


『アリスは、流れ星に何をお願いする?』

『たくさんあって、迷っちゃう。ロビンは?』

『とりあえず「お菓子をたくさん食べたい」かな』

『そうだね』


村での貧しい暮らし。

比較的裕福なロビンの家でさえ、お菓子を口にする機会は少なかった。

貴重な砂糖を使うお菓子は、私たちにとってまさに贅沢品だった。


『あと、王都に行ってみたい。それで、綺麗な服を着て、美味しいものを食べる!』

『それもいいね!』


ロビンの兄から聞く王都の話に、私たちは憧れを抱いていた。

一度でいいから、そのきらびやかな世界を自分の目で見てみたいと、胸をときめかせていた。


(・・・・・・ロビンのお兄さんみたいに、優しいお兄さんもほしいなぁ)

無理な話だとわかっていながら、そんなことを思ったりもした。

ロビンの兄は、私たちがはしゃぎすぎても決して怒らず、困ったときはさりげなく手を差し伸べてくれた。

頭をぽんと撫でられるだけで、不思議と安心できた。


父は優しくはあったが、どこか母に遠慮しているようだった。

母が私を叱ると、父は困ったような顔をして、そっと別室へ向かった。

父はきっと、私を庇えば母を傷つけることになると知っていたのだろう。

その優しさは、誰も傷つけまいとする優しさだった。


けれど幼い私には、それが少しだけ寂しかった。


だからだろうか。

叱られる心配のない、ただ守ってくれるだけの存在に、幼い私はひそかに憧れていたのだ。


でも、一番の願いは、家族が仲良く暮らすことだった。

父が家を空けるようになってからというもの、母の表情は固くなるばかりだった。

以前のように、明るい笑い声が響く毎日を送りたかった。


父が家にいた頃は、夕食の席はにぎやかだった。

母は呆れたふりをしながらも、父の冗談に肩を震わせ、私はその様子を見るのが好きだった。

小さな家いっぱいに、笑い声が満ちていた。


けれど、父が帰らなくなると、その笑いは少しずつ減っていった。

母の顔から微笑みが消え、会話は減り、気づけば家の中に響くのは、ため息ばかりになっていた。


それなのに、いざ星を目の前にすると迷ってしまい、私は星に願いを三回唱えることができなかった。

もしあのとき、家族の幸せを真っ先に願っていたら、父と母は死ななかったのだろうか。


どうして私は、自分の小さな願いばかり考えてしまったのだろう。

子ども心に、もっと楽しいこと、もっと面白いことを望む気持ちが勝っていたのだろうか。

あの夜、三回の願いを星に届けられなかったことが、胸の奥で冷たい石のように重く残っている。


理屈では、あの願いひとつで運命が変わるはずがないとわかっている。

それでも心のどこかで、私の躊躇いがすべてを決めてしまったのではないかと、恐れてしまう。


両親が亡くなり、義父たちと王都へ行く日。

日の光が、雪で白く輝く道に反射してちらちらと揺れていた。

振り返るたび、ロビンは千切れんばかりに手を振り続けていた。


『アリス、元気で!』

『・・・・・・うん、ロビンも!』


何度、ロビンのもとへ戻ろうとして足を止め、振り返ったことだろう。

そのたびに義父は黙って歩みを止め、義母はこらえきれないように目元を拭った。

義兄は、私を離すまいとするように、ぎゅっと手を握りしめていた。


あまりにも私が振り返るものだからだろうか。

ロビンは父親の手を振り切り、私のもとへ駆け寄ると、そのまま抱きしめた。


『アリスの幸せを、星に願うから』

『・・・・・・ありがとう』


その願いのおかげなのか、私は今、幸せに暮らしている。



ふと、人の気配を感じて目を開けると、懐かしい琥珀色の髪が目に飛び込んできた。


「・・・・・・・・・・・・・・・・・・ロビン?」


「違うよ。俺は、ルークだよ」

「・・・・・・すみません。ちょっと昔の夢を見ていたみたいで」


ルーク様の顔を見て、落胆が胸に広がった。

ここにロビンがいるはずがないことくらい、わかっていたのに。

どうやら私は、寝ぼけていたらしい。


「昔の夢?」

「え、ええ。ロビンとふたご座流星群を見てて・・・・」


「ふたご座流星群ってなに?」

「冬の澄みきった夜空に現れる、とても美しい流星群なんです。無数の星が光の筋を引いて、次々と夜を駆け抜けていくんですよ」

「へえ。そんなのがあるんだ」


ルーク様は、いつもと同じく、軽い調子で相槌を打っている。

その声に触れると、今この瞬間こそが現実なのだと、改めてわかる。


「でも、寒いでしょう?」

「すごく寒かったです。私は北にあるノースリナ村に住んでいたので、凍えながら見ていました」


そこまで言って、ふと気がつく。

私はルーク様に何を言おうとしているのだろう。


「そうだろうね。俺は、家で暖かくしていたほうがいいかな」

「今考えれば、そうだと思います。・・・すみません、その時のことが、夢に出てきたみたいで」

「ううん、別に構わないよ」


興味がないのか、それともルーク様なりの気遣いなのだろうか。

軽く受け流し、深くは踏み込んでこない。

その距離感が、妙に心地よかった。


「ご迷惑をかけて、すみませんでした。・・・あの、エレノア様たちはどうされました?」

「ここにいても迷惑になるだろうから、先に帰ってもらったよ」

「すみません。わざわざ予定を合わせて来たのに」

「気にすることはないよ。また具合がいい時に、一緒に集まればいいさ」


「・・・・・・はい。ありがとうございます」


ルーク様の「また」と言う言葉が、なんだか嬉しかった。

絵さえ描ければ友人なんていらないと思っていたのに、幼馴染のロビンの顔を思い出したせいか、少しだけ人恋しくなったのかもしれない。


「飲み物が冷めちゃったから、温かいものをもらってくるよ」

「え?もういいですよ」

「いいの、いいの。待ってて」


明るく笑いながら、ルーク様は軽やかに席を立った。

高い身分のはずなのに、驚くほど腰が軽い。


サイドテーブルに置かれた紅茶に触れると、すっかり冷たくなっていた。

ーー随分と長く、気を失っていたらしい。


目を潰すようにぎゅっと押さえる。

アトリエにこもり、夜更けまで筆を握っていたせいだろうか。

思った以上に、心も身体も擦り切れていたのかもしれない。


瞼の裏の暗闇に星が弾ける。

その瞬きの中で、先ほど見た王女メディアの顔が、淡く溶けていった。


(・・・・・・・・・あれは、事故だったのよ)

すべては私の想像で、思い込みだ。

答えのないことを考えても、仕方がない。

絵さえ描いていれば、きっと忘れられる。


ルーク様が温かい飲み物を持ってきてくれた頃には、気分はもう落ち着いていた。



お読みいただきありがとうございます。

誤字のご指摘をしていただき、ありがとうございました。


三大流星群の一つであるふたご座流星群は、他の流星群と比べて流れる速度がやや遅く、比較的見つけやすいとされています。


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