4 理想のアポロンのために
「では、部屋はここを使うといいよ」
(・・・・・・親切なのね)
ルーク様が部屋の扉を開けると、すでに絵を描くためのイーゼルまで用意されていた。
随分と用意周到で、驚かずにはいられない。
「独身の男女が二人きりというのはよくないだろうから、俺が一緒に部屋に入ろうか」
「ああ、そうだな」
(・・・・・・・・・え?そうなの?)
今まで、そんなことは気にしたことがなかった。
考えてみれば、いつもアトリエにこもり、絵筆とキャンバスだけを相手に過ごしていた私には、誰かと個人的に会う機会などほとんどなかった。
これが、貴族の常識というものなのだろうか。
「お兄様、ひとりだけずるいですわ。アリス様が絵を描くところを、私も一緒に見たいです」
「でも、それではアリスちゃんが集中できないだろう?」
「お兄様がいても、集中できませんよ」
「大丈夫です。静かにしていただけたら、問題はないですよ」
本当なら、二人きりのほうがよかった。
だが、変に誤解を生まないためには、その方が無難だろう。
アーサー様は、まるでエレノア様の反応を気にしているかのように、ちらちらと彼女を見ている。
貴族女性のすることではないかもしれないが、エレノア様を誘ってみる。
「もしよかったら、エレノア様も描きますか?」
「私もですか?絵を描いたことはないのですが・・・」
「描いてみると、楽しいですよ」
「そうですね。・・・では、せっかくですし、描かせてもらいます」
エレノア様の目が、楽しげに瞬く。
その輝きに、ルーク様は少しだけ眉を上げ、わずかに困ったような表情を浮かべた。
「俺は、見てるだけでいいかな」
「わかりました」
アーサー様は、戸惑うように私を見た。
「それで、私はどうすればいいのだろうか?」
「とりあえず、すべてお脱ぎいただけると嬉しいです」
「脱ぐ!?」
「できれば、何もお召しにならない状態で」
「・・・・・・・・・は?」
思いもよらなかったのだろう。
アーサー様は何か言おうとして口を開いたが、結局言葉にならず閉じてしまった。
その横で、エレノア様の瞳が、面白いものを見つけたかのようにきらきらと輝いている。
「ははっ、はははっ!それはまた大胆なお願いだね」
「・・・ルーク。他人事だと思って笑いすぎだろう」
「ごめん、ごめん。まさか、アリスちゃんがそこまで求めるとは思わなくてさ」
「さすがに全裸はないだろう」
「まあ、そうだよな」
(・・・・・・無理な要求だったかしら?)
道徳的な制約の中で生きる女性画家にとって、人体、とりわけ男性の裸体を目にする機会は、ほとんどない。
アポロンを描くため、医学書を片端から読み込み、知識を頭に叩き込んだ。
それでも、実物を見なければ分からないものが、あまりにも多い。
だが、この場の空気を見る限り、全身像は難しそうだ。
「・・・・・・では、上半身だけでも」
「上半身ならいいという問題ではないだろう。異性の裸を見るのは、淑女としていかがなものかと・・・」
「画家として見たいだけなので、他意はありません。どうぞご安心ください」
もっとも依頼主が、どう受け取るかは別問題だが。
そしてなぜか、画家でもないエレノア様がひときわ目を輝かせているが、そこには触れないでおいた。
「たとえそうでも、やはり女性に肌を見せるのはよろしくない」
「そうですか?私は気にしませんけど」
「私は気にする」
「骨格の流れや筋肉のつき方を見たいだけです」
「・・・・・・・・・・・・・」
アーサー様は、困惑したように眉を寄せ、押し黙っている。
ここで機嫌を損ね、「モデルは辞退する」などと言われたら元も子もない。
(・・・・・・・・・仕方がないわね)
やむを得ず、私は譲歩することにした。
「では、肌にシーツをお掛けする形ではどうですか?」
「アリスちゃん。君にとって『裸』は絶対条件なんだね」
「布面積の多い『アポロン』って、見たことありますか?」
「・・・そういえば、ありませんわね」
「い、いや、ちょっと待ってくれ。私にも羞恥心というものがある」
その焦る様子から、彼が実直で節度のある人物であることは伝わってくる。
人前で肌を晒すなど、やはり難しいのかもしれない。
「シャツの前だけはだけさせるのはどうでしょう?」
「・・・・・・それ、いやらしい感じがしませんか?」
「そうですか?」
「すべて見えてしまうよりも、かえって想像を掻き立てられて興奮するよね」
「お兄様の趣味の話は聞いていません」
「失礼な。一般論だ」
(・・・困ったわね)
どうやら、肌をさらすのはよほど抵抗があるらしい。
アーサー様は自分のシャツのボタンを握りしめ、首を振っている。
「では、シャツのボタンを外して、少しだけ覗かせていただく形でも」
「アリスちゃん、それ、余計に恥ずかしいんじゃない?」
「そうですか?」
「そうですよ。むしろ妙に気まずい感じがいたします」
「・・・・・・君たち、私で遊んでないか?」
不信感を滲ませるアーサー様だが、私は真剣である。
「遊んでなんかいませんよ。少なくとも、私は真剣です。女性の画家が人体、とりわけ男性の肌を見る機会はほとんどありません。私は、本物が知りたいのです。骨格だけではありません。筋肉のつき方、皮膚の張り、光と影の落ち方・・・見なければ描けません」
芸術か、破廉恥か。
その判断は私にこそあるはずなのに、なぜ世間は己の価値を私に強いるのか。
理想のアポロンを描くために、その肉体を求めて何が悪い。
「ただ描きたいだけなのに。・・・それなのに、どうしてこんなにも制約が多いのでしょう」
自由に描きたいだけなのに、世間がの常識がそれを許さない。
許されないのなら、自分で道を切り開くしかない。
「私は、完璧なアポロンを描きたいのです」
私の真剣な想いをわかってくれたのだろうか。
エレノア様が、そっとアーサー様へ視線を向ける。
「アーサー様。すべてお脱ぎになって差し上げてはいかがですか?」
「エレノア。さすがに全部は無理だよ。・・・でも、上半身くらいならいいんじゃない?」
「・・・・・・そうだな」
アーサー様は躊躇うようにシャツを掴み、しばし逡巡したのち、ゆっくりとそれを脱いだ。
露わになった骨格と筋肉。
整い過ぎたその均衡に、胸の奥が熱を帯びる。
思わず、心が震えるのを感じた。
「ありがとうございます。では、このように立っていただいてもいいですか?」
自分の体で見本を示してみるものの、どうにもぎこちない。
アーサー様は眉を寄せ、ぎくしゃくと体を動かす。
「ええっと・・・こうか?」
「あ、いえ、そこまで捻らなくても大丈夫です。その、もう少し自然にしていただけたら」
「自然と言われても・・・」
「あははっ、アーサーにそれは無理だよ!むしろ棒立ちで一日中立っておけって言われた方が、まだ楽なはずだ」
「ルーク!」
「ははっ、悪い悪い。でも、具体的に指示を出した方がうまくいくと思うよ」
「では、少し失礼します」
そっと手を添え、アーサー様の身体を導くように動かす。
その間じゅう、彼の頬はうっすらと赤く染まっていた。
(・・・エレノア様とのこと、応援するから許してください)
心の中で、そっと詫びる。
「では、そのまま動かないでいただけますか?」
「わかった」
(・・・・・・・・・私の目に、狂いはなかったわ)
鍛え上げられた筋肉。その均衡。その張り。
これほどの体を目にする機会は、もう二度とないかもしれない。
アポロンは、理想的な肉体の象徴。
その全てを捉えてこそ、初めて近づける。
私は息を整え、鉛筆を握る手に力を込めた。
ーーこの瞬間、すべての感覚が研ぎ澄まされる。
視界にはただ一人。
アーサー様の姿だけが、鮮やかに浮かび上がっていた。
お読みいただきありがとうございました。
面白いと思っていただけたら、ブックマークや評価をしていただけると励みになります。
どうかよろしくお願いいたします。




