3 青に宿る情熱
公爵邸の門をくぐろうとした瞬間、ふと足が止まった。
視線の先に、ルーク様が立っていたからだ。
「あれ、もしかして歩いてきたの?」
「はい。天気もよかったので」
義父は馬車に乗って行くよう勧めたが、春の陽気があまりにも気持ちよかった。
なにより、外を歩けば描きたいものが見つかる。
「ルーク様こそ、どうしたのですか?」
「ああ。春の陽気に誘われて、庭を散歩していただけさ」
「そうなのですね」
まさか私を迎えるために外に出ていたわけではないだろう。
ルーク様の案内を受け、そのまま公爵邸へ足を踏み入れる。
「というのは嘘で、本当はアリスちゃんと話がしたくて、待ちきれなかったんだよね」
「・・・・・・『アリスちゃん』?」
「あれ。食いつくとこはそこなの?『ちゃん』呼びは嫌?」
「・・・いいえ。お好きにどうぞ」
まさか、ほぼ初対面でこんなに親しげに呼ばれるとは思わなかった。
けれど、今日ここへ招いてくれたのは彼だ。
それに身分も違うし、今後深く関わることもないだろう。
目くじらを立てるほどのことでもないと思い、そのまま受け流して前を向いた。
その瞬間、一枚の絵に釘付けとなる。
(・・・・・・・・・なんて素晴らしいの!)
思わず足を止め、そのまま見惚れてしまう。
どうしたら。
どうしたら、こんな絵が描けるのだろう。
「・・・・・もしかして、この絵が気に入った?」
「ええ、素敵ですね。もしかして、この絵を描いたのは『フェルメール』ですか?」
「正解。ネーデルラントという国の市街地を描いたらしいよ」
教会と建物。空と運河。
色数は少ないし、強い原色を使っているわけではない。
でも、時間が止まり、不思議と自分も景色の一部になる感覚がする。
「・・・近づいて、見てもいいですか?」
「ああ、いいよ」
そっと近づく。
光を纏っているように見えたが、近づくと絵の具であることがわかった。
「青が・・・」
「えっ?どうしたの?」
「この絵は、影に青も使われていますね」
「そうなの?」
「だからこそ、こんなにも空は明るいし、水の青は透明に澄んでいるんです。建物が光って見えるのも、多分そのせいですね」
「へぇ、そうなんだ。アリスちゃんも、こういう絵を描くの?」
「描きますよ。でも、残念ながら、こんな技術はありません」
「そうなんだ。でも、青を使えばいいいんだろう?使ってみればいいじゃない」
(・・・出た!お金持ちの金銭感覚のなさ!)
いとも簡単に提案してくれる。
けれど絵の具は、種類によって驚くほど高い。
なかでも青は別格である。
「青の絵の具は、とても高価なんです」
「絵の具なのに?」
「ええ。一番高価なウルトラマリンの原料はラピスラズリですからね。もう少し安いアズライトもありますが、それでも十分に高価です」
「へえ、そうなんだ」
(・・・あまり驚いてないわね)
価値が伝わっていないようなので、具体的に言い換える。
「ウルトラマリンは、金と同じくらいの価値があるんです」
「なるほど」
だが彼は、わずかに眉を上げただけだった。
「この絵は、かなり贅沢な使い方をしています」
「ふぅん、そうなんだ」
高価な青を惜しげもなく使うことで知られる画家、フェルメール。
彼が何を思ってこの絵を描いたのかは、わからない。
けれど、この絵に注がれた情熱だけは、恐ろしいほどに伝わってくる。
この青一色に、どれだけの価値と執念が注ぎ込まれているのか、考えただけで息が詰まりそうになってしまう。
「はっきり言って、フェルメールの『青』の使い方は、狂っています」
「あはは、ははっ!面白いね!」
ルーク様は、楽しげに笑っている。
「アリスちゃんと一緒に絵を見ると、こんなにも見方が変わるんだね。俺、絵の具の値段なんて一度も考えたことなかったよ」
「ルーク様は、お金持ちなんですね。一度でいいから、絵の具の値段を気にせずに描いてみたいです」
「そうなんだ」
思う存分、ウルトラマリンを使えたらどんなにいいだろう。
あの深い青があれば、光も影も、空気さえも、絵の中に息づかせられる気がする。
(・・・ここまで描ける技術はないけどね)
どこまで研鑽を積めばこのような絵が描けるかはわからないが、描きたい。
あの空を、再現したい。
そう思った瞬間、明るい声が後ろから響いた。
「アリス様、ようこそお越しくださいました。この前の夜会では、助けていただきありがとうございました」
振り返れば、エレノア様が優雅に微笑んでいた。
「エレノア様!こちらこそ、お気遣いいただきありがとうございました」
(・・・佇まいはもちろんだけど、エレノア様は心まで美しいわね)
ルーク様から渡された包みには、私が渡したハンカチの他に、美しい刺繍が施された新しいハンカチも添えられていた。
そのさりげない気遣いが、嬉しかった。
「いいえ。こちらこそありがとうございました。アリス様にお会いできることを、朝から楽しみにしていましたの」
エレノア様は、にっこりと笑った。
「兄から聞きましたの。グローブカンパニー劇団の看板やポスターを描いていらっしゃるのでしょう?」
「ええ、そうなんです」
「私、『エリス』のファンなんです。『王女メディア』のポスターを団長さんに頼んで、譲ってもらったんですよ」
「まあ、ありがとうございます」
エレノア様は、にこにこと嬉しそうに看板やポスターの話を振ってくる。
しかし、私にとってその仕事は、ただ生活のためにこなす手段に過ぎない。
本の挿絵や告知絵、看板絵などで、細々と収入をつなぐ日々だ。
油絵という本業にしたい表現はまだ世に知られていないと気づくと、私はどうしても、がっかりしてしまう。
「でも、どうして本名ではなく『エリス』というお名前で活動していらっしゃるのですか?」
「女性だと、どうしても敬遠されがちだからですよ。女性が職業を持つことは好まれませんからね」
「そうですか?私はそうは思いませんけどね」
不思議そうに首を傾げるエレノア様だが、この国では、女性はまだ「家庭に属する存在」と見なされている。
職業を持つことは歓迎されず、ましてや画家となると、芸術家として認めてもらえることは稀だった。
だから、私の正体を知るのは、画商であり義母の親戚でもあるトマス・クロウだけである。
彼は、女性画家である私が顧客に私生活へ踏み込まれる危険を、あらかじめ忠告してくれた。
そのため義父の命により、私の依頼はすべて彼を通すことになっている。
「画商のトマスさんが言うには、女性の画家は社会では歓迎されないそうです。女性だとわかると、依頼内容も限定されてしまいますしね」
「そうなのですか?」
「歴史画や裸体画は、まず無理ですね。今回私にアポロンを依頼した方は、私のことを男性だと思っているようですし」
女性画家である場合、依頼が多いのは静物画や女性、子どもの肖像画だ。
私は自分が女性だと明言していない以上、顔を合わせる肖像画の依頼は断ざるを得ない。
その結果、描けるものは自然と限られ、キャンバスの前に座るたび、自由な表現と現実の制約との間で、胸の奥に小さなもどかしさが芽生える。
「だから『エリス』が私だということは、秘密にしていただけますか?」
「ええ、もちろんですわ」
「わかったよ。あとでアーサーにも伝えておこう」
「ありがとうございます」
理想の肉体を目にして、思わず興奮が口を滑らせた。
だが、この三人なら、軽々しく口にするようなことはないだろう。
「確かに『エリス』だと、男性か女性かわかりませんものね」
「そうなんですよ。それに、元の名前にも似ていますし」
「なるほどね。確かに中性的な名前ってあるよな。『レスリー』や『シドニー』だと性別に迷う」
「そういえば、そうですね。ジェイミーのお母様のお名前は『アレックス』でしたわ。私『アレックス』は男性名だとばかり思っていたので、女性にも使われるとは思っていなかったんです」
「俺は『ジェイミー』という男性を知っているけどね」
「あら、男性の名前でも使われるのですか?」
「一度その性別だと思い込むと、つい信じ込んでしまいますよね」
三人で話込んでいると、背後から規則正しい足音が聞こえてきた。
振り返ると、執事と共に現れたのは、アーサー様だった。
その理想の姿に、思わず息を呑む。
「おや、今日のモデルがようやくお出ましだ」
「アーサー様、お久しぶりですね」
「ああ、久しぶりだね」
アーサー様が、眩しそうにエレノア様を見つめる。
「出迎えもせずに、失礼しました。つい、アリス様とのお話に夢中になってしまって・・・」
「そんなことは、気にしなくていいですよ。アリス嬢とのお話は楽しかったですか?」
「ええ!それはもう!」
満面の笑みで返事を返すエレノア様。
しかし、アーサー様の表情の奥には、かすかな落胆が滲んでいた。
(・・・・・・アーサー様は、エレノア様がお好きなのね)
どうやらアーサー様の目的は、エレノア様に会うことにあったらしい。
私のモデルを引き受けてくれたのは、公爵邸に足を運ぶための口実に違いない。
ルーク様はそんなアーサー様を見ながら苦笑いし、私に向き直った。
「まずは、アーサーにモデルになってもらおう。お茶は、それからでいいかな?」
「ええ、お願いします」
(・・・・・・それこそが、今日の目的よ)
これからこの理想の肉体を描けるのだと思うと、期待に胸が膨らんだ。
同時に、画家としての自分が静かに研ぎ澄まされていくのを感じた。
お読みいただき、ありがとうございました。
作中の絵画はフェルメールの「デルフト眺望」を参考にしています。
専門的な解釈ではなく、物語としての表現を優先していますので、その点も含めてお楽しみいただけたら嬉しいです。
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どうぞよろしくお願いいたします。




