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恋を描けない伯爵令嬢 ーその絵は嘘をつかない  作者: 夏つばき


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1/3

1 プロローグ


『アリス、ふたご座流星群を見に行こう!』


隣に住むロビンが私を誘ったのは、12月半ばだっただろうか。


寒くなると、空気は水蒸気を抱え込めなくなる。

冷えた空気は、余計なものを抱え込まない。

湿り気も、揺らぎも、光を邪魔する粒子も、静かに落としていく。

そんな理屈は子どもの頃にはわからなかったが、冬ほど星が綺麗に見えることだけは知っていた。


『願いを三回唱えれば叶うんだって!兄さんがそう言ってたんだ!』

『そうなの!?』


そう聞くと、私も見たくて見たくてたまらなかった。


でも、近ごろの母はいつも機嫌が悪く、夜に星を見に行きたいなどとは、とても口に出せる気配ではなかった。

この一か月、父は仕事で家を空けている。

「割のいい仕事が舞い込んだ」と言って、画材道具を抱えたまま出ていったきりだ。

家を空けること自体は珍しくない。

けれど、これほど長く帰らないことは初めてで、家の中の空気は、どこか張りつめたままほどけずにいた。


『でも、お母様が許してくれないわ』

『じゃあ、クリスマスイブは?イブなら、おじさんも帰ってくるよね?』


『・・・・・・うん、そうね』


父が帰ってくれば、母の機嫌もきっとやわらぐ。

そう信じて、私は、クリスマス・イブの日を、指折り数えて待った。


仕事が上手くいったのだろう。

イブの夜、父は高級なワインと菓子の箱を抱えて帰ってきた。


けれど、母の表情は少しも晴れなかった。

厳しく思いつめた横顔は、刃物のように鋭く、私はとうとう、何ひとつ言い出せずにいた。


ただでさえ母は、ロビンのことを快く思っていない。

兄を盲目的に敬愛するロビンは、言葉遣いから身ぶりまで、何もかも兄の真似をした。

そのせいで、まだ子どものわりに妙に荒っぽく、どこか大人びていた。


母の隙を見てそっと家を抜け出し、ロビンに謝った。


『ロビン、ごめん。無理そうだわ』

『うちも。父さんに言ったら、だめだって言われてさ。この寒い中、星を見にわざわざ外に行くなんて馬鹿げてるって怒られて』

『やっぱりそうだよね』


二人で大きなため息をついた。

どうして大人は、私たちの気持ちをわかってくれないのだろう。


『・・・・・・でも、見たい』

『うん、そうだよね。私も見たい』


お互い俯いたまま黙り込んだ。

けれどやがて、ロビンは何かを決めたように顔を上げた。


『じゃあさ、二人だけで、こっそり抜け出そう!』

『でも・・・』

『二人一緒なら、怖くないよ!』


ロビンは安心させるように、私の両手をぎゅっと握った。

そのぬくもりに、私も勇気をもらえた気がして、元気よく頷いた。


『うん、そうだね!』


ロビンとそう約束して、私は夜が更けるのを待った。


約束の時間を見計らい、胸の鼓動を押さえながら、そっと居間をのぞいた。

父と母は、暖炉の火に照らされながら、向かい合ってワインを飲んでいた。

その横顔は思いのほか穏やかで、赤い炎がゆらゆらと頬を染めていた。


父も母も、酒が好きだ。

とりわけ母は忙しく立ち働く人だったが、酒が入ると、やがて観念したようにソファへ身を沈める。

その間だけは、家の空気も少しだけやわらぐのを私は知っていた。


今夜なら大丈夫だと、なぜか確信した。

暖炉の火とワインが、両親をしばらく引き止めてくれる。


母が様子を見に来ても気づかれないよう、毛布の下には枕とぬいぐるみを詰め、眠っているふりを整えた。

それから私は、自分の部屋の窓を、音を立てないように押し上げた。


庭へ降り立つと、冷たい空気が頬を刺した。


待っていたロビンが、暗がりの中で小さく手を振る。

私はその手をつかみ、二人で息をひそめたまま駆けだした。


家の灯りが遠ざかり、川のほうから冬の匂いが流れてくる。

河川敷まで、ただ夢中で走った。


あの日は、本当に寒かった。

寒さに震え、二人で身を寄せ合いながら空を見上げていた。

そのとき、何の前触れもなく、ひとすじの光が夜を横切った。


白く、鋭く、まっすぐに。


流れ星というにはあまりにも速く、あまりにもはっきりとしている。

それは願いごとを託すための光ではなく、夜の天蓋を裂き、空に深い傷を刻む刃のようだった。


『アリス!ほら!』

『うん!』


ふたご座流星群は、私が思い描いていたような、やさしく尾を引く光ではなかった。

願いごとを三度となえる余裕もなく、ただ一瞬、夜を裂いて消えるだけの、鋭い閃光だった。


それでも。ーいや、だからこそかもしれない。

その光は信じられないほど美しく、凍える空気も、胸の奥のざわめきも、すべてを照らし出すように眩しく私の目に焼きついた。


『また流れたよ!』

『本当だ!』


言葉が口をついて出たときには、光はもう消えていた。


でも、確かに目にしたことは、胸の奥に刻まれている。

私もロビンも、手を握り合ったまま、ただひたすらに夜空を見上げていた。


凍える空気の向こうで、星は静かにまた瞬く。

そして、瞬くたびに、世界が少しだけ広がったような気がした。


しばらく、何も起きない時間が続いた。

星の流れが止むと、意識が戻る。

ロビンと繋いだ手の指先まで、冷たく痛くなる。


寒さに震えながら「そろそろ帰ろうか」と呟くと、まるで合図のように、夜空を一つの流れ星が横切った。


その繰り返し。

睫毛が凍りそうになるほど寒くても、私たちはただ、じっと夜空を見上げていた。


あのとき、私たちは、どれほどの時間、外にいたのだろう。


一時間か、それとも一時間半か。

往復の時間を含めても、せいぜい二時間ほどだったのではないだろうか。


流石に冷えに負けて、私たちは帰路についた。

凍えた指先を手袋の中で握りしめながら、夜空の残像を胸にしまい込むように、ゆっくりと家へ向かった。


突然、ロビンが小さく声を上げた。


『あ、人だ!』

『隠れよう!!』


人影を見つけ、私たちはそっと木立の影に身を潜めた。

こんな時間に子どもが外に出ているのを大人に見つかったら、大目玉は免れない。


琥珀色の髪をしたロビンは、暗闇で目立つかもしれない。

そう思い、慌ててマフラーをロビンの頭に被せ、髪を覆った。


枝の間から、足音が近づいてくる。

胸の奥がひりひりと痛むほど緊張した。


『意地汚ねぇな』

『いいじゃないか、腹減ってたんだよ』


そんな声が、夜の木立を抜けて通り過ぎて行く。

私たちは息を潜め、じっとやり過ごした。


『・・・・・・・・・行った?』

『うん、大丈夫だと思う』


そっと辺りを見回す。

先ほどの男たちは、影も形もなくなっていた。


風がざわめき、木々の葉が小さく揺れる。

そのわずかな音まで、胸に響くほど緊張が残っていた。


『おばさんに見つからないように入れる?』

『うん。大丈夫だと思う』


窓からそっとのぞく。

父はソファに沈むように眠っている。

母も座ってるが、俯いたまま動かない。

そっと玄関の扉を押すと、鍵は開いていた。


『鍵が開いてる。私、玄関から帰るね』

『わかった。見つからないように気をつけて』

『うん。ロビンも気をつけてね』

『大丈夫!兄さんに、鍵を開けてもらうようお願いしてあるから』


ロビンの兄は、とても面倒見がよく、いつも私たちに面白い遊びを教えてくれた。

王都の話を聞かせてくれたり、凧や糸ゴマを作ってくれたり。

そのひとつひとつが、子ども心に特別な輝きを放っていた。


だから私は、兄のいるロビンが、少しだけ羨ましかった。

羨望と、少しの嫉妬が、胸の奥で混ざり合う感覚を私は覚えている。


『おやすみ、アリス!』

『うん。おやすみなさい』


家に駆け込もうとしたロビンが、慌てて私を振り返った。


『忘れてた!アリス、メリークリスマス!』

『メリークリスマス!ロビン!』


ロビンに笑って手を振り、そっと家の扉を押し開けた。

扉を閉めたとき、風の音がふっと途切れる。


誰も迎えに出てこないことに、私は小さく胸を撫でおろす。

家を抜け出したことは、誰にも気づかれなかったのだ。

あとは、見つからないように自分の部屋に戻るだけ。


家は静まり返り、いつもの夜と変わらない。

変わらない、ーーはずだった。


しかし、どこかが違う。

外は凍えるほど寒かったはずなのに、家の中は妙に暖かく感じられた。

最近は、薪さえ節約していたというのに。


直感に促され、私は居間の扉をそっと、ほんの少しだけ開いた。


暖炉の前のソファに座る、父の背中が見えた。

頭をわずかに傾けている。

その隣で、母も同じように頭を傾けていた。


眠っているのだと思った。

けれど、父ならまだしも、母が居眠りをするなどあり得ない。

貴族の家に生まれた母は、たとえ家族の前であっても、だらしない姿を見せることを好まなかった。


だからこの光景は、胸の奥にひりひりとした違和感を残した。


部屋に足を踏み入れると、部屋の空気の重さが、いつもと違って感じられた。

息苦しいほどではない。

匂いも、変わったものは何もない。


けれど、心の奥がざわつく。

理由はわからない。

それでも、確かに何かが違うと体が告げていた。


『・・・・・・・・・お母様?』


小さな声で母に呼びかけたが、返事はなかった。

そんな必要もないのに、私は足音を殺してそっと近づく。


母は、私が村の子どもたちのように「母さん」と呼ぶことを嫌った。

常に「お母様」と呼ばせるのが、母のしきたりだった。


『・・・・・・母さん?』


こう呼べば、母はきっと「そんな言葉遣いはやめなさい」とでも言いながら、すぐに起き上がるだろうと思った。

私が平民らしい振る舞いを見せると、母は、すぐに決まって飛んでくるのだ。

それなのに、母はまったく反応しなかった。


その瞬間、理由のわからない不安が、胸の奥をかすめた。

火はまだ赤く燃え、薪は多すぎるほど焚かれている。

部屋の中は暖かすぎるほど暖かく、汗がじわりと滲むのを、自分でも感じた。


息を潜めて立つ足の裏まで、なぜか熱を帯びているような感覚がした。


『・・・・・・・・・お母様?』


母の肩にそっと触れる。

部屋は暖かいはずなのに、触れた感触は、思ったよりもずっと冷たい。


『・・・・・・・お母様!起きて!!』


もう一度、今度は大きな声で呼びかける。

震える手で、母を揺すってみる。


それでも、母はまったく目を覚まさなかった。

同じように、父も揺すってみた。

だが、反応はまったくない。


父の背中に触れても、肩を揺すっても、動く気配は一つもなく、時間だけが重くのしかかるようだった。


その瞬間、星を見上げていたあの夜の光景が、なぜか脳裏をよぎった。

あんなに澄んで、静かな夜だったのに。

流れ落ちる星の光は、どこまでも綺麗だったのに。


あのとき、私は一体何を願ってしまったのだろう。

母も父も、その瞳に、もう光は宿っていなかった。


その日、私は隣家が駆けつけるまで、一生分の叫び声を上げ続けた。

声は部屋の壁に反射し、夜の静寂を引き裂いていった。



お読みいただき、ありがとうございました。

よろしければ、最後までお付き合いいただけると嬉しいです。

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