1 プロローグ
『アリス、ふたご座流星群を見に行こう!』
隣に住むロビンが私を誘ったのは、12月半ばだっただろうか。
寒くなると、空気は水蒸気を抱え込めなくなる。
冷えた空気は、余計なものを抱え込まない。
湿り気も、揺らぎも、光を邪魔する粒子も、静かに落としていく。
そんな理屈は子どもの頃にはわからなかったが、冬ほど星が綺麗に見えることだけは知っていた。
『願いを三回唱えれば叶うんだって!兄さんがそう言ってたんだ!』
『そうなの!?』
そう聞くと、私も見たくて見たくてたまらなかった。
でも、近ごろの母はいつも機嫌が悪く、夜に星を見に行きたいなどとは、とても口に出せる気配ではなかった。
この一か月、父は仕事で家を空けている。
「割のいい仕事が舞い込んだ」と言って、画材道具を抱えたまま出ていったきりだ。
家を空けること自体は珍しくない。
けれど、これほど長く帰らないことは初めてで、家の中の空気は、どこか張りつめたままほどけずにいた。
『でも、お母様が許してくれないわ』
『じゃあ、クリスマスイブは?イブなら、おじさんも帰ってくるよね?』
『・・・・・・うん、そうね』
父が帰ってくれば、母の機嫌もきっとやわらぐ。
そう信じて、私は、クリスマス・イブの日を、指折り数えて待った。
仕事が上手くいったのだろう。
イブの夜、父は高級なワインと菓子の箱を抱えて帰ってきた。
けれど、母の表情は少しも晴れなかった。
厳しく思いつめた横顔は、刃物のように鋭く、私はとうとう、何ひとつ言い出せずにいた。
ただでさえ母は、ロビンのことを快く思っていない。
兄を盲目的に敬愛するロビンは、言葉遣いから身ぶりまで、何もかも兄の真似をした。
そのせいで、まだ子どものわりに妙に荒っぽく、どこか大人びていた。
母の隙を見てそっと家を抜け出し、ロビンに謝った。
『ロビン、ごめん。無理そうだわ』
『うちも。父さんに言ったら、だめだって言われてさ。この寒い中、星を見にわざわざ外に行くなんて馬鹿げてるって怒られて』
『やっぱりそうだよね』
二人で大きなため息をついた。
どうして大人は、私たちの気持ちをわかってくれないのだろう。
『・・・・・・でも、見たい』
『うん、そうだよね。私も見たい』
お互い俯いたまま黙り込んだ。
けれどやがて、ロビンは何かを決めたように顔を上げた。
『じゃあさ、二人だけで、こっそり抜け出そう!』
『でも・・・』
『二人一緒なら、怖くないよ!』
ロビンは安心させるように、私の両手をぎゅっと握った。
そのぬくもりに、私も勇気をもらえた気がして、元気よく頷いた。
『うん、そうだね!』
ロビンとそう約束して、私は夜が更けるのを待った。
約束の時間を見計らい、胸の鼓動を押さえながら、そっと居間をのぞいた。
父と母は、暖炉の火に照らされながら、向かい合ってワインを飲んでいた。
その横顔は思いのほか穏やかで、赤い炎がゆらゆらと頬を染めていた。
父も母も、酒が好きだ。
とりわけ母は忙しく立ち働く人だったが、酒が入ると、やがて観念したようにソファへ身を沈める。
その間だけは、家の空気も少しだけやわらぐのを私は知っていた。
今夜なら大丈夫だと、なぜか確信した。
暖炉の火とワインが、両親をしばらく引き止めてくれる。
母が様子を見に来ても気づかれないよう、毛布の下には枕とぬいぐるみを詰め、眠っているふりを整えた。
それから私は、自分の部屋の窓を、音を立てないように押し上げた。
庭へ降り立つと、冷たい空気が頬を刺した。
待っていたロビンが、暗がりの中で小さく手を振る。
私はその手をつかみ、二人で息をひそめたまま駆けだした。
家の灯りが遠ざかり、川のほうから冬の匂いが流れてくる。
河川敷まで、ただ夢中で走った。
あの日は、本当に寒かった。
寒さに震え、二人で身を寄せ合いながら空を見上げていた。
そのとき、何の前触れもなく、ひとすじの光が夜を横切った。
白く、鋭く、まっすぐに。
流れ星というにはあまりにも速く、あまりにもはっきりとしている。
それは願いごとを託すための光ではなく、夜の天蓋を裂き、空に深い傷を刻む刃のようだった。
『アリス!ほら!』
『うん!』
ふたご座流星群は、私が思い描いていたような、やさしく尾を引く光ではなかった。
願いごとを三度となえる余裕もなく、ただ一瞬、夜を裂いて消えるだけの、鋭い閃光だった。
それでも。ーいや、だからこそかもしれない。
その光は信じられないほど美しく、凍える空気も、胸の奥のざわめきも、すべてを照らし出すように眩しく私の目に焼きついた。
『また流れたよ!』
『本当だ!』
言葉が口をついて出たときには、光はもう消えていた。
でも、確かに目にしたことは、胸の奥に刻まれている。
私もロビンも、手を握り合ったまま、ただひたすらに夜空を見上げていた。
凍える空気の向こうで、星は静かにまた瞬く。
そして、瞬くたびに、世界が少しだけ広がったような気がした。
しばらく、何も起きない時間が続いた。
星の流れが止むと、意識が戻る。
ロビンと繋いだ手の指先まで、冷たく痛くなる。
寒さに震えながら「そろそろ帰ろうか」と呟くと、まるで合図のように、夜空を一つの流れ星が横切った。
その繰り返し。
睫毛が凍りそうになるほど寒くても、私たちはただ、じっと夜空を見上げていた。
あのとき、私たちは、どれほどの時間、外にいたのだろう。
一時間か、それとも一時間半か。
往復の時間を含めても、せいぜい二時間ほどだったのではないだろうか。
流石に冷えに負けて、私たちは帰路についた。
凍えた指先を手袋の中で握りしめながら、夜空の残像を胸にしまい込むように、ゆっくりと家へ向かった。
突然、ロビンが小さく声を上げた。
『あ、人だ!』
『隠れよう!!』
人影を見つけ、私たちはそっと木立の影に身を潜めた。
こんな時間に子どもが外に出ているのを大人に見つかったら、大目玉は免れない。
琥珀色の髪をしたロビンは、暗闇で目立つかもしれない。
そう思い、慌ててマフラーをロビンの頭に被せ、髪を覆った。
枝の間から、足音が近づいてくる。
胸の奥がひりひりと痛むほど緊張した。
『意地汚ねぇな』
『いいじゃないか、腹減ってたんだよ』
そんな声が、夜の木立を抜けて通り過ぎて行く。
私たちは息を潜め、じっとやり過ごした。
『・・・・・・・・・行った?』
『うん、大丈夫だと思う』
そっと辺りを見回す。
先ほどの男たちは、影も形もなくなっていた。
風がざわめき、木々の葉が小さく揺れる。
そのわずかな音まで、胸に響くほど緊張が残っていた。
『おばさんに見つからないように入れる?』
『うん。大丈夫だと思う』
窓からそっとのぞく。
父はソファに沈むように眠っている。
母も座ってるが、俯いたまま動かない。
そっと玄関の扉を押すと、鍵は開いていた。
『鍵が開いてる。私、玄関から帰るね』
『わかった。見つからないように気をつけて』
『うん。ロビンも気をつけてね』
『大丈夫!兄さんに、鍵を開けてもらうようお願いしてあるから』
ロビンの兄は、とても面倒見がよく、いつも私たちに面白い遊びを教えてくれた。
王都の話を聞かせてくれたり、凧や糸ゴマを作ってくれたり。
そのひとつひとつが、子ども心に特別な輝きを放っていた。
だから私は、兄のいるロビンが、少しだけ羨ましかった。
羨望と、少しの嫉妬が、胸の奥で混ざり合う感覚を私は覚えている。
『おやすみ、アリス!』
『うん。おやすみなさい』
家に駆け込もうとしたロビンが、慌てて私を振り返った。
『忘れてた!アリス、メリークリスマス!』
『メリークリスマス!ロビン!』
ロビンに笑って手を振り、そっと家の扉を押し開けた。
扉を閉めたとき、風の音がふっと途切れる。
誰も迎えに出てこないことに、私は小さく胸を撫でおろす。
家を抜け出したことは、誰にも気づかれなかったのだ。
あとは、見つからないように自分の部屋に戻るだけ。
家は静まり返り、いつもの夜と変わらない。
変わらない、ーーはずだった。
しかし、どこかが違う。
外は凍えるほど寒かったはずなのに、家の中は妙に暖かく感じられた。
最近は、薪さえ節約していたというのに。
直感に促され、私は居間の扉をそっと、ほんの少しだけ開いた。
暖炉の前のソファに座る、父の背中が見えた。
頭をわずかに傾けている。
その隣で、母も同じように頭を傾けていた。
眠っているのだと思った。
けれど、父ならまだしも、母が居眠りをするなどあり得ない。
貴族の家に生まれた母は、たとえ家族の前であっても、だらしない姿を見せることを好まなかった。
だからこの光景は、胸の奥にひりひりとした違和感を残した。
部屋に足を踏み入れると、部屋の空気の重さが、いつもと違って感じられた。
息苦しいほどではない。
匂いも、変わったものは何もない。
けれど、心の奥がざわつく。
理由はわからない。
それでも、確かに何かが違うと体が告げていた。
『・・・・・・・・・お母様?』
小さな声で母に呼びかけたが、返事はなかった。
そんな必要もないのに、私は足音を殺してそっと近づく。
母は、私が村の子どもたちのように「母さん」と呼ぶことを嫌った。
常に「お母様」と呼ばせるのが、母のしきたりだった。
『・・・・・・母さん?』
こう呼べば、母はきっと「そんな言葉遣いはやめなさい」とでも言いながら、すぐに起き上がるだろうと思った。
私が平民らしい振る舞いを見せると、母は、すぐに決まって飛んでくるのだ。
それなのに、母はまったく反応しなかった。
その瞬間、理由のわからない不安が、胸の奥をかすめた。
火はまだ赤く燃え、薪は多すぎるほど焚かれている。
部屋の中は暖かすぎるほど暖かく、汗がじわりと滲むのを、自分でも感じた。
息を潜めて立つ足の裏まで、なぜか熱を帯びているような感覚がした。
『・・・・・・・・・お母様?』
母の肩にそっと触れる。
部屋は暖かいはずなのに、触れた感触は、思ったよりもずっと冷たい。
『・・・・・・・お母様!起きて!!』
もう一度、今度は大きな声で呼びかける。
震える手で、母を揺すってみる。
それでも、母はまったく目を覚まさなかった。
同じように、父も揺すってみた。
だが、反応はまったくない。
父の背中に触れても、肩を揺すっても、動く気配は一つもなく、時間だけが重くのしかかるようだった。
その瞬間、星を見上げていたあの夜の光景が、なぜか脳裏をよぎった。
あんなに澄んで、静かな夜だったのに。
流れ落ちる星の光は、どこまでも綺麗だったのに。
あのとき、私は一体何を願ってしまったのだろう。
母も父も、その瞳に、もう光は宿っていなかった。
その日、私は隣家が駆けつけるまで、一生分の叫び声を上げ続けた。
声は部屋の壁に反射し、夜の静寂を引き裂いていった。
お読みいただき、ありがとうございました。
よろしければ、最後までお付き合いいただけると嬉しいです。
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